第40話 王宮の使い

 空き家を一棟借り受け、軽傷者の療養所に整えて三日経つ。ふれを出せば診療所に人があふれかえり、忙しい日々が始まるだろう。王都にはゴンザの他にもヒーリアンが沢山いるけれど、朱殷熱レグアを疑う患者は追い返すらしい。そんなけしからんヒーリアンを引っ張ってきて手伝わせなくちゃ、なんて思っていた。


 けれど、三日経っても事態は全く変わらなかった。診療所は町外れにあるから、訪れる患者はそれほど多くないらしい。貧しい人は診療所に支払う金が無いし、町に住む金持ちは町の診療所へ行く。ゴンザの所に来るのは、町の診療所で断られた、ある程度金持ちの朱殷熱レグア患者だけだ。


 除虫菊の無料配布も、スパの無料開放も行なわれていない。町は相変わらず、回収しきれていない排泄物が点在し、虫やネズミがたかっている。


 新しく設けた療養所に移すような軽症患者がいないから、俺とジャスパーは元あった療養所で治療を行なっていた。


 王都中の患者が集まってきたら、全員にジュールを使った治療を施すのは無理になる。だから、軽傷者は普通の治療食を使い、重傷者をジュールで治療する予定だったんだけど。


 ジュールを施したミノタウロスの乳とプルーロを少しずつ与えて重傷者を回復させたが、余りにも患者が多くてあっという間に使い尽くしてしまった。今は、治療食としてトメリを使っている。ジュールを施した果実をすりおろしてジュースにし、飲ませているんだ。トメリは畑で収穫できるけれど、夏野菜だ。これから冬がやってくるから、冬野菜の中で治療効果の高い物を探さなければ。


「ミノタウロスの乳がもう少しあれば、乾酪に出来たのにな」

「乾酪?」

「乳を発酵させて作るんだ。俺の田舎では牛の乳で作るんだよ」


 昼飯のお握りを食べながら、ジャスパーが言う。俺達は寝る間を惜しんで診療に当たっている。昼飯は、唯一ホッと出来る時間だ。


「美味しいのかい? 乾酪って」

「美味しいよぉ。火に炙ってとろりとさせて、パンにのっけて食べるんだ。俺の田舎は麦が主食だからさ」

「俺の故郷も麦が主食だった。ああ、パン食いてぇなぁ……」

「あうう」


 同意したようにジローがパタパタ尻尾を振る。ジローは白いエプロンを身につけ、ジャスパーの助手を務めている。


「ミノタウロスの乳は乳脂肪分が多いから、濃厚で美味いだろうな。でも、あそこまで行くのは大変だ」

「ミノタウロス相手に、乳を貰えるようなコネを持ってるのが凄いよ」


 ジャスパーが苦笑した。それから、小さな咳をする。何気なく視線を向け、俺はハッと息を飲んだ。


 ジャスパーは灰色の割烹着の下に高襟のシャツを着ている。喉の上まですっぽり覆う程高さのある襟だ。その襟から、うっすらと赤い痣が見えていた。俺の視線に気付いたらしく、ジャスパーがこちらを向く。その視線が、オドオドと揺れた。


「ジャスパー、もしかして……」


 俯いた灰色の肩が震える。


「今朝から、身体がだるいんだよ。……ブラドで診て貰えないかな」


 こちらに差し出した手も、ブルブル震えていた。俺はその手を取り、脈に触れる。脈は少し速い。その内側に潜っていく。


 喉の辺りに朱殷熱レグアが病巣を作っている。


「まだ、喉の上辺りに毒がとどまっているよ。ジュールを施したトメリを食べて、体調が戻るまで休んで。ジャスパーが倒れたら、みんなが困る」


 ジャスパーはクシャリと顔を歪め、首をゆっくりと横に振った。


「情けないな……。予防は万全だったのに」


 俺はその手を両手で掴んで頷いた。


「ジャスパーが用心深いことは、俺がよく知ってる。誰にだって、うっかりすることはあるさ」

「心当たりがあるのは、一週間も前なんだけどな……。咳き込む患者の側で口布がずれてしまって、唾が顔にかかったんだ。でも、今日まで身体はなんともなかったしな……」


 ハッと俺は息を付いた。初対面の握手をした時、ジャスパーの手から朱殷熱レグアの気配を感じた。あれは気のせいではなかった……?


「毒が身体に入って、病気を引き起こすまで時間差があるのかも……」

「時間差……?」


 俺は頷く。


「ジャスパーの話から推測すると、毒が入ってから病気になるまで一週間の時間差がある」


 ジャスパーが大きく目を見開く。その時蹄の音が聞こえてきて、見開いた視線は俺の背後に移っていった。上り坂の上に、小さな茶色い馬車が姿を現す。患者を乗せた馬車だろうか。俺とジャスパーは表情を引き締めて立ち上がった。


 だが、馬車は患者を乗せる物にしては豪華だった。幌ではなく、しっかりとした木製キャビンの馬車だ。御者が鞭を振り上げて馬を急かしている。


 馬車は俺達の目前で停車し、キャビンから男が降りてきた。宮廷で働く人が着ているような、上等な布地の上着を身につけている。口ひげを生やした使者は、徐に俺の手首を掴んだ。


「メディシアンのタイラー。国王陛下がお呼びだ。馬車に乗れ」


 いきなり手首を掴むなんて酷い扱いにムッとし、俺はその手を振り払った。


「どういったご用件でしょう。俺は患者の治療をしなくてはなりませんから、ここを離れるわけには参りません」


 きっぱりと言ってやる。ジローが守護神みたいに俺の背後に立つ。使者は苦虫を噛みしめたみたいに顔を歪める。


「国王陛下の命令だ!」

「だから、どんなご命令なのです? 人命よりも優先されることですか」

「こちらも人命に関わることなのだ」


 使者が表情を強張らせ、声を潜めた。


「第一王子が、朱殷熱レグアにかかられた」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る