母
ああ、どうも。峯山です。
すみませんちょっと、最近どうも疲れてしまっていて……。長い時間お話はできないかもしれませんが、それでもよければ。
麻衣が部屋から出てこなくなった日のこと、なんとなくは覚えているんですけれど、なぜそうなったのかは分からないんです。あれは、近所で何か小さなお祭りがあった日だったんですが――。
お友達と一緒にお祭りに行くと言って、押し入れから前の年に買った浴衣を引っ張り出してきて、ちょっとお化粧もしてたのかな? お母さん、髪もかわいく結ってなんてお願いされて。
すごく楽しそうにしていたことはよく覚えています。
たぶん、当時お隣に住んでいた宮内さんちの菜月ちゃんと一緒に、お祭りに行ったと思うんですよね。すごく仲が良かったので。
ええ、たぶんです。私は麻衣を玄関で見送って、そのあとのことは見ていませんから――そういえば、お祭りに誰と一緒に行くって、聞いていないかも。どうせ菜月ちゃんと行くものだと思っていたので、私も詳しくは聞かなかったんですよね。
宮内さんは、確か麻衣が中学に入学する年の春休みに越して来たんです。
ご丁寧に奥様が手作りしたお菓子を持ってご挨拶に来てくださって、玄関で少し立ち話をしたんですけれど、一人娘の菜月ちゃんがうちの麻衣と同い年で、四月からは同じ中学に通うってことが分かったんですよね。
一緒に登校しようねなんて、麻衣と菜月ちゃんは二人で約束してて、それを見た亜衣が横で羨ましそうにしていました。
あ、すみません。亜衣というのは次女です。麻衣とは四つ年が離れています。
お隣の家なんですが、宮内さんが越してくるまでずっと長いこと空き家だったんですよ。売りに出してるみたいだったんですけど、なかなか買い手が付かなくて。
このあたりは駅からも結構近いし、スーパーや学校も多いし、痒いところに手が届く感じで便利だし、その割にお安いのになぜだかなかなか売れなかったんです。
うちとの距離が近すぎるせいなんじゃないかって夫は言ってましたけど。
ええ、すごく近かったんです。建築法? とかよく分かりませんけど、これ大丈夫なのってくらい本当に近くて、窓を開けて手を伸ばせば簡単にお隣の壁に届いてしまいましたから。
ああでも、麻衣は喜んでいましたね。
たまたま、菜月ちゃんの部屋が麻衣の部屋の向かいになっていたみたいで、毎日のように窓を開けて二人でおしゃべりしてましたから。
長話をしていると軽く注意することもあったんですけど、「長電話するよりいいでしょ、電話代かからなくてラッキーじゃん」なんて言われちゃって。部屋から出ずに物の貸し借りなんかもできるからすごく便利そうでしたけど。
そういえばいつだったか、窓越しに漫画を渡そうとして落としてしまったことがありましたね。きれいに家と家の壁の隙間に入っちゃって、回収するのが大変だったんですよ。
え、あ、そうそう、お祭りの日の話でしたね。ええと、どこまでお話したかしら。
ああ、玄関で浴衣を着た麻衣を見送って、私はそのまま洗濯物を取り込んだり夕飯の支度なんかをしていたと思うんですけど、二時間後くらいかな? ちょうど夕飯ができた頃くらいに、麻衣が帰って来たんです。
ものすごくテンションが高くて楽しそう、というか嬉しそうで、ニヤけた顔で自分の部屋に入っていきました。
帰って来たならただいまくらい言いなさいとか、そんな感じの声掛けをしたかもしれませんが、麻衣はずっと夢心地という感じで、耳に入っていないようでした。
そしてそのまま、麻衣は部屋から出てこなくなったんです。
理由は全く不明です。だって、意味分からないでしょう? 大泣きでもして帰って来たというなら、菜月ちゃんと喧嘩でもしたのかしらとか、原因を想像することくらいできたかも知れませんけれど、ウキウキで楽しそうな様子だったのが一転、部屋から出てこなくなったんですから。
でも私、そのうちお腹がすいたら出てくるでしょうと思って放っておいたんですよね。
今考えればですけど、もっと何か気の利いた対応をしてあげたらよかったのかなと思ってしまうんです。
どうして出てこないのとか、何かあったのとか、体調でも悪いのとか、優しく声をかけてあげることくらいはできたはずなのに。あのときは、まさか麻衣がこのまま引きこもりになってしまうなんて夢にも思っていなかったんですよ。
まあ、今になってそんなこと言っても仕方がないのは分かっています……。
そうそう、お祭りの次の日、仲のいい菜月ちゃんなら何か知っているんじゃないかと思って、話をしようと宮内さんのお宅に行ったんですけれどね、朝起きたら菜月ちゃんがいなくなってるって、騒ぎになっていてそれどころではなかったんですよ。
結局、菜月ちゃんは帰ってこなかったのかな? そのときからなんとなく疎遠になっちゃって、結局どうなったのか分からないまま、宮内さんはまた引っ越して行ってしまったんですよね。
