麻衣ちゃんは、毎日じゃないけど日記を書いてるって言ってた。ブログとか、イマドキっぽくSNSとかじゃないところが、さすがって感じ。

 もし私がSNSをやりたいなんて言ったら、どうなるかな。やっぱりひっぱたかれるかな。


 私のお母さんは、ちょっと変わっている。

 こだわりが強いというか、自分がいいと思ったもの、許したものしか受け入れようとしないし、それを娘の私にも容赦なく押し付けてくる。

 添加物とか着色料とか、そういうものを極端に嫌うお母さんは、食事をすべてイチから手作りをする。選ぶ材料は生産地重視で、こだわりのオーガニック。調味料にも並々ならぬこだわりがあって、とにかく自然由来の体に害がないものを選びたがり、お母さんが認める「いいもの」であれば目玉が飛び出るくらい高額なものでも、時間をかけて海外から取り寄せたりする。

 冷凍食品やスーパーのお惣菜やハンバーガーなんて、お母さんに言わせると「猛毒」らしいので、もちろん私はそんなもの今までの人生で一度だって口にしたことがない。

 お菓子だってそう。

 同じ年頃の子たちが食べてるようなおいしそうな既製品のキラキラしたお菓子、私は食べたことがない。

 小さなころから、三時のおやつとして出されるのは、お母さんが作った優しすぎるお味のお菓子だけ。優しい味と言えば聞こえはいいけど、実際それはほとんど味がしなくて、なんかボソボソしていて、はっきり言って全然おいしくなんかない。

 周りのみんながチョコレートとかビスケットとか、流行りのキャラクターシールのついたウエハースをワイワイ食べているのが、死ぬほど羨ましくて辛かった。

 いつだったか忘れたけど、お母さんに「みんなと同じお菓子が食べたい」と言ってしまったことがある。一秒後に後悔したけど。

 その言葉を聞いたお母さんは、私の頬をひっぱたいた。「お菓子を食べたい」と言って叩かれるなんて夢にも思っていなかった私は、驚いて目を丸くすることしかできなかった。

 ショックだったし、もう随分昔のことだからよく覚えていないけど、そのときのお母さんは頭の芯に響くキンキンした声で「何ふざけたこと言ってるの! 体に悪いものしか入っていないのよ! そんなもの食べたらどうなると思う? 体に毒がまわってボロボロになって、今よりもっと醜くなるわよ!」とかなんとか叫んでいたような気がする。

 私は、世間一般で言うところの「かわいい女の子」ではない。それは自分が一番よく分かっているし、受け入れているつもりではある。

 だけどきっと、お母さんはそうじゃないんだと思う。自分の娘が「かわいくない」なんて、受け入れられないんだろう。

 そうだから、自分が認めた「いいもの」だけを選んで与えることで、私がこれ以上醜くなるのを回避しようとしているんじゃないかと私は勝手に考えている。

 事実、お母さんは、「菜月はお顔がかわいくないんだから、肌くらいきれいにしておかないでどうするの」とか、「お顔が良くなくても、髪がきれいならごまかせるわよ」とか、「見た目がダメでも、お勉強ができれば生きていけるからね」とか、多感な年頃である娘の心を抉って傷付けるには充分すぎる言葉を平気で投げつけてくる。

 お母さんの言う「体に悪いもの」は、口に入れるものだけじゃない。

 直接肌につける衣類やシャンプー、化粧水なんかも全部こだわりのオーガニック製品が用意されている。流行りのおしゃれなオーガニックなんかじゃなくて、色味がなくて、いい匂いなんてしなくて、ダサいやつ。

 おしゃれなものに敏感な小学生高学年女子が、無地のベージュブラをつけているなんて恥ずかしすぎて、体育の時間にみんなと一緒に着替えをするのが本当に嫌でたまらない。

 目に見えるものだけじゃない。そこら中にあるはずの目には見えない菌とか、電波とか、そんなものも「体に悪いもの」の対象として扱われている。菌がダメっていうのは分からなくもないけど、お母さんの場合はその感覚というか、程度がちょっと異常なのだ。

 人が触るものにはすべて、体を破壊する最悪の菌が付着していると信じているお母さんは、家中のリモコン類やドアノブ、ドライヤーとか掃除機の持ち手部分を全部――本当に家中のもの全部をラップでぐるぐる巻きにしている。

