第9話 過去の失態

 運動をする前にプロテインと十分な水分を補給してからランニングマシンで汗を流した。

 三十分ほど走った後に筋トレマシンで筋肉に負荷をかけて、最後にまた有酸素運動の為に走って自分を限界まで追い込んだ。


「明日花ちゃん、今日は元気だねー。何か良いことあった?」


 隣で腹筋マシンをセットしていると常連さんが声を掛けてきた。たしか名前は水城みずきさんだった気がする。私は乱れた呼吸を整えながら返事をした。


「実は、ちょっと。気になる人ができました」

「えぇー、マジでー? 羨まし、明日花ちゃんみたいな可愛い子に好かれるなんてラッキーボーイだねー」


 私がジムに通い出した当初から何かと気にかけてくれる水城さんは、5歳のお子さんを持つ父親。綺麗な奥さんがいるのに軽口を叩いて。でも口だけで家族を大事にしている人だったので、嫌いではなかった。


「でも本当に良かったねー。いつも可愛いと思っていたけど、今日は特に可愛いよ? 明日花ちゃんを可愛くしてくれてありがとうって、彼にお礼言っててねー」


 そんなこと言える仲じゃないけど、幸山さんのことを特別な存在のように扱ってくれるのは嬉しい。


「水城さんも今度、ご自慢の奥さんと息子さんの話を聞かせてくださいね」


 一通りの運動を済ませた私は、再びスマホを確認して運動スペースを後にした。

 肩にタオルをかけて、常温のミネラルウォーターを流し込む。


「美味しい……」


 首を大きく振って、そのまま背伸びをした。

 むくみは取れた気がする。やっぱり体を動かすのは気持ちがいい。


 シャワーで汗を流して着替えをして、メイクまで完璧に済ませてから職場へ向かって歩き出した。ワイヤレスのイヤホンで好きな音楽を聴いて、昨日届いた幸山さんのメッセージを眺めながら。


「会いたい……今すぐ会いたい」


 でも我慢しなきゃ。

 今までも感情のまま行動して失敗ばかり繰り返してきたんだ。早る気持ちを抑えるように、肩をポンポンと叩いて深呼吸をした。



 ——……★


 それから数時間後。仕事を終えた私は、アパートへ向かって帰路を歩んでいた。でも見慣れた建物が近づくにつれ、二度と会いたくなかった人物の姿までとらえて、心底不機嫌な気持ちに陥った。


「明日花、おかえりー。今バイト帰り?」

「……康介、何しにきたの? 二度と会いたくないって言ったじゃん」


 あんな仕打ちをしておいて、忘れたとは言わせない。

 いい感じになった葉月ちゃんを選んで私を部屋から追い出したことは、しっかりと根に持っている。


 そんな眉を顰めた私の気持ちを無視して、ヘラヘラとした態度で近づいて来た。おぼつかない足取り、少し飲んでいるのだろうか?


「そんな怒らないでよー。俺と明日花の仲じゃん! なぁ、今から飲みに行って仲直りのエッチをしようぜ? 今日は明日花の好きなことをたくさんしてやるからさ」

「——行かない。っていうか、もう二度と康介に会いたくないから連絡しないで」


 組まれた肩を振り払って階段を登ろうとしたが、いとも簡単に掴まれて壁に押し付けられた。

 乱暴に握られた手首が痛い……逃げられない。


「なんでそんなツレないことを言うんだよー……。別に今回が初めてじゃねーじゃん、俺に女ができたことなんて。明日花、友達がいないって愚痴っていたじゃん? 俺が構ってやんないと一人ぼっちになっちゃうぞ?」


 うるさい、うるさい……!

 もう嫌だから拒んでいるのに。


「放してよ……、もう嫌なの。こんな関係……!」

「ヤダよ、放さない。だって俺、明日花とヤるの好きだもん。性格は面倒くさいけど身体の相性は最高だろ? 明日花だって言ってたじゃん。俺とエッチしてる時が一番生きてる気がするって」


 この前までは同調していた言葉が、今は足枷になっている。

 私、今までどうしてこんな奴に縋っていたんだろう。前までは彼しかいないと思っていたけど、今は違う。


「放してって言ってるじゃん! 私のことを好きじゃないならやめてよ!」


 葉月って女の子が好きだって。私を捨ててそっちを選んだくせに、ズルい。私はもう惨めな思いをするのは嫌なんだ。


 でも掴まれた腕を振り払うのは容易ではなくて、結局強引に抱き寄せられて唇を塞がれた。食いしばった唇をこじ開けて、執拗に舌を押し入れようと粘られていた。


「なんだよ、もう……。いつもなら明日花からねだってたくせに。そんなに彼女ができたことが気に食わないのか?」

「そうだよ! 私よりも彼女を選んだくせに、構ってくるのはやめてよ!」


 気に食わないとかそう言う次元じゃない。

 アンタが勝手に捨てたくせに、自分の都合で振り回さないでほしい。


「——今日のところは諦めるけど、俺はまだ明日花とバイバイする気はないから。明日花も気持ちが落ち着いたら連絡してくれよ? またエッチしような?」


 二度としない……するもんか。


 康介に汚された唇を何度も何度も拭いながら、トボトボと階段を登って家に入った。せっかく幸せな気持ちだったのに台無しだ。


 ボロボロと溢れる涙を両手で擦って、自分の状況を嘆いた。


 嫌だ、嫌だ……。

 私は汚い、私は汚れているんだ。

 私は——……。


「幸山さんに会いたいよ……会いたい」


 幸山さんだけが私の光だ。彼のことを思っている時だけ世界が眩しく見える。でも……私は汚い。


 きっと幸山さんも本当の私のことを知ったら、軽蔑するかもしれない。最低だと罵って去っていくかもしれない。


 だが我に返った私は、頭を振って思考を切り替えた。


「違う、幸山さんはそんな人じゃない!」


 手首の傷を見ても引かなかった。無理しないでと励ましてくれた。

 彼は今まで出会った人とは違うんだ。


 必死にスマホを手にして、彼のアドレスを開いた。今すぐ通話のボタンを押して、声を聞きたい。助けてと伝えたい。


 だが我儘を堪えるようにグッと下唇を噛み締めて、衝動を抑え込んだ。


 会いたい、会いたい、会いたい、会いたい……。



 その時、ポンっと一つの通知が表示された。

 幸山さんから、メッセージだ。


 幸山「明日花さんは明日は休みですか? それか来週の月曜日。もし休みだったら、昨日のお礼をしたいんですが、少しだけお時間を頂けませんか?」


 シフトを見ると、嬉しいことにちょうど休みだった。


 嬉しい、会えるんだ……幸山さんに会える。


「——大丈夫、私はまだ生きていける」


 僅かな希望に縋るように、ギュッとスマホを握りしめて。

 私は黙ったまま思いを募らせた。


———……★


「多くは望まない。嫌われるくらいなら距離を取るから、その代わり……傍にいさせてください」


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