第7話 雷の日に、雷が怖い二人は
「じゃあ、私はもう寝るね」
「うん、おやすみ」
「おやすみ、零華ちゃん」
光と、光の母の挨拶に手を振って返して、零華が眠そうにリビングを出て行った。
しばらくして、廊下の向こうからバタンとドアが閉まる音が聞こえてくる。
……寝た、ね。
光はそう独り言ちて、そして横に目をやった。
ため息が口から洩れる。
上がっていた口角が、不機嫌そうに下がるのが抑えられない。
「……で、母さん。」
横に立っている母……光子に声をかけた。
光にしては珍しく、口調に不満がありありと出ている。
それに気が付いたのだろう。
恐る恐るといった感じで光子が振り向いた。
「ひ、光。わ、わざとじゃないんだよ?」
まだ光は何も言っていないのに、言い訳を始める光子。
光が怒っている原因に、心当たりがあるらしい。
いや、あって当たり前か。
むすっとした表情で、光は光子を眺める。
「なんでドアに張り付いてたの。」
光子の言い訳を無情にも無視して、光は冷たく尋ねた。
……先ほどのことだ。
零華のいるリビングから避難しようと、光はドアを開けたわけだが。
廊下の暗がりに人影を見つけて、思わず悲鳴を上げて尻餅をついてしまったのだ。
誰だってびっくりするだろう。
誰もいないと思っていた廊下に、何者かがしゃがみ込んでいたら。
驚愕して声も出ない光を見て、びっくりしたように零華が駆け寄ってきて。
廊下を見て。
”あ、あれ?おばさん?”とそう言ったのだ。
おばさんというのは光の母のことである。
光はその時になってやっと、その人影が母であることに気づいたのだ。
……。
なぜ、いつからそこにいたのか。
どこから聞いていたのか。
……人影はドアのそばにしゃがみこんでいた。
どう考えたって、あれは聞き耳を立てている姿勢だ。
とすると、あまりこの可能性は考えたくないが、光と零華のやりとりは聞かれていたと考えるのが妥当だろう。
光のプライドに関わることだ。
問い詰めたいのはやまやまだったが、零華の目の前で聞くわけにもいかず、零華が寝るまで待っていたというわけだ。
光子が目を泳がせて、顔をそむける。
零華がやれば可愛いしぐさも、自分の母がやれば鬱陶しいだけだ。
光の不機嫌メーターがあるとすれば、今頃振り切れているところだろう。
一層不機嫌になった光に、慌てて光子が弁解を始めた。
「いや、家に帰ってきたら女物の靴があってさ。零華ちゃんかな、だとしたらこんなに遅くまでいるの珍しいな、大雨だったからかな、とか思ったんだけどさ。」
そこまで言って、言葉を切って目線を泳がせる光子。
……いやな予感しかしない。
でも聞かないわけにもいかない。
光はため息をつき。
「それで?」
その先を聞きたいような、聞きたくないような複雑な気持ちになりつつ、続きを催促した。
光子はしばらく迷うように目を泳がせて、それから意を決したように口を開いた。
「ほら、そのさ……母さん、二人をびっくりさせようと思って、リビングのドアに忍び寄っちゃったんだけど……。」
口元が引きつるのを感じる。
……い、いや、まだ分からない。
どこまで聞かれたかはまだ……。
「忍び寄ったら、光が零華ちゃんを抱きしめてて……。」
……零華が急に泣き出したとき、か。
……。
……。
光はしゃがみ込んだ。
腕で顔を覆い、うめく。
あのやり取りを全部、親に見られていた。
これ以上恥ずかしいことはないだろう。
しゃがみ込んで動かない光。
「ほ、ほら、もしかしたらいい雰囲気なのかも、とか思ったら声を掛けられなくてさ。」
光子が光に、半ば言い訳をするように言った。
光は一瞬固まって。
「……その、私が知らないだけで光と零華ちゃんがそういう関係なのかもと」
弁解を続ける光子。
余りの羞恥に、思わず光子の口をふさいだ。
フォローのつもりなのだろうが、全然フォローになっていない。
一瞬とはいえ、”そういう雰囲気”だと勘違いされたのが本当にいたたまれなくて。
光子の口から手を外して、床についた。
「……どこまで、きこえてたの……。」
絞り出すように光が問うと、光子がたじろいだような雰囲気が伝わってきて。
