第36話 大好き






*零華視点






 零華は2ヶ月、光を避け続けた。

 思い返せば光もまた、零華を避けていたのだろう。


 お互いを避けあった二人に、共に過ごす時間ができるわけがなかった。


 光が熱を出した日から、一言も話さぬまま……二人の距離が、段々と遠ざかっていったのも当然のことであった。


 このまま、高校を卒業して、大学に行って。

 住んでいる家も、いずれ離れ離れになって。

 

 どこにでもいる、ただの”昔仲が良かった人”になるんじゃないか。


 そんな恐れが、零華の胸を締め付けて。

 でも、光のため、そして未来の自分のためにも、こんな想いは捨てなくちゃと自分に言い聞かせて。


 でも、でもやっぱり、忘れられそうになかった。


 授業中、休み時間、放課後……いつも、光を目で追っている自分が居た。


 自分には光が必要なんだと、そんなわかりきった……でも、目を背けようとしていたことを突きつけられているようで。


 神様、なんでこんなにもむごいことをするんですか?


 辛くて、でも学校にはいかなくてはならなくて。

 みんなに期待されている、”完璧”な笑みを、振る舞いをしなくてはならなくて。


 昔から、”零華”を見てくれる人は、……完璧美人”ではなく”零華”を見てくれる人は、光しかいなかった。


 その光が隣にいないのに、完璧美人を演じるのは苦しくて。

 

 なんで、こんなことしてるんだろうって。


 元はといえば、光がまた傷つかないように、軋轢を生まないように”完璧”になろうとしたのに。


 なんで、光がそばにいなくなってもまだこんなことをしているんだろうって。


 虚しくて、辛くて。

 でも、みんなの期待を裏切ってまで、今更”自分”を出す勇気も気力もなかった。


 幸い、その辛い期間は半月ほどで終わり、夏休みに入った。


 しかしやはり素の”自分”を出す機会はなく、”榎下零華”という人格が消えていくような恐怖に晒された。


 でも、それを打ち明けられる相手など居るわけもなくて。

 

 母には、言えない。

 最近光の家に行っていないという事実だけで、もう既に心配をかけているというのに。

 これ以上の心配などかけられなかった。


 空虚な日々が過ぎていって、零華の心は少しずつ蝕まれていくようだった。


 いつの間にか、2ヶ月近くが経っていた。


 ……今までの人生で一番空虚な誕生日が訪れた。


 8月20日。


 1年に1度の、かけがえがないはずの日。


 夏休み最後の楽しみだったはずの日。


 光に祝ってもらえる……いや、もらえていた日。


 そんな特別な日なのにも関わらず、零華の隣に光はいなかった。


 ああ、もう会えないんだなって。

 誕生日にも会えないのだからって。


 そう、思ってしまった。


 泣いて、泣いて。

 そして、気付いたらこの公園にいた。


 なぜ、こんなところに来てしまったんだろうって、そう思った。

 

 だって、ここは光との最初の思い出の場所で。

 雨の中泣いていた零華を、光が抱きしめてくれた場所で。


 零華が光を好きになったきっかけの場所だから。


 こんなところに来たって、心が痛いだけなのに。

 思い出して、苦しくなるだけなのに。


 そう思っても、足はブランコへと向かってしまって。


 一番の、思い出の場所に向かってしまって。


 また泣きそうになった零華の目に飛び込んできたのは、俯いている光の姿だった。







「私は、私は離れたくないよ。」


 雨は、相変わらず止む気配がない。

 

 とっくに身体は冷え切っているだろう。

 多分、そろそろ家に帰らないと本格的に風邪を引いてしまう。


 分かっているけれど、離れる気になどとてもなれなかった。


 光の顔は、見れない。

 だって、きっと、光には見せられない顔をしているから。


「もう、もう、会えないかと思った。」


 こんな泣き言、光に聞かせたくはない。

 

 でも、涙は頬を伝うし、言葉は喉をするりと通り抜けていく。


 光が、さっきまであんなにも真っ赤になっていた光が、優しく背中を撫でてくれているのが憎くて。そして嬉しくて。


 2ヶ月近く堪えていたもの全てが、溢れてしまいそうだ。


「もし、会えなくなったら……もし、光が急に引っ越したら、もし光に恋人ができて私が邪魔になったら、もしこのまま会えなくなったらって……。」


 光の肩に顔を埋め、ぎゅっと、ぎゅっと抱きしめる。


 2ヶ月もの間ぽっかりと空いていた胸の穴が、塞がれていくような。

 

