第25話 出会い

 母が足を止めたのは、家から歩いて5分ほどのところにある公園だった。


 あいにくこの公園はかなり広く、ぱっと見渡しただけでは全貌を把握することができない。

 

 母がキョロキョロとしながら歩いているのを、光は不安に満ちた目で見つめた。

 

 玄関を出ると、外はやはり、土砂降りだった。

 けれど母は、傘さえささずに家を飛び出そうとしたのだ。


 光が慌てて母の手に傘を押し付けたから、濡れ鼠になるのは避けられたけれど。


 それだけ、慌てて……そして、心配しているのだろう。


 幼いながらも、母の表情を見て光はそう感じ取った。


 ……不安な気持ちが、減るわけがない。


 せわしなく足を動かす母。


 小走りでついていきつつ、自分も周りを見渡す。


 芝生。

 居ない。


 砂場。

 居ない。


 滑り台。

 居ない。


 鉄棒。

 居ない。


 ブランコ……。


「あ。」


 小さな声が、口から漏れた。


 公園の端にある、ブランコ。


 雨に濡れて、ペンキの剥げた骨組みが鈍く光っている。

 その、どこにでもある遊具のところに……一人の女の子が、居た。


 多分、光と同年代だろう。


 うつむいて、ゆらゆらとブランコを漕いでいる。

 土砂降りの中、傘さえささずにブランコを漕いでいる。


 びしょ濡れになって、しかしそれすら気にしていないようにうつむいている彼女を見て。


 ……さっき、いえをでようとしたときのママみたい。


 光は、直感的にそう思った。


 目を、離せなくなった。

 彼女を見ていると、放っておけないと言う気持ちが強く働いた。


 その気持ちは、一瞬母のことを忘れてしまうくらいに強い衝動だった。


 母が持っている傘の下から抜け出して、女の子の元へと歩き出す。


「光!?」


 驚いたような母の声が聞こえる。

 

 けれど、光は女の子から目線を外せなかった。


 母の方を振り返ることもせず、ブランコの方へ……女の子の元へと向かう。


「あ、零華ちゃん……!」


 後ろで、母がハッとしたように言っている。

 けれど、その言葉もさして耳には入ってこなかった。


 母が、走り出したような音がして。

 そして光を追い抜いて、先にブランコの下へとたどり着いて。


 女の子に話しかけているけれど。


 その母の姿さえ、光の視界には入っていなかった。


 光は走りながら、その女の子を、見つめていた。


 今になって思えば、あの時から。

 顔すらまだ知らなかったあの時から、光は零華にどうしようもないほどに惹かれていたのだろう。


 母に声をかけられてもうつむいたままで。

 女の子は、顔を上げようとはしなかった。


 母がこちらをチラリとみる。


「零華ちゃんと待ってて。」


 雨の音がうるさくて。

 それに、母に注意を払っていなかったからよく聴こえなかったけれど。


 たぶんそんな事を言って、母はどこかへと駆け出した。


 その姿を見て、先程まで胸を占めていた不安が少し脳をよぎったけれど。


 それでも、母の後をついていこうとは思わなかった。


 光は、うつむいてブランコを漕ぐ女の子のもとに駆け寄った。


「どうしたの?」


 どう声をかけるかなんて、考えていなかった。

 けれど、その言葉が自然と口をついて出た。


 ズボンが汚れるのも気にせず、その子の前に膝をつく。


 水たまりの中についた膝に、そのズボンに、水が染み込むのが分かる。

 いつもならば、気持ち悪く思うその感触も……今は気にならない。


 半ば覗き込むようにして、女の子の顔を見る。


 見て。


 そして、光は固まった。


 多分、あれを超える衝撃は、これまでも、そしてこれからも味わうことはないと思う。


 年相応の、幼い顔立ちなのに。

 パーツ一つ一つは、顔の大きさ相応に小さいのに。


 その顔は、光を動けなくさせた。


 幼いながらもすっと通っていることが分かる、綺麗な鼻梁。

 潤いを感じさせる、柔らかそうな唇。

 長く、伏せられたまつげ。

 涙が、キラリと光を反射していて。

 頬を、涙とも雨ともつかない液体が伝っている。

 肩よりも上のところで切りそろえられた髪は、雨に濡れながらも艶を感じさせる。


 ……まるで、天使だった。


 雨に濡れていても。

 泣きはらしていても。


 その女の子は、比喩などではなく輝いて見えた。


 歳不相応な、感情を抱いた。


 その子から、目が離せなかった。


 そして、どうしても。

 その子を、笑顔にさせたいという感情に駆られた。


 今思えば、一目惚れとか、そんな類のものだったのだと思う。


「大丈夫……?」


 光は、掠れた声で、その子に問うた。


 何もしていないというのに、心臓がどくどくと鳴っていた。


 その天使のような顔を、ただただ見つめた。


 ……それが、鬱陶しかったのか。

 それとも、心細かったのか。寂しかったのか。


 わからないけれど。


 その子は、初めて光の存在に反応した。


 女の子が目を上げて、二人の目線が交錯する。


 光は、呆けたようにその綺麗な……今まで見たどんなものよりも綺麗なその瞳を見つめた。


 その子は、そんな光を見て、そして再びうつむく。


 その長いまつげが、儚げに伏せられた。


「パパが、いなくなったの」


 小さな声で、その子はたしかにそう言った。


 唇が、震えているのが見て取れる。


「ママがね。」


 声も、震えている。

 目が、ぎゅっと閉じられた。


 何かを飲み込むように、ごくんと喉が動いた。


「もう、パパにはあえないっていうの。」


 震えて、そして嗚咽の混じった声で。

 その子は、そう言った。


 光は、まだ幼くすぎて。


 その言葉の意味が、よく理解できなかった。


 でも、その子の様子を見て。

 そして、……パパと会えなくなったら、つらいだろうなとそう思って。


 その子が、つらそうにしているのに気がついて。


 泣いているのを、放っておけなくて。


 光はその幼い身体で、その子の幼い体を抱きしめた。


 抱きしめたその身体は、光と同じくらいの大きさであった。

 でも、そうとは思えないほどに儚く、脆く感じられた。


 だから光は壊さないように、でもしっかりと、その子を抱きしめた。


 少しして、身体を離してその子の顔を覗き込む。


 戸惑うように揺れるその瞳を見て。


 そして光は、にこりと笑顔を見せた。


 その女の子の目が、まんまるに見開かれる。


「ママがね、いってたんだ。」


 もう一度、ぎゅっと抱きしめ直す。


「げんきがないひとがいたら、じぶんのげんきをわけてあげるんだよって」


 言って、雨に濡れて冷えたその身体を抱きしめる。


 しばらくして、その子がおずおずと光の背中に手を回してくる。


 光は本能のまま、優しくその頭を撫でた。


 そうしていると、不思議と心地よく感じられて。

 光も、落ち着くようで。


 雨が、しっとりとした密やかなBGMのようだ。

 さきほどまでうるさいくらいに鳴っていた鼓動も、今はとくとくと穏やかに鳴っている。


 二人はしばらく、お互いを抱きしめ合っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る