第33話 出会った日のように
ぴちゃ、ぴちゃ、と。
足音が、密やかに鳴った。
雨粒が地面を打つ音に、掻き消されてしまいそうな小さな音なのに。
光の脳内に、直接響いているようだ。
呆然と、前を見つめる。
零華が、ゆっくりとこちらへ歩んできている。
その前髪は、光のそれと同じように額に張り付いている。
その服は、濡れていて。
靴は、泥を被っていた。
光と同じように、惨めな格好。
そのはずなのに。
零華は、どうしても輝いて見えた。
その目が、どこまでも澄んでいるからだろうか。
その表情が、どこか神秘的な……読めないけれどまっすぐな表情だからだろうか。
その睫毛に光る雨粒が、キラリと光っているからだろうか。
それとも、光が零華を好きだからだろうか。
分からない。
いや、違う。
多分、全部ひっくるめて、輝いてみえるのだ。
いつも、近くにいて。
でも、どこか遠くて。
自分には、手の届かない存在に思えて。
でも、どうしても欲しくて。
いつも光の心をぐちゃぐちゃにする、その姿が。
どうしようもなく、眩しく思えるのだ。
見惚れる。
同時に、胸が痛む。
目頭が、熱くなる。
光は唇を、耐えるように引き結んだ。
ぼやけた視界。
零華が艷やかな唇を開いたのが、おぼろげに見えた。
「光。」
やめてほしい。
その声で、その優しい声で、名前を呼ばないでほしい。
鼻の奥が、ツンと痛む。
拳をぎゅっと握りしめた。
「光。」
零華が、目の前にいる。
たぶん、気付かれている。
もう、雨にも誤魔化せそうになかった。
赤くなった目。
溢れかけている涙。
抑えたような、鼻を啜る音も。
全部、見られている。
聞かれている。
情けなくて。
でも、何かが喉をせり上がってくるようで。
唇を噛む。
光は今、酷い顔をしているだろう。
とてもではないけれど、零華に見せたい顔ではない。
なのに、目が離せなかった。
零華の目から、感情は読み取れない。
どんな思いで、どうしてここにいるのか。
分からない。
知りたい。
「なんで……」
掠れた、震える声で問いかけた。
いや、問いかけようとした。
でも、その思いが言葉になることはなかった。
だって。
だって、零華の顔が急接近してきたから。
あっと思う暇もなかった。
ふわり、と零華の香りが鼻腔をくすぐる。
胸に、背中に零華を感じる。
耳元で、少し早くなった息遣いが聞こえた。
先程まで灰色がかって見えていた景色が、公園の木々が。
途端に、鮮やかに色づいて見えるようになった……のは、気のせいだろうか。
抱きしめられている。
光がそう理解したのは、幾許か時間が経ってからのことだった。
「れい、か?」
困惑しきった声が、口からこぼれる。
雨に濡れて冷えた身体が、人肌に触れてじんわりと熱を取り戻していくようだ。
自分のそれより少し小さい零華の身体に、包みこまれて。
ぎゅっと、しっかりと、存在を確かめるように抱きしめられて。
情けないことに、鼻の奥がツンといたんだ。
一瞬クリアになったはずの視界も、あっという間に涙のベールに覆われて。
唇を噛んだ。
ぐにゃりと歪んで見える風景を、睨む。
自分から離れたくせに。
零華の誕生日に、零華との思い出の場所にいるのを見られて。
零華に泣いていた顔を見られて、抱きしめられて。
もう、プライドはぐちゃぐちゃになっていた。
だからこれは、かすかに残ったプライドの残骸の、最後の、せめてもの抵抗であった。
抱きしめられて、泣くとか。
情けないから。
零華の前では、もっとしっかりしていたいから。
拳をぎゅっと握りしめる。
泣かない。
だって、だって。
恥ずかしい。情けない。
それに、戻れなくなるから。
このまま零華の腕の中で泣いてしまえば、後戻りはできない気がしたから。
そう思うのに。
目頭が、熱くなる。
涙が、粒となって目からこぼれ落ちそうになって。
光はとっさに、零華から離れようとした。
しかし、零華は離してくれなかった。
身を離そうとしたはずなのに、逆に身体を引き寄せられる。