 毎日一時間ごとにすべての部屋に除菌スプレーを噴いてまわり、暇さえあればずっとどこかを掃除しているのがお母さんの日常。

 小学校の入学式の日、私の靴箱の上下左右に隣接する靴箱に、持参した除菌スプレーを噴射して他の保護者に気味悪がられたという最低のエピソードまであったりする。

 発する電波がよくないと言って、テレビは一日三十分までと決められている。もちろんゲームなんて買ってもらえるわけがないし、スマホなんて当然持たせてもらえない。

 「菜月のためなのよ」が、お母さんの口癖だ。

 こだわりのオーガニック製品を高いお金を出して買い付けるのも菜月のためなのよ。いいものを使っていないと体に毒がまわるし、肌が汚れて顔中ニキビだらけになって、ついでにブクブク太るからね。

 周りの子たちを見てご覧なさい、猛毒がたっぷり入ったものばかり食べているから、ニキビができて、髪だってぼさぼさでしょう?

 菌や電波を遠ざけるのも菜月のためなのよ。そうしないと体が破壊されて不治の病気になったり、頭がやられておかしくなってしまうからね。

 ゲームや漫画を禁止するのも菜月のためなのよ。娯楽は、人を心を気持ちよくして堕落させるための質の悪い麻薬だからね。そんなものに触れる暇があるなら、将来のために勉強しなさい。

 ――うんざりだ。

 それでも文句を口にせず、おとなしく言うことをきいているのは、「菜月のためなのよ」という押し付けがましい呪いの言葉を、ほんの少しだけ信じたい気持ちがあるからかもしれない。

 お母さんの与えてくれる「いいもの」だけを食べていれば、使っていれば、もしかしたら、本当にもしかしたらだけど私も、ほんのちょっとかわいくなれるかもしれないって。今よりマシな自分になれるかもしれないって、期待してしまっているのかもしれない。

 お父さんはといえば、自分の妻と娘に興味のない人だった。だからお母さんのすることには何も口を出さないし、私がそれで不利益を被っていることなんか知る由もないんだろう。仕事が忙しくてほとんど家にいないから、お母さんの行動も気にならないのかもしれないけど。

 そんな感じで妻子に全く興味がないお父さんの転勤があって、我が家は私が中学に入学するタイミングで引っ越しをすることになった。

 新しい家でもお母さんの行動はどうせ何も変わらないんだろうとは思っていたけど、ほらやっぱり。お隣の家へ挨拶しに行くのに持っていく手土産が、自分の作ったお菓子ってどうなのよ。

 普通こういうのって、デパートとか百貨店とかで買った無難な既製品じゃないの? 初対面の人に手作りって、信じられない。

 間違いなく、貰って困る手土産ランキング上位だと確信していた私は、お隣の峯山さんが嬉しそうにそれを受け取ったのを見て拍子抜けした。

 いや、気持ち悪いと思っても、さすがにその場では顔に出さなかっただけかもしれない。だとしたら、気を遣わせてしまってごめんなさいとしか言えなくなる。

 峯山さんとお母さんが玄関で立ち話をしていると、奥の部屋から女の子が二人、ひょっこりと顔を覗かせた。

 麻衣ちゃんと、妹の亜衣ちゃんだと、峰山さんが紹介してくれる。

 姉の麻衣ちゃんのほうは私と同い年で、四月から同じ中学に通うらしい。麻衣ちゃんはそれをとても喜んで、一緒に登校しようと誘ってくれた。知り合いなんて一人もいない町への引っ越しで不安だった私にとって、それは朗報だった。

