第29話 裏切り
「俺……零華の事好きなんだ。」
光がそう言った時の佐藤の顔は、はたしてどんなものであったのだろうか。
その時、光は彼から目をそらしていて。
その表情を、見ていなかったけれど。
きっと、明るく優しいはずの彼には似合わない顔をしていたのだろう。
怒りが、嘲りが。
その顔には、浮かんでいたのかもしれない。
……いや、もしかしたら。
もしかしたら、外面の良い佐藤のことだから。
そのような感情は心の底に押さえつけて、いつものような笑みを浮かべていたのかもしれない。
ただ、いずれにしても。
今だから分かる。
きっと、その心の奥底には、どす黒い感情が渦巻いていたのだろう。
きっと、その目は虫けらを見るようなものだったのだろう。
憶測でしかない。
でもきっと、実際にそうだったのだろう。
そう思ってしまうのも、当然のことだった。
……ともかく、光は彼に、零華のことが好きだと打ち明けた。
梅雨の真っ只中で、しとしとと雨が降る時期だったか。
いや、雲一つ無い、過ごしやすい春の日だった気もする。
あれがいつのことだったか。
曖昧だ。
それくらい。
そんな事も覚えていないくらい。
当時の光にとっては、何気ない日常の一コマで。
これから光と零華の関係が激変していくことなど、当然、知る由もなかった。
とはいえ、それから数ヶ月。
なにかが起こったかと言うと……なにも、起こらなかった。
いや、それは嘘かもしれない。
決定的な出来事は、何も起こらなかった……そう言ったほうが、正しく伝わるだろう。
光は当時、今よりもだいぶ能天気で。
危機察知能力が低かった、といったほうが正しいだろうか。
ともかく、何も感じずに、ただ毎日を過ごしていた。
ただ、今思い返すと。
数少ない友人たちの態度が、少しよそよそしくなったり。
廊下を歩いていて、視線を感じる機会が増えたり。
そんな小さな異変が、少しずつ……しかし、着々と起きていたように思う。
しかし、光は何も気付いていたなかった。
多分、零華も薄々しか気付いていなかった。
……あの日までは。
佐藤の思い……そして怒り。
大勢の人々が抱いていた、疑問。
光が、零華が好きだと打ち明けたことが、どんな未来を招いたか。
光が全てを思い知ったのは。
7月の、もうすぐ夏休みに入ろうかという頃であった。
「ねえ。どうして最近、みんな光に冷たいの。」
それは、唐突の……少なくとも、当時の光にとっては唐突に思えるような出来事であった。
昼休み、いつものように図書室に行こうとして。
途中で忘れ物に気づいて教室に戻ってきた光の耳に飛び込んできたのは、そんな零華の声で。
なんとなく、廊下で足を止める。
ガランとした廊下は、日が差し込んでいるというのに肌寒く感じられた。
不安からであろうか。
腹の奥が、ずっしりと重くなるような感覚に襲われる。
当時通っていた中学校は、一学年2クラスで。
となりのクラスはレクリエーションをやるとかなんとかで、校庭に出ていた。
ほとんどの人が居るであろううちのクラスも、零華の声によってシンと静まり返っている。
いつもより静かな廊下で、光はごくりと唾を飲み込んだ。
心の中の不安が、膨らんでいく。
それと同時に、零華への心配の気持ちも、膨らんできた。
心臓が、早鐘を打っているのを感じる。
廊下の窓から差し込む日差しに照らされているのが、どうにも落ち着かなかった。
光は廊下の端に身を寄せて、息を殺して聞き耳を立てた。
しばしの静寂の後、再び零華の声が鼓膜を震わす。
「光が気づいてるかは知らないけど。みんな光を避けてるし、影でなにか言ってるのも知ってる。」
そう、なのか。
光は、胸の前で拳を握りしめた。
気付かなかった。
全く、気付かなかった。
吐き気がする。
零華に、こんなことを言わせるなんて。
光は自分を罵る。
俺はバカなのか。
いや、バカなのだろう。
「そんなこと無いと思うけどなぁ」
場違いに明るい声が、教室に……そして廊下に響く。
場違いだ。
場違い甚だしい。
まるで、紺色の海に沈むけばけばしいオレンジ色の人工物ようで。
無性に、イラッとくる声音だ。
眉間に皺が寄る。
……佐藤。
いつものように笑みを浮かべている顔が思い浮かぶ。
佐藤のことは、嫌いじゃない……というか、普通に友達だと思っている。
けれど、真剣な声の零華を笑うようにあしらっているのを聞くと、苛立ちがこみ上げてきて。
思わず一歩踏み出そうとしたのと。
「私はそうは思わないよ。佐藤くん。」
厳しい……そしてほんのり苛立ちの混じった声が響く。
少しざわついていた教室が、シンと静まり返った。
光も、踏み出しかけた足を止める。
開け放した窓から流れ込む風の音。
遠くから聞こえる、隣のクラスの生徒の歓声。
夏の眩しい日差し。
青く眩いそれらの光景。
そしてそれらと対象的な、教室と廊下を支配する緊張感をはらんだ静寂。
どくん、どくんと心臓が鳴っている。
その小さな音さえも、教室にいるみんなに聴こえてしまいそうだ。
小さく鳴る、自分の息遣い。
廊下に響き渡っているように感じるのは、錯覚だと信じたい。
張り詰めた静寂。
押さえたような息遣いだけが聞こえるその静寂を。
破ったのは、やはりと言うべきか佐藤であった。
「そっか。……ねえ、一つ聞きたいんだけど。」
早鐘を打つ鼓動が、警鐘を鳴らしているように鼓膜を震わす。
佐藤の声音が、微妙にその色を変えたのが分かったからかもしれない。
それまでは毒々しいオレンジだったのが、一瞬にして血のように濁った赤色になったような。
悪寒がする。
耳を、塞ぎたい。
でも、動けない。
先程までは聴こえていた、クラスメイト達のかすかな息遣いも、今は聴こえない。
危険を察知したのは、光だけではなかった。
夏とは思えない、凍てついた空気が支配する空間。
そこに響いたのは。
「なんで、あいつのことをそんなに気にするの。」
凍てつくように冷たい、佐藤の声だった。
ーーーーーー
【あとがき】
書いてて辛い……けど、これがなければ今の零華と光が無いのもまた事実。
辛い過去の後には、温かい未来が待っているはず。
救われない物語は、好きじゃないので。
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