梅の花

十四たえこ

梅はこぼれる

 花田梅子。27歳。派遣社員。

 今となっては諦めもついたが、子供の頃はこの名前が大嫌いだった。

 梅の季節に生まれてしまったばかりに梅子だなんて、お腹の中でもう少し待てば桜子だったことを思うと、悔しくてならない。

 梅なら梅でも、子をつけるセンスが古臭い。

 花言葉は高潔、忠実、忍耐。両親はこれも気に入って名付けてくれたのだが、いずれも現代の美徳とはズレている気がしている。私をゴールデンレトリバーかなにかと間違えていないだろうか。


 この季節になると、あちらこちらの庭に、忌々しくも、梅が植えられていることに気づく。もう少しすれば木蓮が、そして桜が、その存在を主張する。

 私は、氷雨の降るその日、駅からアパートに帰る線路沿いの道で、白梅の花を見た。

 こんなところに、梅の木があっただろうかと不思議に思うが、雨空の中にあって、見惚れるほどに満開だった。

 街灯に照らされた花は淡く光っているようだ。

 私は、その枝に誘われるようにそっと手を伸ばし、手折った。


 普段からこんなことをしてるわけではない。27年間、悪いことをしたことがないのが私の誇りだった。緊張して動悸がした。


 足早にアパートに帰る。

 六畳の1K。天井が低く、部屋の形が四角ではなく、一角が削れた五角形になっているため、相場より少し安い。

 ローテーブルにコップを出して、梅の枝を活ける。

 ドキドキが止まらない。どうせあの位置では、傘につかえていずれはたき落される運命だっただろう、と、自分に言い聞かせる。


 細くまっすぐな、新しそうな枝についた梅の花は五つ。八重のたっぷりとした花びらが、プリっと咲きほこっている。


 洋輔が帰ってくる。洋輔は学生時代からの恋人だ。今や営業職でこなれ果てているが、元は将棋部の主将で物静かで知的な男だった。彼は実家暮らしで、家が遠いので、私の部屋に半ば住んでいた。

 

 「なにこれ、拾ったの?」

 洋輔が聞く。

 「折ってきたの。そこの道端から」

 「勇気いるでしょう。植物を折るって」

 「ううん。なんだか、当たり前のように手が出て。怖かったのは、折ったあと」

 そんなもんかね、と洋輔は梅の花をつついた。細い枝はわずかに揺れる。


 「梅ちゃん、梅は嫌いだと思ってた」

 嫌いだよ、と答えようとしたが、この綺麗な花の前でそう言うのは、はばかられ、その言葉は飲み込んだ。

 「子供の頃、クラスの男子が梅も桃も、桜の見分けもつかずに、白とかピンクの花が木に咲いてると、おい、梅子!梅が咲いてるぞ!って告げ口してくるの、わずらわしくって」

 「そんなことで嫌ってたんだ」

 「そんなことっていうけど、今もよ。おじさん達は梅酒飲むかい?梅子だけに!って。私が嫌いなのは、梅じゃなくてこの名前」

 洋輔のコートをハンガーにかけながら答える。洋輔は、まるで実家のように、自分のスウェットをひっぱり出して着替えている。


 日常の中にあって、白梅の枝は、光り輝く杖のようだった。

 「梅ちゃん、ちょっとそれもって振ってみて」

 「なんで」

 「魔法の杖みたいで、いいから」

 「自分でやれば」

 「こういうのは女の子の方がいいんだよ」

 女の子なんていう年でもないが、と少しためらいながらも、枝を手に取る。

 「よ、ちちんぷいぷい!」

 「掛け声が古臭いよ」

 「びびでぃばびでぃぶー!」

 「オリジナリティ出して」

 

 言われて、ばばばばばっと五芒星を絵描き、真ん中を突く。しかし、言葉が出てこない。

 「無理だよ。」


 「梅ちゃん、無理じゃないよ」

 甲高い声がした。また揶揄ってる、と洋輔を見るが、彼は笑顔で静止している。


時が止まったかのように。


 「命じてごらんよ」

 声は続く。私はおそるおそる枝を見る。

 「何、あなた」

 枝を取り落としそうになる。

 梅の花が、ひとつ、はらはらとこぼれ、その中に小人が現れる。淡く光る白梅の着物をまとった3歳ほどの美しい子供。チューリップならば親指姫、なよ竹ならばかぐや姫。梅の花ならば。

 「ぼくは、神の使い」

 彼はそう言った。

 「慌てないで。梅の枝が折られるなんてよくあることさ。手折った人の願いをきく、それが僕らの神様の仕事さ」

 そんな話、聞いたこともない。

 「なんでもいい。願いをきくよ」

 「無病息災……?」

 「いいね。梅ちゃんは、身体は健康だけど、少し鬱の気があるから、祓ってあげる」


 さわっと、突然風が吹いたように、頭の曇りが取れる。

 曇っていたという自覚はなかったが、晴れてみれば初めてメガネをかけた時のような感動が待っていた。人は、こんなにもクリアに世界を見ている。

 「鬱の気は君の思考を狂わせるからね。死にたいなんて、もう思わないよ」

 「そんなこと、思ったこともないけど」

 反射的に、ない、と否定しながらも、わけもなくここから消えたい、と考えたことがないわけでもないと、心の片隅が囁く。

 「そう? 死ね、も思わないかも」

 「それも、長らく思ってない」

 「そう思わないでいい環境に甘んじてきたんでしょう?でも君は、もうどんな逆境にいても、そう思わないんだ。


 戦える」


 「戦う?そんな気もないけど」

 「逃げなくていいんだよ」

 「逃げてるつもりもなかったけど」

 答えるうちに、頭に様々なことが一瞬でよぎり、弾けた。目立たないように過ごした学生生活、途中でやめた部活、フェードアウトした就職活動。妥協した派遣勤務。ズルズルと居候させている恋人。


 私は、戦いの場に立ったことがない。


 晴々と冴え渡った思考。

 なぜ、こんな夢も希望もなく日々を暮らしてきたのか。

 確かに、逃げてきたのかもしれない。

 夢を思い描くことから。

 

 「願いは?」

 「自分で叶えられる気がする」

 今なら、自分で叶えたい。

  

 「そう」

 甲高い声がすぅっと消える。

 


「枝振ったら花落ちちゃったね」

 洋輔が、言う。手元を見ると、こぼれた梅の中に小人はいなかった。小さな額が一つ。残りの四つは、かわらず気高く咲き誇っていた。

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梅の花 十四たえこ @taeko14

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