 だけど同時に、胸が少しざわついた。

 麻衣ちゃんは、私の理想の女の子だった。

 かわいくて、明るくて、人懐っこくて、私にないものを沢山持っている。きっと勉強も運動も、人並みかそれ以上にできるんだろう。

 そんな子が隣に住んでいて、一緒に登校までしてくれるのは私だって嬉しいんだけど、心の一番底の部分に、隣を歩きたくないという気持ちがあった。

 絶対、比べられるに決まっている。

 そして左右を見比べてみた結果として私に貼り付けられるであろうラベルはきっと、「引き立て役」。

 そんなラベルが背中に貼り付いていることに、私が気付かないフリをすればいいだけの、不公平で円満な関係になってしまうんだろう。

 麻衣ちゃんの部屋のちょうど真向いにある部屋が、私の部屋に決まった。

 峯山さんの家はうちとものすごく距離が近いから、カーテンを開ければ隣の部屋で麻衣ちゃんが何をしているのかすぐに分かった。

 私の視線に気が付くと、麻衣ちゃんはいつもリアクションをしてくれるし、そのまま窓を開けて話しかけてきてくれることもあった。

 私の予想通り、やっぱり麻衣ちゃんはなんでもできる人間だった。なのにそれを全然鼻にかけたりせず、ひとつひとつの言動に全くイヤミがない。私のことを、「お隣に住んでいる対等なお友達」として扱ってくれる、完璧な存在。

 この子の引き立て役になれるなら、喜んで引き受けようとすら思ってしまう。

 中学生としての生活に少し慣れてきたころ、家に遊びに来ないかと麻衣ちゃんに誘われた。

 友達の家に遊びに行くなんて本当に久しぶりだったから、私は喜んでその誘いを受けたのだけど、いつも窓越しに見ている麻衣ちゃんの部屋に案内されて、私は自分の世界が壊れるような衝撃を受けた。

 私の家にはないものが沢山ある。かわいい絵柄の少女漫画に、キラキラした表紙のファッション雑誌、自然界にはない色味のインテリア雑貨、綿百パーセントじゃないおしゃれな布団カバーや、合成繊維丸出しのイマドキなお洋服――。

 自分の家にいるとつい忘れてしまいそうになるんだけど、これが普通なんだ。これが、普通の女子中学生の部屋なんだ。

 これをお母さんが見たら、どうなるだろう。めまいを起こして卒倒してしまうんじゃないだろうか。

 部屋に入ってしばらくすると、麻衣ちゃんのお母さんがおやつを持って来てくれた。これまた、私が見たことのない形状。まつたけの形をしていて、傘の部分がチョコレート、茎の部分がクッキーでできている。

 麻衣ちゃんにすすめられて、ひとつつまんで食べてみた。もしこの場にお母さんがいたなら、間髪入れずに私はぶん殴られているだろう。

 この世に生を受けて初めて口にしたチョコレートは、頭のてっぺんから足の爪の先まで痺れ上がって、脳が焼き切れるかと思うほどに衝撃のおいしさだった。

 私以外のみんなは、こんなにおいしいものを毎日のように食べているの? こんなにおいしいものがこの世には存在するのに、どうして私は食べられないの?

 頭の中を、そんな思考が駆け巡る。

 チョコレートを生まれて初めて食べたと告白する私を見て麻衣ちゃんは驚いていたけど、馬鹿にしてからかったりはしなかった。

 それどころか、体に優しいお菓子を手作りする私のお母さんのことを「羨ましい」とまで言ってくれたのだ。

 この日、私の中で何かが変わった。

 麻衣ちゃんは、毎日当たり前のように「体に悪いもの」に触れている。それなのに、全然醜くなんてない。むしろ逆で、誰が見ても、見た目も中身も美しい女の子なのだ。

 「菜月のためなのよ」

 あれは本当に呪いの言葉に他ならなかったのだ。私のためだなんてそんなの、お母さんが私を支配するために使っていただけの偽言で、ただの戯言だった。

 お母さんの言うとおりに「体に悪いもの」を遠ざけても、私は麻衣ちゃんみたいにはなれない。だけど「いいもの」だけを選んだとしても、きっと結果はたいして変わらないんだろう。

 それなら、私は「体に悪いもの」を選びたい。みんなと同じように、キラキラしたい。普通の女子中学生になりたい。これまで我慢していた人生を取り戻したい。

 その決意は、私の世界に分かりやすい変化をもたらした。

 好きな人ができてしまった。

 きっかけは本当に単純で、私が廊下で落としたタオルハンカチ――今更説明するまでもないんだけど、当然オーガニックのダサいやつ――を拾ってくれて、優しく私に手渡してくれたから。

 隣のクラスの笹本くん。

 背がすらっと高くて、イケメンではないけど、かっこいい。誰にでも、こんな私相手にでも平等な態度で接してくれて、優しいと評判の彼は、やっぱり女子から人気があった。

 ハンカチを拾ってくれたことをきっかけに、笹本くんは私を校内で見かけるとリアクションをとってくれるようになった。手を振ってくれたり、微笑みかけてくれたりする。

 みんなにそうしているんだってことは分かっているし、私だけが特別扱いされているなんて勘違いはしていない。それでも嬉しかった。笹本くんの笑顔は、私の心拍数を簡単に跳ね上げてしまう。

