第十章「消してしまえれば、どれだけ救われるだろう」

第42話 呪いの言葉【胸糞注意】

 ※ 壱嵩の過去編になります。虐待及び残虐描写がありますので、ご注意下さい。




「壱嵩、私はアンタを産まなきゃよかったと、ずっと思いながら生きていたわ」


 物心がついた頃だっただろうか?

 化粧台の鏡の前で真っ赤な口紅を塗った母に言われた言葉は、一生忘れることがないだろう。


「せっかく頭のいい男をつかまえたと思ったのに、ノイローゼで自殺とか本当に有り得ないから。こんなことなら多額の保険金掛けておけば良かったわ。使えないにも程があるでしょ?」


 生まれつき恵まれた容姿でモテていた母は、昔から交際が絶えたことがなく、複数の男性との二股、三股は当たり前だったと自慢のように話していた。だがそれはお互い様で、何度も血を見るような修羅場も経験したとも。


 そんな過去を未就学児に話す母親なんて、クズにも程があると、今なら遠慮なく呆れて愛想を尽かしていたのに。


「私の回りは馬鹿ばっかりだったから、結婚する相手は頭が良い男がいいと思ったのに、ナイーブなだけで最低な男だったわね。アンタは私と旦那、どっちに似てるかしら」


 厚化粧で顔面を彩り終えた母は、台所の隅で食パンを齧る俺に顔を向いて、片口角を上げて歪な笑みを浮かべた。

 そして皮肉を込めて、いつもの呪いの言葉を吐き捨てた。


「顔は私に似て整っていて良かったわね。その顔で変態ババァの股に顔を埋めていれば、生きるのに困ることはないから感謝しなさい」


 そう、俺の幼少期はこの部屋のようにゴミで埋め尽くされた汚くて臭い思い出ばかりだ。こんな地獄のような日常は中学生まで続いていた。



 幸い最小限のお金を貰えていたので、食事面でひもじい思いをすることはなかったが、給食のようななものが出てきたことは皆無だった。

 6枚きりの食パンを買って、それを毎朝食べて終わり。夜は真っ暗な部屋で一人ぼっちだから、ひたすら眠っていた。


 受けていた仕打ちはゴミ屋敷と暴言と育児放棄——……。

 だが、最低限のことをしてくれる分だけ、虐待を受けている子供よりもマシな人生だと、何度も言い聞かせて思い込ませていた。


 そんな俺の転機は、中学生に上がった頃だった。

 いつものように世の中に恨みつらみを吐いていた母が、徐々に狂い出したのだ。


 今思えば、振り回して過ごしてきた自分主体の恋愛が、振り回され始めてきた頃だったのだろう。どんどん男に溺れて時間も場所も関係なく性に支配されて、見る見るうちに惨めな姿へと変わり果てた。


 高嶺の花と、もてはやされていた美しい面影はない。


 結局母は統合失調症と診断され、薬漬けの人生を送ることとなった。



 それでも性への執着は酷く、何日も何週間も外泊することも少なくなかった。むしろ家にいない方が部屋が散らからなかったので助かったのだが、帰ってきた時の荒れっぷりは酷かったことを覚えている。


 その日もドアを開けた瞬間、部屋中の物が荒らされて滅茶苦茶になっていたことを一生忘れないだろう。おかげで最小限のものしか置かないミニマニストを心がけるようになったのだが。


 とにかく、その頃の母は精神状態が酷かった。


 ビリビリに破かれたシーツの上で、俯せになって泣きじゃくる母。

 無言で片付けを始める俺に気付いたのか、ボソボソと暴言を吐き始めた。


「アンタのせいよ……アンタがいなければ私はもっとマシな人生を送れたのに。アンタがいなければ私は、そうアンタを産まなきゃ! アンタが私を不幸にしたのよ! 聞いてるの壱嵩ァ……ッ!」


 耳にタコが出来るほど聞いた言葉。

 うん、分かってる。俺のせいで母さんの人生が台無しになったことも。


 それでも俺は産まされて、こうして息をしているのだ。


 俺はアンタのようにはなりたくないと、新聞配達をしながら、ちゃんと学校に行って勤勉に勤しんでいるよ。


「何とか言いなさいよ……っ! そうやって私の言うことを無視するところまで父親そっくりね。どうせ私のことを馬鹿にしてるんでしょう? 皆して見下して……。くそ、くそォ!」


 俺が反論したところで、気に食わないと怒り狂ってどうしようもないのに。

 目元を隠し被さった、厚い前髪の隙間から見える世界は限られていて、昔ほど感情に振り回されることはなくなった。


 その代わり何も感じなくなった無機質な人間になったことも否めなかった。


「壱嵩、アンタを見ていると腹が立って仕方ない! 消えろ消えろ! アンタなんか産まなきゃ良かった!」


 マスカラの混じった黒い涙を流しながら、母はボロボロのまま部屋を飛び出していった。


 鉛のような黒い感情が、身体の芯の部分に重く沈む。

 何度も何度も繰り返された呪いの言葉だが、いくら聞いても慣れることはない。


 たった一人の肉親に憎まれた俺は、誰かに愛されることがあるのだろうか?


 あの人の言うように、消えてしまった方がいいのではないだろうか?


 終わりのない自問自答を繰り返し、答えを見つけることなく眠りについて、いつものように目を覚ました。重たい体を無理矢理起こして、配達に向かおうとしたその時だった。


 水の流れる音が聞こえる……?


 母が戻ってきてシャワーでも浴びているのだろうか?

 いや、こんな時間におかしい。騒つく心を落ち着かせようと長く深く息を吐いたけれど、全く意味を成していなかった。


 近付く度に大きくなるシャワーの音。震える手でドアに手を掛け、覚悟を決めて開けた瞬間に飛び込んできたのは——水を張った浴槽の中で、人形のようにぐったりと力尽きた母の姿だった。



 手首から流れる赤い揺めきが、散って散って混じって消えた——……。



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