第17話 零華の不安

※零華視点



「お、おかえり……。」


 沈んだ面持ちで、ドアを開けた光に。

 目は、合わせられないから床をむいて。

 零華はぎこちなく、そう声をかけた。


 体の陰でマカロンを握っている左手が、震えているのを感じた。


 心臓がバクバクと鳴っている。

 光まで聞こえていたり、しないだろうか。


 ソファの上に置いた右手を、ギュッと握った。


 光は、なにも言わない。


 いつもならばニコッと優しい笑みを浮かべて、ただいまと言ってくれるのに。


 やはり、学校でそっけない態度をとったことに怒っているのだろうか。


 心の中を、暗い不安が満たして。

 でも、なにを言えばいいのかわからなくて。


 目を合わせられない……とか、言ってられなくなって。


 零華は、顔を上げて光を見た。


 しかし目は、合わない。


 光は、口元に手を当てて天井の方を向いていた。


 ……やはり、何も言わない。


 その表情は、怒っている感じではない。

 でも、それならなぜ、何も言ってくれないのだろう。


 零華は不安になって、立ち上がった。


「ひ、光……?大丈夫……?」


 声をかけるべきか、迷って。


 でも、二人きりの空間で、様子のおかしい光を放っても置けなくて。


 零華が駆け寄りながら問うと、光は逸らしていた目をこちらに向けた。


 目が、合った。


 そして、逸らされた。


 息が、喉に詰まる。


 やっぱり。

 やっぱり、嫌われてしまったのだろうか。


 光は、何かを堪えているような、そんな硬い表情をしている。


 何を思っているのかはわからない。

 でも、その顔は、好意的なものには到底見えなくて。

 

 もう、話すのも嫌だと思われているのだろうか。


 目の前が、真っ暗になるような。

 そんな錯覚に襲われる。


 暑くもないのに、一筋の汗が首筋を流れた。


 心臓が、先ほどとは違う……もっと嫌な跳ね方をしている。


 光の名前を、呼びたい。

 呼んで、どうしたのと聞きたい。


 でも、呼びたくない。

 聞きたくない。

 怖い。


 相反する感情達が、零華の胸の中をどうしようもなく掻き乱す。


 口で小さく息をして。

 そして、唇を噛む。


 光。


 心の中で呼びかけた。

 でも、当たり前だけれど、口にしてないから反応すらしてくれなくて。


 光はその顔を零華から逸らして。


 何かを堪えるような、険しい顔をしている。

 

 その心は一体、何を思っているのだろうか。


 その目は……。


 ……。


 零華は、目を見開いた。


 光の目は、部屋の明かりを受けてキラキラと光っていた。


 比喩ではない。


 光を反射して、キラキラと光っていた。


 ……涙?


 光の目に浮かんでいるのは、どう見ても涙で。


 となると、その引結ばれた唇は。

 口元に当てられた手は。

 その、何かを堪えているような表情は。


 涙を堪えている、証、なのだろうか。


 でも、なんで。


 わからなくて、余計に不安になる。


 もしかして、見るだけで涙が出るほどに嫌われちゃったのだろうか。


 そんな、最悪な考えまで浮かんできて。


「光、怒ってる……?」


 思わず、口から言葉が飛び出す。


 言ってから、後悔するがもう遅くて。


 光が、パッとこっちを向いた。


 目があって。


「っ!ごめん……!」


 そう、言われて。


 零華は固まって。

 そして、一拍置いてから、自分が謝られたことを理解した。


 光の顔からは、罪悪感のようなものしか感じ取れなくて。

 謝罪が、偽りの言葉であるようには聞こえなくて。


 嫌われている……そんな恐れが、心の中で薄まっていく。


 零華は、無意識に止めていた息を吐いた。


「ただいま、あとごめん、零華。」


 心から申し訳ないと思っていそうな。

 そんな光の言葉に、鼻の奥がツンとするのを感じた。


 慌てて、深呼吸して。


「別に、怒ってたわけじゃないよ」

 

 光がそう言っているのを、聞きながら。


 ふと。


 ふと、さっきまでの光もこんな感じだったのかもな、と。


 そう、思った。


 そして。


 そして、全てがつながった。


 今日一日、零華は光を避けていて。

 それこそ、さっきの光のようなことを何回もしてしまった。


 だから、光も。


 光も、もしかしたら怖かったのかもしれない。


 零華に、嫌われるのが。


 だから、安堵して泣きそうになったのかもしれない。


 そう考えると、辻褄が合った。


 光の表情も、行動も。

 全部。


 私に嫌われていないか、心配で。

 でも、零華が家にいることに安心したのが、原因なのかもしれない。

 

 思って、そして。

 どくんと心臓が跳ねた。


 さっきまでの嫌な跳ね方ではない。

 でも、さっきよりも危うい跳ね方かもしれなかった。


 けれど、零華にそれを止める術はなくて。


 うるさいくらいになる心臓。

 

 光を不安にさせてしまった罪悪感が、ちくりと胸を刺したけれど。

 でも、うるさく鳴る心臓は、もっと別の感情から来ていた。


「そ、っか。良かった……。」


 言いつつ、息を吐く。


 鼓動は、やはり痛いくらいに早鐘を打っている。


 うまく、考えられない。


 一歩、光に近づく。


 自分が、何をやろうと思っているのか。


 よく、わからない。


 光がたじろいだように、後ずさる。


 光が後ずさった分、前に一歩踏み出す。


 光が、後ずさる。


 前に進む。


 光が、後ずさろうとする。


 でも、そこは壁で。


 零華は、動けなくなった光に、さらに一歩近づいた。


 多分、顔は真っ赤だ。

 でもそれすら気にならなくて。


 見上げると、光も真っ赤で。


 どくんどくんと、心臓が鳴っている。


 多分、光の心臓も早鐘を打っている。


 それが、嬉しいような、切ないような。


 胸の中が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられているみたいだ。


 零華は思って。


 そして、震える手で、光のお腹に。

 ずっと持っていたマカロンを、押し付けた。

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