 笹本くんと、もっと仲良くなりたい。もっと関わりたい。

 だけどスマホを持っていない私は、連絡先の交換なんてできない。まさか自宅の電話番号を教えるわけにもいかないし、これまで誰かを好きになったことなんてなかった私は、どうしたらいいのか分からない。

 麻衣ちゃんに相談してみようか。麻衣ちゃんならきっと、私の拙い恋の話も笑わずに聞いてくれるだろう。

 そう考えていた矢先、まさかの麻衣ちゃんから先に相談を受けてしまった。

 好きな人と連絡先を交換したけど、連絡する口実がない、どうしたらいいかなと聞かれたけれど、そもそも連絡先の交換すら物理的に不可能な私にとって、それは異次元の悩みだった。

 だけどあの麻衣ちゃんが、恋の悩み相談相手に私を選んでくれたということがたまらなく誇らしかったから、どうしたらいいか、どうしたら麻衣ちゃんの恋がうまくいくか、貧困な想像力を必死に絞って考えてみる。

 そういえばと、帰り道の掲示板にお祭りのポスターが貼ってあったことを思い出したので、それを麻衣ちゃんに伝えて、好きな相手をお祭りに誘ってみたらと提案してみた。

 いいねそれ、と声色が明るくなったから、私はほっとした。恋愛経験皆無の私でも、麻衣ちゃんの役に立てたのだ。

 ほんの少しだけ自分に自信が持てた気がしたから、私も笹本くんをお祭りに誘ってみようかななんて、身の程知らずなことを考えてしまった。

 「ごめん、妹と行く約束してるんだ。せっかく誘ってくれたのにごめんね」

 学校の帰り道、笹本君がひとりになった瞬間を狙って、全身からかき集めた勇気を最大限に絞り切って挑んだ私のお誘いは、検討する素振りすらなく爽やかに断られてしまった。

 断られて当たり前だと思っていたはずなのに、「ごめん」を聞いた瞬間にのどが痛くなって目頭が熱くなったのはなぜだろう。

 いいのいいの、妹さんと楽しんでねと伝えて逃げるようにその場を去り、家に帰って少しだけ泣いた。

 お祭り当日、私は家から出ないつもりでいたんだけど、お母さんに買い物を頼まれてしまった。除菌スプレーの詰め替えストックがなくなったらしい。

 そんなのお母さんしか使わないんだから自分で行ってよと、私にしては強気な言葉を投げつけてみたけれど、電子レンジの中を必死にこすっているお母さんの耳には届いていないみたいだったから、諦めた私はエコバッグを掴んで家を出た。

 途中、お祭り会場である神社の横を通りかかったとき、その光景を見てしまった私はひゅっと息を飲み込んだ。後頭部がひやりと冷たくなる感覚に襲われる。やっぱり今日は家から出るべきじゃなかったと、死ぬほど後悔した。

 浴衣を着て、いつもより数段かわいさのレベルが上がった麻衣ちゃんの隣を、笹本くんが寄り添うように歩いている。よく見ると、二人は手を繋いでいた。それは、ただの友達なんかじゃない、完全に初々しい恋人の距離だ。

 麻衣ちゃんの好きな人って、笹本くんだったんだ。

 そうとは知らずにアドバイスなんてした私は、なんて滑稽なんだ。

 笹本くんをお祭りに誘って、オッケーしてもらえたんだ。

 笹本くんは妹と行くって言ってたのに、嘘だったんだ。

 私はダメだったのに、麻衣ちゃんは――。

 猛ダッシュで家に帰り、勢いのまま階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込んだ。階段下から、お母さんのキンキンした声が響いてくる。買い物はどうしたのとか、部屋に入る前に手を洗いなさいとか言っているけど、知るか。それどころじゃないんだよ、こっちは。

 ベッドに飛び乗り、オーガニック素材のダサいカバーがかけられた枕に顔を埋めて泣きじゃくった。

 どれくらいそうしていたか分からないけど、気が付くと麻衣ちゃんの部屋に電気が点いていた。

 カーテンを少しめくって部屋の中に目をやると、おしゃれな部屋着に着替えた麻衣ちゃんの後ろ姿が見えた。こちらに背を向けて机に向かい、一生懸命に何かを書いている様子だ。

 麻衣ちゃんは、笹本くんと付き合っているんだろうか。いつの間に? もしかして今日から?

