第24話 12年前、雨の日に
あの日も、今日のような荒れた天気だった。
風に煽られた雨粒は、勢いよく窓に打ち付けられていて。
うるさいくらいに鳴るその雨音を、何をするでもなくぼうっと聞いていたのを覚えている。
光はその時、5歳。
まだ零華と出会う前で、特に友達と呼べる友達も居なくて。
絵を描くのにも、絵本を読むのにも飽きてしまって、暇で。
しかし、仕事でパソコンと向き合っている母を邪魔してはいけないことくらい、幼いながら理解していて。
ただぼうっと、少しづつ流れていく雲……そして降りつける雨を眺めつつ。
雷がなり始めませんように……少々怯えつつ、そう天に願っていたその時。
唐突に、母のスマホが鳴った。
自然が奏でる雨の音とは対象的な、無機質な人工音。
突如鳴ったその音に、光はビクッと飛び上がった。
「わっ……」
思わず声を上げてしまって、そしてハッと口を抑えて母の方を振り返る。
電話のときは静かにしててね……親に、何度も言われたセリフだ。
自分が、いい子にしていれば母はリビングに居てくれるけれど。
集中できないと判断すれば、自室に戻ってしまうのも分かっていて。
部屋に行っちゃったら、寂しいから。
ママ、へやにいっちゃわないかな。
浮かんだ幼い不安は、しかし、こちらに少し微笑んで電話を取った母を見て消える。
……消えた、けれど。
ママにあまえたい。
……笑みを向けられたことで、こんどはそんな想いが湧いてきて。
たちあがって、ママのとなりにいきたい。ぎゅってしたい。
思って床に手をつき、立ち上がろうとするけれど。
真剣な顔で電話している母の顔を見て、きゅっと口を結ぶ。
……そしてしばらくして、床に座りなおした。
甘えたい気持ちを、ジッと我慢する。
ママはだいじなはなし、してるから。
ひかるはいいこだから、がまんできるもん。
じゃましないもん。
心のなかで、言い聞かせる。
……思えば、光は昔から我慢強い子であったのであろう。
人のことを、よく気にしていたようにも思う。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
もう少し我儘に、強い自我を持って行動していれば……今のような状況にはなっていなかったのだろうか。
いや、光がそんな性格であれば、そもそも零華とここまで近付けはしなかったのであろうが。
だから、そんなことを考えたって無駄なのだろう……。
ともかく。
ともかく、光はジッと我慢しつつ、電話している母の横顔を見つめていた。
相手が何かを話しているようで、母は何も言わない。
ただ、その顔は、どんどんと曇っていって。
先程までは心地よく耳朶を売っていた雨音が、まるでホラー映画のBGMのように鼓膜を震わす。
無機質で真新しい、見慣れないスマートフォンという機器の向こうでは、一体どんな会話が繰り広げられているのだろうか。
険しくなっていくその眉を、きゅっと引き結ばれたその口元を。
見つめつつ、光は途方もない不安を覚えた。
……母は、家ではいつも、楽しそうに笑っていて。
なんで、そんなにかなしそうなの。
心のなかで、問いかける。
仕事とプライベートはしっかりと分けるタイプだから、仕事モードの時はかっこいい顔になることも知っていたけれど。
こんなに悲しそうな顔は、見たことがなかった。
なにが、おこってるの。
聞きたい、けど電話中だから静かにしないと。
悶々としつつ、不安の眼差しで母を見つめる。
いつもならば光の視線に気付いて、大丈夫だよと微笑んでくれるであろう母親は。
今は、光の不安に満ちた視線にすら気付いてくれなくて。
母の唇が、薄く開かれる。
何か言うのだろうか……身構えた光の考えとは裏腹に、その口から言葉は出てこなくて。
代わりに、息がせわしなく言ったり来たりしているのが音で分かって。
不思議に思って目線を少し上げて、光はぎょっとした。
「ママ、だいじょうぶ?」
とてとてと近づいて、抱きつくようにして座っている母を見上げる。
迷惑になるかも……とか、うるさいと思われないかな、とか。
さっきまで光の頭を占めていたそんな考えは、頭から吹っ飛んでいた。
だって。
「ママ、泣いてる」
光に言われてハッとしたように、母が目尻の涙を拭った。
しかし、拭いきれなかった水滴がツーっと頬を伝う。
だいじょうぶだよ。
声には出さず、口の形でそう伝えてくれるけれど。
母が向けてくれる笑みが、強張っているのが分かってしまって。
電話相手の声が、明らかに泣き崩れている声が、聴こえてしまって。
ざあざあと言う音が、電話からも聴こえてきて。
不安な気持ちは、かえって膨らんでしまう。
光は確かめるように、母の腕をぎゅっと抱きしめた。
でんわしてるときはしずかにしなきゃいけないから。
何も言わない。
しかし、不安で不安で仕方がないから。
すがるように、母にくっつく。
「今、どこにいるの?」
突如、電話相手に向けて発せられた母の声は、掠れていて、耐えるような声音をしていて。
その悲しそうな、やるせなさそうな声は、光が初めて聞く声音で。
聞き耳を立てるのはいけない……そう、思うけれど気になってしまって。
息を殺して、……母の表情に影響されたのか固唾をのんで、返事を待つ。
とく、とくと自分の鼓動が聞こえる気がした。
目を上げると、母も息を殺しているのがわかる。
ざあざあとなり続ける雨音が、その場の緊張感を限界まで高めているようだ。
電話越しに聞こえる、少し音割れしたざあざあという音が、光達の不安を限界まで高めているようだ。
電話の向こうにいる誰かは、沈黙している。
しばらく、その場を二種類の雨音が支配する。
光も母も、電話の向こうの誰かも、何も言わない。
音を立てまいと吸ったまま止めていた息を吐き出したい衝動が、段々と強まる。
流石に、息を止めているのが辛くなって。
光が息を吐いたのと、電話の向こうで声がしたのが同じタイミングだった。
「……公園に、……と、いる……」
泣きはらしているのが分かる、深い悲しみと、少し……しかし確実に絶望を含んでいる声が。
光と母の、耳に届く。
光は自分の息の音で、半分しか聞き取れなかったけれど。
母は、ちゃんと全部聞こえたみたいで。
「分かった」
短くそう言って、立ち上がった。
しごと、どうするの。
そんなこと、聞けないような雰囲気だった。
光は、母を見上げた。
言わなくても分かる。
その、なんとか公園に行くつもりなのだろう。
母が、リビングから出ようと足早に歩き出す。
光は慌てて走って、その手を握った。
いつもならば優しく握り返してくれるところだが、今日は握り返してくれない。
その横顔は、何かをこらえるような表情をしている。
その歩幅はいつもより大きく、足を運ぶテンポもいつもよりも速い。
どうしたの。
なんとなく、声に出せないその問いを飲み込みつつ。
光は幼い足を動かして、小走りで母の後をついて行った。
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