第38話 衝撃
「……ふふ。良いじゃない、光。」
「……まあ。」
背後から掛けられた母の言葉に、光は照れ隠しのようにぶっきらぼうに返事をした。
なんとも言えないくすぐったい気持ちになりつつ、眼の前の鏡を見つめる。
いつも使っている、洗面所の鏡。
その中に映っているのは、見慣れない姿の自分で。
短くなった髪に、触れる。
セットしてあるためか、指にはいつもと少し違う感触が伝わってきた。
長めだった前髪が短くなって、視界がひらけたような。
でも、遮るものがなくて眩しいような、心もとないような。
……端的に言うならば、すごく落ち着かなかった。
微妙な面持ちで、髪をいじる。
「そんな顔しないの。似合ってるんだから。」
光の表情に気付いたのか、母にそう言われる。
鏡越しに目をやると、母は光を元気づけるようにニコリとサムズアップしてみせた。
きっと光の不安が伝わってしまったのだろう。
光はふぅと息をついた。
……それにしても、似合ってる、ねえ。
鏡の中の自分に目を戻す。
短髪というほどではないが、程よく短く切られた髪。
軽くセットしてあるおかげで、前までの自分にあった野暮ったさはかなり薄れている気がする。
清潔感や、単純な見た目なども前より随分とマシになっているだろう。
……ただ、なんというか。
いわゆるイメチェンをしたからか、妙な気恥ずかしさがあって。
引かれたりはしない……と思うけれど。
「俺、今日これで行くの……?」
光は、今更すぎる弱音を吐いた。
しかし今更弱音を吐いたって、切ってしまった髪は戻っては来ない。
切る前に、もう少し慎重になっておけば……。
「なに怖気づいてるのよ。」
母に背中を叩かれて、光は思わずため息をついた。
「だってさぁ……。」
「弱音を吐かないの。ほら、元気だして。」
思わず吐き出しかけた弱音は、母によって遮られる。
強引だが、光を元気づけるためなのだろう。
母らしいといえば、母らしいかもしれない。
「零華ちゃんもきっと喜ぶわよ。」
畳み掛けるように、母が言う。
……そうだろうか。
果たして零華は、喜んでくれるのだろうか。
きっとマイナスな感情は抱かない……と、信じたいところだ。
……ん?
あることに気が付いて、光はピシッと固まった。
鏡越しに背後を見ると、母がニコニコ……いや、ニヤニヤしている。
……。
なんで、髪を切ったのかとか。
今日、誰と花火大会に行くかとか。
そんなこと、一言も言っていないのに。
”零華ちゃんもきっと喜ぶわよ”
先程の母の言葉を、脳内で反芻する。
全部、お見通しみたいだ。
そんな結論に至る。
はぁ、とため息を付いた。
……当たり前のように、全部バレているのが恥ずかしい。
なんで分かったのか……とは、聞かないけれど。
”だって光のことだから”とか言われそうだから、聞かないけれど。
光は目をそらして、頬をかいた。
母の微笑ましそうな視線を無視して、もう一度鏡の中の自分を見た。
紺色の浴衣……母が家の奥から、嬉々として引っ張り出してきた浴衣を着て、髪を切ってセットまでしたその姿は、どうみても気合十分で。
……というか、気合が入りすぎている気がして。
引かれないだろうか。
そんな不安と恥ずかしさが、集合時刻が近づいてくるにつれてどんどん大きくなっていく。
なんだか、気分が果てしなくブルーだ。
勢いで髪を切って、勢いで浴衣を着て。
そして冷静になって自信を無くした自分が、情けない。
腕にはめた時計に目をやる。
もうすぐ、家を出ないといけない。
はぁ、とため息を付いた。
零華に会い、この姿を見られると思うと、いたたまれない気持ちに襲われる。
しかし、そうはいっても、今更どうすることもできなくて。
「もう……シャキッとしなさいよ。」
母に言われて、光は、今日何度目かわからないため息をついたのだった。
祭りの会場から少し離れた公園で、光は空を見上げた。
夏とはいえ、この時間帯にもなると太陽もだいぶ傾いている。
雲は薄くオレンジ色に色づいていて、空は西から明るく照らされていた。
「綺麗だなぁ……。」
思わず呟く。
夏はあまり好きではないが、この夏特有の空模様は嫌いではなかった。
夏にしては冷たい風が、頬を撫でる。
会場から少し離れいているからだろうか。
大通りから少し外れているからかもしれない。
あまり人は見当たらない。
居心地の良い静寂の中、遠くから聞こえてくる楽しそうな声と、虫たちが奏でる夏の音色だけが鼓膜を優しく震わせる。
先程まで覚えていた緊張も、いつの間にかほぐれていた。
「なあ、青空。」
小さくあくびをした光は、なんとなく声の方に目を向けた。
「なに?おじいちゃん。」
そこには、小学校高学年とおぼしき子と、その祖父らしき人が並んで歩いていた。
「なにか食べたいものでもあるか?」
その様子を見て、光はふふと笑みをこぼした。
「う〜ん……。あ、そうだ。綿菓子食べたい!」
思い出すなあ、と呟く。
「そうか、綿菓子か。じゃあ、後で買ってあげよう。」
「ありがとう、おじいちゃん!」
光、零華、そして親たちで、毎年のように夏祭りに行っていたことを思い出す。
あれは、二人がまだ小学生だった頃だろう。
こうして、親たちに食べ物をねだっていたものだ。
「あ、おじいちゃん。若葉の分も買おうよ!若葉、綿菓子が大好きなんだ。」
「そうかそうか。若葉たちは花火の前に来るんだったな。じゃあ、その時にまた買っておこう。」
遠ざかっていく2つの背中を眺めて、懐かしい気持ちにかられる。
柔らかな笑みを浮かべて、光は空を見上げた。
先程よりも、少しオレンジ色が広がっただろうか。
淡いグラデーションで塗られた空が、見ていて心地よかった。
零華は、今どうしているのだろうか。
ふと、思って腕時計に目をやる。
まだ、集合時間までは時間がある。
準備とかにも時間がかかるのだろう。
あと15……いや、20分くらいで来るだろうか……。
「あ、あの……」
その時、近くで声がして、光は目を上げた。
「ひ、かる?」
目を上げて、動けなくなる。
声をかけられたのも忘れて、ただ目の前の人を見つめた。
脳天からつま先まで、稲妻が走り抜けたような気がした。
「零華……。」
目の前のその人の、名前をつぶやく。
目の前のその人を、食い入るように見つめる。
もう何回だって見てきたはずの、その姿。
見慣れた人。
その姿を見ただけで衝撃を受けるようなことは、流石にもう無いと思っていた。
でも、それは間違いだった。
初めて出会った日に負けないくらいの、衝撃。
綺麗だ。
そんな月並みな感想しか出てこない。
でも、そんな月並みな感想では到底表せないから、もどかしい。
まるで、おとぎ話の世界から出てきたようだ。
零華の姿が、そんな感想を光に抱かせる。
それくらい、綺麗だった。
夏の夜の空のような落ち着いた色味、そして美しく咲く花々に彩られた浴衣に身を包んだ零華は、あまりにも……あまりにも綺麗だった。
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