妙な間が空く。
最悪のパターンを予見して、耳をふさぎたくなる衝動に駆られる。
「あ~、うん。……全部?」
予想通りの光子の答えに。
この予想だけは外れてほしかったと光は崩れ落ちた。
「全部って……」
「零華ちゃんは考え事してて気づかなかったみたいだけど、結構ちゃんと言っちゃってたから、……うん。」
一縷の望みに縋ろうとするも、希望を砕かれて光は床に肘をつき、顔をうずめた。
……本当に全部聞いてたのかよ……。
プライドを粉々になるまで粉砕された光は、床を見つめる。
零華を抱きしめているところを見られて。
”本当可愛い”という呟きを聞かれて。
真っ赤になっているところまで見られて。
「ほ、ほら、元気出してよ。誰にも言わないし、光にも何も口出ししないからさ。」
……。
いや。
「……当たり前……。」
くぐもった声で、光は返す。
変に気を使われたり、変な気を回されても困るから。
「忘れて」
羞恥を少しでも和らげようと光子に言うが。
「ご、ごめん。それは無理かも。」
そう返されて、がっくりと肩を落とす。
……。
正直なのは光子のいいところなのだろう。
実際父もそこに惚れたと言っていたし。
そういう面では、あまり認めたくはないものの零華に繋がるところもあり、父の言いたいこともわかるのだが。
それはそうと。
「そこは嘘でも頷いてほしかったよ……。」
光は項垂れて、思わずそうつぶやいた。
「はあ」
静かにため息をつき、光は寝返りを打った。
寝られる気がしない。
頬がまだ熱を持っている気がする。
「うぅ……。」
零華とのやり取り。
そしてそれを母に見られていたことを思い出し、頭を抱えて、光は悶えた。
……恥ずかしすぎる。余りにも恥ずかしすぎる。
今日だけで、数えきれないほどため息をついている気がする。
光はまたため息をついて、寝返りを打った。
睡魔はいつまでも襲ってこない。
枕もとの時計を見ると、時刻はすでに夜中の1時である。
ゴロゴロと、遠くで空が鳴いているのが聞こえる。
いったん止んだのになんでまた鳴り始めるかなあ、と心の中で嘆いていると。
不意打ちのように大きな雷鳴が響き、光は恨めし気に窓の方をにらんだ。
光が寝付けないのは主に羞恥のせいではあるのだが。
この雷鳴も、一役買っているわけで。
……いつ、雷鳴が鳴り響くか分からず戦々恐々としているのも嫌な気分だ。
光はむくりと体を起こした。
カーテンを開けて、外を眺める。
と同時に、ピカッと稲光が閃いて、光は顔をしかめた。
数秒もしないうちに轟くであろう雷鳴に備えて、耳を手でふさぐ。
直後、腹の底に響くような雷鳴が鳴り響き、ビクッと身体を震わせた。
……。
いつ次の雷鳴が響くか分からないので、手は耳に当てたまま。
光はベッドに座りなおした。
何を隠そう、光も雷は苦手である。
腹に響くあの重低音を聞くと、どうしようもなく不安な気持ちになってしまう。
小さい頃は、雷になると両親の寝室にいって母のベッドで寝せてもらっていたものだ。
そもそも大きい音が苦手だからなぁ。
思い、光は窓の外を見つめた。
だというのに。
光は昔の自分を恨んだ。
あれは小学校高学年の時だろう。
零華が光以上に雷を怖がっているものだから、思わず強がって”俺は平気だから、雷が怖いときは頼ってよ”と言ってしまったのだ。
それ以来、零華は雷が鳴り始めると光にくっつくようになったわけで。
そうなると、光も怖がっているそぶりを見せるわけにもいかず。
内心ビクビクしつつ、怖くない風を装ってきたわけだ。
……。
ただ。
そうはいっても。
雷の日に零華という”そばにいて安心できる人”が隣にいるということは、光にとっても、心強いことで。
こうして、1人の時に雷が鳴ると……。
体操座りに座り直し、自分の身体を抱え込むように丸まる。
手は耳に当てたまま、憂鬱な気分で壁を見つめた。
……そばに零華がいれば、気も紛れるし不安も和らぐので”怖くないふり”もできる。
しかし零華がそばにいないと、どうしても、不安な気持ちが膨らんでしまうのだ。
……。
「零華」