菜月ちゃん、家出とかするような子ではなかったんですけれどね。
――引きこもりになった麻衣は、それまでとは別人のように、すっかり様子が変わってしまいました。
明るくて優しくておしゃべり好きな子だったんですけど、誰とも会話をしなくなってしまって、性格も信じられないほどきつくなりました。
何か用があるときは、私の携帯にメールを送ってきました。あれが食べたいこれが食べたい、あれを買ってこいこれを用意しろって感じで。
麻衣の言うことをきかないと酷いことになったので、私はもう、言いなりになるしかなかったんです。
え? なんですか? 部屋にバリケード? ああ、夫に聞いたんですね。
そうですね、確か部屋から出てこなくなった次の日だったかしら。「ノコギリ、ゴミ袋、段ボール、ガムテープをたくさん持ってきて」と、麻衣がメールを寄こしたんです。
とりあえず家に置いてあった段ボールと、半分くらい残っていたガムテープを持って部屋に行ったんですけど、ドアを開けようとしたら怒鳴られました。「部屋の前に置いて、あっちへ行け! 二度とドアを開けるな!」って。
そんなことを言う子じゃなかったのに。
麻衣の声は汚く濁っていて、あれが私の娘の声だなんて信じられませんでした。
言われたとおりに持ってきたものは部屋の前に置き、ノコギリとゴミ袋は近所のホームセンターへ買いに行ってから、麻衣に声をかけてまた部屋の前に置いておきました。
その日はもうずっと、部屋の中でガサガサと何かをしているような音が聞こえていましたよ。
それで、次の日の朝、また麻衣からメールが届いたんです。「部屋のドアも窓も全部塞いだから」って。
麻衣の部屋の前には、ゴミがパンパンに詰められた袋がいくつか放置してあったんですが、それを見て私は無意識に涙を流してしまいました。
そのときにね、私分かったんですよ。ああ、この子はもう、私の知ってる麻衣じゃないんだなって。この子はもう、元には戻らないんだなって。
ゴミ袋の横にうずくまって、情けないんですけどメソメソと泣いていたら、「ゴミは私が捨ててくるから」と言って亜衣が背中をさすってくれたんです。あの子は、本当に優しい子です。
私には、麻衣が何を考えているのか全く理解できませんでした。
薄いドアの、たった一枚向こうにいる血の繋がった我が子が、とても遠い存在に感じられました。
それでね、麻衣の部屋のドアの下のほうがね、高さ十五センチくらい繰りぬかれていたんですよ。なんていうか、郵便ポストみたいな感じに。きっとノコギリでギコギコやったんでしょうね。
運んで来た食事や、麻衣に届いた荷物はそこから部屋の中へ差し込んでいました。
しゃがんで覗けば部屋の中がほんの少し見えたんですが、麻衣にばれてすぐに段ボールで目隠しをされてしまいました。何かを差し込むときに私がドアをノックすると、そのときだけ目隠しが外されるようになりました。
麻衣に要求されたとおりの食事をせっせと作り、小さな穴から差し入れるなんて、なんだか自分が刑務所の看守か、わがまま貴族の奴隷にでもなった気分でしたよ。
毎日毎日、それが続くって、どんな気分になるか想像できます?
そりゃあ、引きこもりになって別人みたいに変わってしまったとしても自分の娘であることには変わりないですから、大切に思う気持ちもありましたけど――。
正直、いなくなってくれないかなと考えてしまったことが一度も無かったかと訊かれると、返事に困ってしまいます。
ああ、私の人生はもうこれで終わったって、全てのことに絶望するような夜もありました。
だから、こんなことを言ってしまうのは母親としてどうなのかと思いますけれどね、うちが焼けたって知らせを聞いたとき、「チャンスだ」って考えが頭をよぎってしまったんです。
これで麻衣が死んでくれたら、それで私は解放されるって、そう思ってしまったんですよ。
最低でしょう? そんなことないですか?
それで、うちの焼け跡から女の子の遺体が見つかったと聞いたときは、嬉しいのか悲しいのか安堵したのか、複雑な気持ちになりました。
ええ、亜衣が無事に避難したことは知っていましたから、その心配はありませんでしたよ。
それがどうしたわけだか、見つかった遺体は麻衣じゃないって知らされて。じゃあ誰なのよって。私の娘は、麻衣はどこに行ったのよって。一体何が起きてるっていうのよって。
もうね、頭も心もぐちゃぐちゃで、私が壊れてしまいそうでした。
麻衣は、どこにいるんでしょうね。
いえ、どこかで元気に生きているのなら、それでいいんです。もちろん会いたい気持ちが無いわけではありませんけど。
探す予定ですか? それは今のところ、あまり考えていないです。やっぱり冷たい母親ですね、私は。
そうですね、遺体の身元が分かったら、また気持ちも変わるかもしれませんけれど。今はまだ――。
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