 もう、羨ましいなんて分かりやすい感情はとっくに通り過ぎてしまっていた。

 ――妬ましい。

 どうして麻衣ちゃんばっかり。全部持ってるのに。私が欲しくても手に入れられないものを全部持ってるのに、私が初めて好きになった人まで持って行ってしまうの?

 かわいい容姿に明るい性格、勉強も運動もできて、体に悪くておいしいものを我慢せずに食べられて、テレビは好きなだけ見られて漫画も好きなだけ読めて、スマホで流行の動画を見ることもできて、おしゃれな服を着て彼氏とデートだってできる。

 欲しい。私もその「普通」な人生が欲しい。

 お母さんに支配されて、誰かの引き立て役の人生なんてもう嫌だ。

 そう思った途端、私は動き出していた。

 窓を開けて、麻衣ちゃんの部屋の窓に手を伸ばす。鍵はかかっていなかった。音を立てないよう慎重に窓を開け、そこから麻衣ちゃんの部屋へと入っていく。麻衣ちゃんは書くことに夢中になっているのか、背後に立つ私に全く気付く様子がない。

 足元に落ちていたスマホの充電ケーブルを拾い上げ、それを麻衣ちゃんの細くて白い首にまわして一気に絞め上げた。


 足元に転がる動かなくなった麻衣ちゃんを、なんとかしないといけない。

 一晩中考えて、麻衣ちゃんが死んでしまったことに気付かれない方法をひとつだけ思いついた。もしかしたら、もっと良い方法があったのかもしれないけど、私の頭で閃く限りではこれが限界だった。

 ――麻衣ちゃんの人生を、私のものにする。

 窓の外がうっすらと白んできた頃、テーブルの上に置きっぱなしになっていた麻衣ちゃんのスマホをつかみ上げ、画面を点灯させてみる。

 指紋認証を要求されたので、麻衣ちゃんの冷たくなった指を一本ずつ画面に押し当てていくと、右手の人差し指で無事にロックが解除された。

 初めて触るスマホには沢山のアイコンがずらっと並んでいて何が何だか分からないけれど、とりあえずメールと思われるアイコンをタップしてみると、麻衣ちゃんのお母さんからのメールがいくつか保存されているのが分かった。

 慣れない文字入力に戸惑いながらもメールを作成し、麻衣ちゃんのお母さんへ送信する。しばらくすると部屋の前に誰かがやって来た気配がして、その人物はノックもせずにドアを開けようとしてきた。

 お母さんが、さっきメールで要求した段ボールやガムテープを持って来てくれたのだと分かったが、焦った私は咄嗟に「部屋の前に置いてあっちへ行け!」と怒鳴り声を上げてしまった。お母さんと思われる人物が、足早にその場を離れるのが分かる。

 これまで、こんなふうに人を怒鳴りつけたことなんてなかった私は、本能のままに声を出し、他人を威嚇して従わせるのがこんなにいい気分になる行為だとは知らなかった。

 一緒に要求しておいたノコギリも時間差で届いたので、それを使って麻衣ちゃんの体をバラバラに切断した。床に敷いてあった毛足の長いピンク色のラグは、血でべっとりと汚れてしまって気持ちが悪かったけど、これを洗濯に出すわけにはいかないので我慢するしかない。

 雑誌のページを破って細かくなった体のパーツを少しずつ包み、ガムテープでぐるぐる巻きにしてゴミ袋へ詰めていく。

 解体作業は深夜までかかり、中身が絶対にこぼれないよう念入りに封をしたゴミ袋は、麻衣ちゃんの家族が寝ている間に部屋の外へ放り出しておいた。

 解体作業が無事に終わったら、誰も部屋に入って来れないよう、ドアと窓を段ボールとガムテープを使ってしっかりと封鎖しておく。しかしこれだと外から物を受け取ることができないということに気が付いて、ドアの下のほうを十五センチほど繰りぬいた。

