過去の傷

第23話 雨の日

 光はカーテンの外を眺めた。

 

 ざあ……と、天が地面を打つ音だけが響いている。


 雷こそ鳴っていないものの、土砂降りと言っていいほどの雨だった。


 地べたにできた水たまりの水面を、無数の雨粒が叩いて。そして無数の波紋を作り出している。


 その水面に反射された景色は、元の景色とは似てもつかない、歪なものになっていた。


 ……今の、俺みたいだ。


 どこか客観的に、そして自虐的にそう思う。


 もともとは、どんな形をしていたのだろうか。

 もう、わからない。


 けれど、無数の棘に打たれて、原型を止めなくなっていることだけは分かっていて。

 

 椅子に、もたれかかるように腰掛けた。


 今日は、零華の誕生日だ。


 毎年、……いや、去年まではと言ったほうが正しいのだろうか。


 とにかく……一年に一回、欠かさずお祝いして、そしてささやかなプレゼントを渡していた、その日である。


 でも。


 今日は、……というよりも、もう二ヶ月近く。

 光の隣に、零華の姿はなくて。


 天井を見上げる。


 ……忘れられないんだろうなあ、と思う。


 多分、十年経っても二十年経っても、光は零華を求め続けるのだろう。


 でも、零華は……どうなのだろうか。


 光が零華を求めるのと同じように、零華もまた光を求めてくれるのだろうか。


 そうであったら、嬉しいと思う。

 同時に、怖いと思う。


 そうでなかったら、……悲しい、と思う。

 でも、安堵も、すると思う。


 近づけば近づくほど、離れたときの痛みは大きいものである。


 始まりがあれば、終わりもある。


 いつか来る別れの時を、光は恐れている。


 ……その別れが来るのが、せめて70年後だと分かっているならば。


 こんな気持ちにも、ならずにすんだんだろうけど。


 カーテンの外に目を向ける。


 風があるようで、煽られた雨が窓を叩いている。

 先程よりも曇った窓を、ただただ見つめた。


 ……今更、何を考えているのだろうか。


 ふと、そう思った。


 ……おそらく、もう話すことすら無いのに。


 何様のつもりなのだろうか。


 自分から、酷いことをして、拒否したというのに。


 なんの権利が合って、この期に及んで被害者面をしているのだろうか。


「……ははは」


 自分を、笑おうとする。

 けれど、喉から出てきたのは笑い声とも取れない掠れた音で。


 光はうつむいた。


 ……馬鹿。阿呆。間抜け。


 自分を罵るけれど、ツンと鼻の奥が痛んだ。


 目尻から流れ出した水滴が、頬を伝ってカーペットに落ちる。


 椅子から、崩れ落ちるようにずり落ちる。


 顔を手で覆って、地面に突っ伏すように嗚咽を漏らした。


 胸を、どうしようもないほどに締め付ける痛みがある。


 それは、無視しようとすればするほど膨らんでいくみたいだ。


 すべてが、もう遅すぎるのに。


 唇を、血が出るほど噛む。

 でも、胸の痛みは、頬を伝う涙は止まらなくて。


「れいか」


 口に出すけれど、だれも返事はしてくれない。


 ”ひかる”


 呼び返してくれる人は、居ない。


 胸が、痛い。


 もう、遅いのに。

 

 自分の気持ちに、蓋をしようとして。

 そして、目をそらし続けてたから、把握しきれていなかった。

 舐めていた。


 自分が、どれほど零華を必要としているかを。


 愚かにも光は、離れ離れになって初めて、零華が自分の中でどれだけ大きな存在であったか気付いたのである。


 ……あの時みたいに、見て見ぬふりができるつもりだった。


 光は、誰かに言い訳するように、思う。


 中学3年生のときのように、勉強に没頭して。そして、零華のことをできるだけ頭の隅に追いやってしまおうと。


 そう、思っていたのに。


 目を、そらせそうにない。

 いや、目をそらしても、視界の隅に写ってしまうと思う。


 それくらい、零華は、光の心の中の大部分を占めていて。


 ざあざあと降る雨が、まるで光の心の内を代弁しているかのようだ。


 ふらりと立ち上がり、窓のそばに立つ。


 雨は相変わらず、窓を、地面を、叩いている。


 雨は、雨の音は、嫌いでは無い。

 けれど今は、せめて晴れていてほしかった。


 日の光を浴びていれば、この心の痛みも少しは和らぐから。


 この真っ暗な胸の内も、日光は柔らかく照らしてくれるから。

 

 いつか、商店街を通る人々を見て思ったことは、やはり正しかったらしい。


 "日を浴びるとテンションも上がるものだ。"


 前にそんなことを思ったのを思い出しつつ。


 窓枠に身を預ける。


 絶え間なく鳴り続ける水音を。

 時折遠くに聞こえる、車のエンジン音を。

 ただ何をするでもなく、聴く。


 雨に濡れて不鮮明になった窓の外の景色を、眺める。


 少し冷たくて、触れると心地いい窓ガラスに、身を寄せる。


 そうしているうちに、雨音に誘われるように懐かしい記憶が蘇ってきて。


 目を、細めた。


 ……零華と、初めて会った時。


 12年前の、あの日。


 光の運命を、根本から変えたあの日も。


 今日みたいに、土砂降りだったな、と。


 光は、思い出したのだった。

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