 足りないピースが、ピタリとハマるような。


 そんな、不思議な感覚を覚えた。


「ごめん、零華。」


 その声が、その体温が、心地よい。

 そして、切ない。


「もうはなれないで、光。」


 駄々をこねるように、言う。

 

 面倒だと思う。

 自覚は、ある。


「離れないよ。……俺も、離れたくないから。」


 でも、そんな面倒な自分も、光が受け止めてしまうから。


 完璧じゃない自分でも、光は受け入れてくれるから。


「もう、離れないで。零華。」


 光が、同じように零華を求めてくれるから。


 泣きたくなる。

 

 あったかくて、泣きたくなる。


 冷たい雨に打たれているというのに、心が温まっていく。


「うん、離れない。私も、離れないよ。」


 離れないと、言い合う。

 それはつまり、ずっと一緒に居ると誓い合うということで。


 ずっしりと重かった零華の心が、それだけでふわりと軽くなる。


 ……ずっと一緒、なんて、気休めに過ぎない。

 

 この先、何が起こるかわからない。

 それにいつか、100年も経たないうちに、二人は離れ離れになるのだろう。


 ずっと一緒なんて、ありえない。


 それは、分かっている。

 

 でも、そんな気休めのはずの言葉が、二人の人間を……泣いていた二人の人間を、笑顔にさせる。


 だから、だからきっと、人は言葉を交わすのだろう。

 家族と、友人と、もちろん愛する人と……様々な人と、声を掛け合うのだろう。


 だって、そうしていれば、いつかきっと幸せが舞い降りてきてくれるから。


 言葉の魔法で浮かされている零華は、少し体を離してふふっと光に笑いかけた。


 光も、それに応えるように笑みを浮かべた。


「零華。」


 光の声が、鼓膜を震わす。


 どくん、と心臓が飛び跳ねた。


 今更、緊張している自分に気付く。


 光の背中に回している手に、汗をかいていることは絶対にバレたくない。

 きっと雨に誤魔化されているとは思うが。


 それでは、頬が赤いのはバレていないだろうか。

 いや、こっちはきっとバレているに違いない。

 

 だって、こんな至近距離だから。


 でも。


「零華、遅くなってごめん。」


 でも、そう言う光の顔は、あまり赤くない。


 なぜだろうか。


 引っかかる。

 なんだか、引っかかる。


 光が、ぱあっと眩しい、心からのものであろう笑みを浮かべた。


 一世一代の告白とは思えないその表情は……。


「遅くなってごめん。零華、誕生日おめでとう」


 ……ふう、と。


 自分の力が抜けるのを感じた。


「プレゼントは、一応準備したんだけど家にあって……また今度渡す。ごめん。」


 誕生日……いや、確かに誕生日だけれども。

 祝われて然るべき日だけれども。


 なんだか、ぐちゃぐちゃな気分だ。


 別に、そんなに鈍感ではないだろうに。


 再会できた嬉しさから空回りしているのだろうか。


 それとも、ただヘタレなだけなのだろうか。


 無性に、腹が立つ。

 でも、プレゼントを”一応準備してある”ということが、嬉しくて……そう思ってしまうことが、悔しい。


 光の服を、ぎゅっと握った。


「ありがとう、光。」


 なんと言ってやろうか。


 感謝の言葉に続く小言に相応しいフレーズを探す。


 でも。


「……ねえ、零華。」


 少し躊躇うような口調が気になって、顔を上げた。


 顔を上げて、息を止める。


 心臓が、もう一度ドクンと跳ねたのを感じた。


 光と、目が合わない。


 だって、光が目をそらしているから。


「今度の土曜日、さ。」


 光が、目線を上げた。


 目と目が、パチッと合う。


 それだけで、頬が真っ赤になるのを感じた。


「花火大会、あるんだ。」


 光の口から出てきたのは、予想外の……でも、なんとなく言いたいことが分かる言葉で。


 どくどくと、心臓が早鐘を打っている。


「一緒に、行こうよ。」


 それはずるいと思う。

 でも、やっぱり嬉しくて。


 ぐるぐると渦巻く感情は、しかしやがてひとつの言葉となって零華の口を飛び出した。


「うん……!」


 心が、羽のように軽い。


 幸せって、こんな感情を表すためにあるのだろう。


 本当に。


 本当に、光が。


 大好きだ。

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