二人の想い
第32話 雨の公園
その事件が起きて間もなく、光は転校した。
あんな事があったというのに、なんでもないようにクラスメイトと顔を合わせることなどできなかった。
そして何より、佐藤と……そして零華と顔を合わせたくなかった。
中学3年生の、夏前のことであった。
後で聞いた話だが、零華も学校に行けない日が続いたらしい。
毎日のように告白を受けていた明るく活発な美少女……その活発さが少し薄れたのも、間違いなくあの一件がきっかけだった。
二人は半年ほど顔を合わせなかった。
どんな顔をして会えばよいか、分からなかったから。どう思われているのか知るのが、怖かったから。
多分、零華も同じ気持ちだったのだろう。
光は現実から逃げるように勉強に没頭した。
それまでは勉強よりもゲームのほうが好きな人間だったが、その時期だけは違った。
”零華ちゃんもこの高校を受けようとしてるみたいよ。”
母から気を遣ったように言われた日、光は1日中思い悩んだ。
気まずい。どんな顔で会えばいいか分からない。怖い。
マイナスな感情が、胸の中を満たした。
そしてなにより。
零華に迷惑じゃないか。
そう考えてしまう自分がいた。
でも、それと同じくらい、同じ高校に通いたいと思った。
これまでとは違う関係でも良い。
疎遠になったって良い。
遠くから、零華を眺めていたい。
そしてあわよくば……あわよくば、前のような関係性をとりもどせたら。
一縷の望みに縋るような思いだった。
光は、結局志望校……県一の進学校に入学した。
零華も、同じ学校に入学した。
はじめこそぎこちなかった会話も、事件のことから目をそらして続けているうちに上手く交わせるようになった。
何事もなかったように話しているうちに、ぎこちなさは消えていった。
学校で話しかけてくることこそ無くなったものの、零華は前のように家に入り浸るようになった。
二人の関係は、元に戻った。
元の近さに、距離に戻った。
……そう、見えた。
でも。
二人はまた、遠くなった。
どれだけ、目をそらしても。
忘れようとしても、何事もなかったように振る舞っても。
あの事件の記憶は、消えてなどくれなかった。
2年がたった今でも、その記憶は小さく……しかし深い溝として二人の間に刻まれているのだ。
雨が、頬を打つ。
前髪は、額にぺったりと張り付いていた。
足元の水たまりに目を落とした。
無数の波紋が、その水面を揺らしている。
高校2年生。
もう、高校2年生だ。
あれから、2年もたった。
もっと、上手くやれたんじゃないか。
光も零華も傷つかないような……ハッピーエンドを迎えられたんじゃないか。
そう思ってしまうのは、光の心の弱さゆえなのだろうか。
目頭が、熱い。
雨が降っていてくれて、良かった。
目から溢れ出した水滴と雨水が混ざり合い、一つになって地面に零れ落ちる。
今なら、どれだけ涙を流しても誰にも気付かれないから。
どれだけ情けない顔をしても、雨のベールが包んでくれるから。
俯いて、歯を食いしばった。
こらえきれない嗚咽が、喉の外に漏れ出る。
しかし、それも雨音が消し去ってくれた。
ポタポタと顎から水滴が滴り落ちる。
両の手を、ぎゅっと握りしめた。
そうでもしないと、消えて無くなってしまいそうだったから。
榎下零華という、無くてはならないピースを欠いた光は、脆くて。
胸の奥から心を削り取ろうとする想いを、吐き出すように涙を溢す。
零華が好きだ。
どうしようもなく、零華が好きなのだ。
光は、初めてであった日から、ずっと零華が好きなのだ。
それは、消えようのない感情であった。
どれだけ酷いことが起きても。
どれだけ傷ついても。
消えることのない感情だった。
しかし。
しかし、光が零華を好きでいるということは、この深い傷と向き合わなければならないことを意味する。
この事件の再来を恐れて、恐れ怯えつつ過ごすことを意味する。
そして、零華もまた自らの傷を直視せねばならなくなるだろう。
だから、蓋をしようとした。心の奥底に閉じ込めて、見ないようにしていた。
だというのに。
光の心は、その恋慕を忘れてはくれなかった。
どれだけ目をそらそうとしても、どうしても目の端に映り込んでしまう。
零華が、好きだ。
胸を抑えて、うつむく。
零華が好きで。
でも、痛みに耐えられなくて。
忘れようとしたけれど忘れられなくて、思い出しては自分を傷つけて。
そして、挙句の果てには零華を突き放した。
偉そうな、それっぽい言い訳を頭の中に浮かべていたけれど。
自分がこれ以上傷つきたくないから、身勝手に突き放しただけだった。
光は自分を傷つけた上に、零華も傷つけた。
彼女もまた、深い傷を持つ者だというのに。
「俺は何も守れない中途半端でダメな馬鹿野郎だ。」
掠れた小さなつぶやきが口から漏れる。
嗚咽が、雨音でも消しきれないくらいに鳴ってしまう。
膝の上で組んだ腕に、額を付けた。
絶え間なく、水滴が頬を伝う。
胸が、引き裂かれるように痛かった。
長い事押し隠していたおかげで閉じかけていた傷が、再びパックリと開いてしまったようだ。
「俺、バカだ。」
目を、ぎゅっと閉じる。
熱い感覚とともに、涙が頬を滑り落ちた。
「バカだ。ほんと、バカだ。」
自分を罵るけれど、胸の痛みは収まってくれない。
否が応でも分かってしまった。
光には、零華が必要だと。
理屈をいくら並べようとも覆せないほどに、光の心は零華を求めているのだと。
今更、もう遅いのに。
この2ヶ月、零華と話していない。
その事実が、何よりの証拠なのに。
まだ、この先の人生で零華と関われる。
そんな、淡くて……反吐が出るほど甘い期待を、どこかで抱いてしまっている自分がいて。
そんな自分が嫌いだ。
でも。
「零華……。」
その名前を呼ぶと、胸がぎゅっと痛んで。
心が、切なくて。
どうしようもないほどに涙が溢れてくるというのに。
呼びたかった。
呼んだら、応えてくれると信じたかった。
今まで通り、応えてくれると信じたかった。
「れいか……。れいか……っ……!」
嗚咽が、止まらない。
涙でぐちゃぐちゃになった目元を乱暴に拭う。
でも、いくら拭っても溢れてきて。
顔を両手で覆って、身体を丸めた。
ぎゅっと目をつぶった。
規則的なのか不規則的なのかよく分からない雨音が、脳内に響いた。
「れいか……。」
光が発した声は、その名前を呼ぶ声は、その人に届くはずのない声であった。
届かせたい……でも、届かせたくない。
そんな矛盾した感情を抱きながら、しかし絶対に届かないようにつぶやいたはずだった。
だって、もう遅いから。
もう、零華を振り回したくないから。
今更、この声に乗せられた身勝手な感情を伝えるわけにはいかないから。
絶対に零華に届かないように。
光しかいないこの雨の公園で。
雨で掻き消されるくらいの小さな声で。
零華へ向けていた感情を、全て吐き出すようにつぶやいのだ。
だというのに。
だというのに、なぜ。
「光。」
なぜ、優しい声が、聞き慣れた声が、大好きな声が。
光の名を呼んでいるのだろうか。
光の鼓膜を、確かに震わせているのだろうか。
「零、華?」
光は顔を上げ、呆然と前を見つめた。
気の所為なんかじゃなかった。
そこには、確かに零華がいた。
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