思わず、縋りたくて、声に出してその名前を呼んだ。
どんな時でもそばにいてほしい、今は寝ているであろうその人の名前を。
本人には絶対に聞かせられない声音で名前を呼んだ、のだけれど。
「ひかる」
背後から聞きなれた、さっきまで聞きたいと思っていた、しかし今は聞きたくなかった声が聞こえて。
柔らかく、あったかく、どこかふにゃりとした無防備な声音で名前を呼ばれて。
光はばっと振り向いた。
「零華……!?」
そこには眠そうに目をこすっている零華がいて。
「え、な、んで起きてるの」
光はどうにか、言葉を絞り出す。
そんな光の様子が可笑しかったのか。零華がふふっと笑みを浮かべた。
「雷がうるさくて起きちゃったんだ」
零華はいいつつ、ベッドに近づいてきて。
そしてあろうことか。
光の後ろに座り、背中にもたれかかるように抱き着いてきた。
「ね、寝ぼけてるだろ」
「一人で寝るの、怖いし寂しかったもん。」
慌てて引きはがそうとするも、そんなことを言われてはどうしようもない。
引きはがそうとした手をさまよわせて、そして観念して。
「……ちょっとだけだぞ。すぐ、部屋に戻れよ。」
しぶしぶといった感じで、光は零華に言った、のだが。
「べつにいいじゃん、ひかる。だってひかるも寂しかったんでしょ」
そんなことを言われて、固まる。
「すごい寂しそうな声だったよ。」
図星なので、何も言えない。
心臓が早鐘を打っている。
後ろから抱き着いている零華にも、伝わってしまっているだろう。
「すっごいドキドキしてるね、ひかる。図星だったの?でも、私も寂しかったし、私、光に名前呼ばれたとき、すっごいドキドキしたんだよ?」
「……っ……」
一瞬、息が止まる。
心臓が大きく一回、跳ねたのを感じた。
”光に名前呼ばれたとき、すっごいドキドキしたんだよ”
頭がうまく回らないまま、身体に回されている零華の手を握る。
零華の言葉は、あまりにも破壊力がすさまじくて。
零華の両手を握り。
その細くてきれいな指に触れて。
そして。
息を吸い、吐いた。
「……零華、やっぱり寝ぼけてるでしょ」
握っていた零華の手を離し、振り向く。
自分を律するように、唇を小さく噛む。
「眠くないもん。」
明らかに頭の回っていなそうな口調で言われるが、気にしない。
「寝室に戻って。」
半ば命令口調で言うと、零華が口を尖らせた。
「ひかると一緒に寝るもん。」
どう考えたって寝ぼけているとしか思えないことを言われて、光は眉間をもんだ。
いや、寂しいのは事実なのだろう。
そして雷が怖いことも事実だろう。
眠くて頭の回っていない零華は、”光と寝ればすべてが解決する”という結論に至ったのだろうが。
そうなると。
「雷よりもっと怖いことが起きるかもしれないよ」
思わずそう、口に出してしまう。
言ってから。
……流石にまずい。
そう思ったが。
「光といれば大丈夫でしょ?」
安心しきった顔で言われて。
たじろぎ、目をそらしてしまう。
俺が危険の元なんだけど、とはいえずに。
零華の頭が回っていなかったことに感謝しつつ。
「大丈夫だよ。大丈夫だけどさ。」
半ばやけになって言って、ため息をついた。
もちろん、何もするつもりはない。
けど、割と危ういのもわかっていて。
仕方なく零華の横に寝そべりつつ、今夜は寝れないな、と遠い目をした光だった。
ーーーーーー
【あとがき】
まず2日に1話ペースで連載をすると宣言しておきながら6日間更新がなかったこと、深くお詫び申し上げます。
計画性と、ストックの大切さを身に染みて学んだ、作者のキタカワ。です。
用事が重なったのが原因ではあるのですが、数話分書き溜めておけばよかった話。
これからはこのようなことがないように、完結するまで一直線に走り抜けたいと思います。
さて、それはそうと長かった「雷の日」エピソードもこれにて完結となります。
次の話から少しずつ物語が動き始める予定なので、ぜひお楽しみに……!
凛久も少し登場機会を増やすかも……?
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