 すべての作業を終えるころには、すっかり夜が明けてしまっていた。

 「部屋を封鎖した」という内容のメールを送ると、すぐにお母さんが部屋の前に来る気配がした。部屋の前にある無数のゴミ袋に気が付かないはずはないだろうから、すぐにゴミ捨て場に置いてきてくれるだろう。まさかその中に、自分の娘が入っているとも知らないで。

 麻衣ちゃんの人生を自分のものにした私の生活は、夢のように快適でたまらなかった。

 食べたいものは何でも用意してもらえるから、「体に悪いもの」をひたすらに貪った。

 お父さんのクレジットカードを盗み出して、憧れていた合成繊維丸出しのキラキラ服を買い漁り、部屋の中で毎日ひとりファッションショーを開催した。オーガニックではない、おしゃれな化粧品を顔に塗りたくって。

 麻衣ちゃんのスマホを使って、話題の動画や観てみたいと思っていたドラマや映画をひたすらに追いかけた。

 思い通りにならないことがあれば、適当に暴れればいい。それで家族――元々は、麻衣ちゃんの家族だった人たち――はなんでも言うことを聞いてくれる。

 この家を支配しているのは私なのだという感覚は、気分をひどく高揚させた。危ない感じの脳内物質がドバドバ出ている、絶対に。

 私のお母さんも、もしかしたらこんな気分だったんだろうか。「菜月のためなのよ」という呪いの言葉を使って娘を支配することに、ある種の幸せを感じていたのかもしれない。

 けれど、部屋から出ずに堕落した生活を続けることで崩れていく体形や顔中にできたニキビを見ていると、ふと、あの言葉もあながち嘘ではなかったのかもしれないと考えることがある。

 だけど、もうそんなことはどうだっていい。

 部屋に閉じこもっている限り、姿を晒して誰かに評価されることもないんだから、見た目のことなんてもう気にする必要なんかない。

 そして麻衣ちゃんの人生を生き始めて少し経ったころ、隣に住んでいた私の両親はどこかへ引っ越して行ったらしいことを、麻衣ちゃんのお母さんからのメールで知った。

 薄情な親め。自分の娘がいなくなって、ろくに探そうともしないのか。

 まあ、もともとお父さんは妻子に興味がない人だし、お母さんもかわいくない娘がいなくなって清々していたのかもしれない。

 帰る場所がなくなった私はもう、この部屋の中でしか生きられない。

 私がこの部屋を出るとき、それは、私が死ぬときだ。


 そんな生活を続けていたある日、妹の亜衣ちゃんがドア越しに恐ろしいことを伝えてきた。

 「お父さんたちがお姉ちゃんを部屋から引っ張り出すために業者を呼びに行ったよ。ドアを無理やり開けるみたい」

 絶対にそんなことをさせるわけにはいかない。

 すぐに亜衣ちゃんにメールを送り、ベニヤ板や金槌なんかを用意させる。

 半日かけて部屋のドアと窓に頑丈なバリケードを張り、もちろんドア下の穴も塞いだ。これでそう簡単には部屋に入って来れないはずだ。

 それでも、万が一にでも誰かがドアを破って侵入してくるかもしれないという不安はあった。その場合は刺し違える覚悟で応戦するつもりだ。右手に金槌、左手にノコギリを構えて、ドアの横に座り込んで張り付いた。

 そのまましばらく動かないでいると、突然、焦げた臭いが強く鼻をついた。何事かと思い、立ち上がろうと壁に手をつくと、熱い。気のせいか、パチッパチッと小さな破裂音のようなものが聞こえる。

 ――家が、燃えている?

 途端、壁際のタンス裏から黒い煙が上がり、壁を燃やしながら這い上がり始めたオレンジ色の炎が、あっという間に天井まで広がっていく。

 外から簡単には入って来れないよう頑丈に封鎖したドアと窓は、内側からも簡単には開けられなくなってしまっている。張ったばかりのベニヤ板を剥がそうとしても、恐怖で手が震えて力が入らない。

 板の隙間に指を入れて思いっきり引っ張ったら、爪が剥がれて飛んで行った。痛みのあまり、その場にうずくまる。

 炎が燃え広がっていく。部屋が火の海へと変わっていく。息を吸うと喉が焼けるように熱い。苦しさと恐怖で、意識が遠くなってくる。

 そして、私は、













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家が燃えた、家族の話 ユウヤミ @yumaxxx

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