首元に、温かい吐息を感じる。
零華と体温を共有している……そんな錯覚を覚えるほど、ぴったりと密着していて。人肌のぬくもりが、伝わってきて。
目の端に溜まっていた涙が、水滴となってポツリと零華の服に落ちた。
歪んでいた視界が、再びクリアになって。
でも、すぐにまた涙で覆われる。
もう、止まらなかった。
頬を、とめどなく涙が伝う。
押さえたような嗚咽が、漏れる。
小さなその音はしかし、10cmと離れていない零華の耳にしっかりと届いているだろう。
雨にも、かき消せそうになかった。
零華の腕に、ぎゅっと力が入ったのを感じる。
「もう、離さない。離したくないよ。」
耳元で、零華がつぶやいた。
どこか、泣きそうな声だった。
「このまま光が離れていくかもって怖かった。だから、捕まえておくんだ。」
その言葉に込められた感情は、意味は。
光の暗く冷えた心を、温かく照らすようで。
嗚咽を抑えることも、難しい。
零華の肩に、顔を押し付ける。
「そうしないと、光はまた私から離れていっちゃうから。」
しっかりと、抱きしめられている。
捕まえられている。
きっと、もう離してはくれない。
そんな気がした。
零華の服を、雨が、涙が濡らす。
零華が光を離さないならば。
光も、零華を離したくなどなくて。
恐る恐る、零華の背中に手を回す。
そのどこか華奢な体を、きゅっと抱きしめた。
「ねえ、光。」
しばらくして、そうつぶやいた零華の声は。
「もう離れて行かないでよ。」
そう言った、零華の声は。
先程までと違い、掠れていて。
どこか縋るような声だった。
不安。
それが、ひしひしと伝わってくる。
自分が、情けなかった。
でも。
「光じゃないとダメなんだ。光がいないと、ダメなんだよ。」
涙が混じったような、その声は。
まぎれもなく、助けを求めるような声音で。
ここまで言わせた罪悪感。
自己嫌悪。
そんなものも、感じるけれど。
呼吸が、楽になる。
心に突き刺さっていた大きな棘が一つ、抜けたように。
心が、楽になったのを感じた。
”お前さえいなければさあ……”
その声は、光自身が思っていたよりもずっとずっと深く、心を抉っていたらしかった。
「俺でいいの……?」
「光がいい。」
思わず言葉になった思いは、すぐに零華の言葉で溶かされる。
あの日からずっと。
2年前からずっと、自分はいらない人間なんじゃないか……そんな思いが、胸にこびりついていた。
ずっと、必要とされたかった。
でも、もし本当は必要とされていなかったら……他の人でもよかったら……。
怖くて、とても踏み出せなかった。
でも、零華はこうして、光がずっと欲しかった言葉をくれた。
溢れた涙が、雨とともに零華の服を濡らす。
「ごめん……」
ぽつりと。
謝罪の言葉が、口をついて出る。
勝手に離れてごめん。
零華の気持ちをないがしろにしてごめん。
自分の気持ちを無視して、ごめん。
様々な色のごめんが、一つとなってこぼれ出る。
もちろん、その全てを口にしたわけではない。
しかし、その全てが、零華に伝わっている。
不思議と、光にはそう思えた。
首を振る気配がして、零華が光を抱きしめ直す。
「ううん。」
多分、泣いているんだと思う。
その声が、抱きしめている身体が、その存在が。
どうしようもなく、愛おしい。
「俺も、零華と一緒に居たい。」
心に秘めていた言葉が、言わないようにしていた言葉が、自然と喉を通り過ぎた。
「俺も、零華がいい。」
零華の腕が温かく光を包み、強張った心を溶かしていく。
光は零華の肩に顔を埋めた。
零華の背中に回した腕に、力を入れる。
零華の心も、きっと、光のと同じように冷え固まっていたのだと思う。
だから。
その心を、自分が少しでも溶かせていたら、それは、とても幸せなことだ。
零華を抱きしめて、零華に抱きしめられながら。
光は、そう思った。
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