〈2〉
アサヒが差し出した右手を、ビレトは一拍間をおいてから「よ、よろしく……」と掴んだ。必修科目なので単位を落とすわけにもいかずに眠い目をこすって暗記したクライデ大陸の歴史に、たびたび転生者は現れる。転生者は優れた技術力と異世界の知識によって、初代のミカドが興したこの王朝の文明レベルを高めてきた。ミカドが住まう首都の居城、テレス城も異世界で建築士だった転生者が手がけたものである。
クライデ大陸にやってくる転生者は、老若男女問わず、みな『女神サマ』の存在を口にする。その『女神サマ』とやらは転生者にミッションを課しており、ミッションをクリアすると死の原因となった出来事の直前に戻れるのだと。
ごくまれに元の世界へと戻らずにミカドとクライデ大陸に尽くして一生を終えた転生者もいる。ビレトに破門を言い渡した師匠は『転生者』であり、そのわずかな例にいずれ含まれる一人といえよう。
「アサヒはボクをミカドにして、元の世界に戻りたい……?」
アサヒの言葉と転生者に関する知識とを照らし合わせた。これまでの『転生者』の特徴と合致する。
「ああ。いくら死ぬ前に戻れるからって、いつ戻ってくるかわからない超優秀な兄さんをこっちで待っていたら、腕がなまっちまうっす」
「腕……ということは、アサヒも凄腕の剣士?」
「いーや、自分はプロゲーマーっす」
転生者は往々にしてクライデ大陸の
「自分は明日、公式大会に出なくちゃいけなくて。こっちの世界で練習できるんならしたいっていうか、大会の前日に戻れるんならこっちの世界で練習すれば『精神と時の部屋』みたいなもんっていうか。っていうか、ビレト、スマホ持ってる?」
クライデ大陸に機械はない。ゲームなどという娯楽は存在し得ない。機械類の代わりに魔法が諸々を補っている。
スマートフォンなどという文明の利器などあるはずもなく、ビレトは次々と繰り出される聞き慣れない単語によって左耳と左肩がくっつくほどに首を傾げていて、知らない『スマホ』とやらの所持を聞かれて「いいや。持ってないよ。スマホ、というのが何なのかもわからない」と首を正しい位置に戻した。
「マジか」
転生前のアサヒは二〇一九年の東京にあるゲーミングハウスで暮らしている十八歳の少年だった。
一歩外に歩けば、誰だってスマートフォンを持ち歩いている。今時スマートフォンを個人で持っていない人間なんて、ガラパゴスケータイから意地でも移行したくないような頑固者か、そもそも電話を持ち歩く必要性を感じていない老人か、親の許可が得られない子どもぐらいなものだろう。
同い年ぐらいにしか見えないビレトに『スマホ』が通じなかった。となると、おそらくは『プロゲーマー』という職業も理解されていなさそうで、理解させるのにも転生後の所有物は着用している焦げ茶色のローブのみだから、説明しづらい。スタート地点が遠い。アサヒは腕を組んで、ああでもないこうでもないと、別の単語を用いての改めての自己紹介を考え始めた。
ビレトのミカド化計画の初期段階。確固たる信頼関係を築き上げること。アサヒは、これが第一だと思っている。信じ合える仲間とでないと、未来を任せられない。なんせ途中でビレトに投げ出されてしまったら、アサヒは帰れない。他に『銀髪の少年』を捜すだとか、ビレトの兄のカミオを待っていたら、ゴールも遠くなっていく。助け起こしてくれたこのビレトこそが『女神サマ』のおっしゃっていた『銀髪の少年』に違いない、と信じ込むしかない。
「ビレトっていくつ?」
「ん。……学校を卒業したのが十二歳で、五年間修行してたから、いま、十七歳」
師匠はいつになったら一人前になってくれるのか、と、修行の経過時間は伝えてくれたが、誕生日は祝ってくれていない。なので、ビレトは現在の年齢を指折り数えた。
「小卒?」
現代日本では十二歳で卒業するのは小学校だ。クライデ大陸の学校だと、十二歳で一通り魔法の基礎を学習し終える。卒業すれば社会では一人前と認識される、というのが常識だ。アサヒの発した「小卒?」の真意はわからなくとも、その疑問符から侮蔑の音を聞き取って、ビレトは眉をひそめる。
「ところで、話変わるっすけど、ビレトの後ろから自分を見ている
信頼関係を構築していきたい相手であるところのビレトから不愉快な顔をされてしまったので、アサヒは話題を強引に変える。ビレトの背後からのしのしと近付いてきていた巨体があった。ビレトが一切気に留めていなかったので、アサヒはその単眼を『ビレトの知り合い』と解釈していた。知り合いにしては会話の輪に入ってこないから、話題を変えるついでに触れると、ビレトはさあっと青ざめた顔となり、ゆっくりと振り返る。それから「んぎゃあ!」とその場で飛び上がって、アサヒの左腕に絡みついた。
「こんなところにさいくろぷすがぁ!」
サイクロプスは名前を挙げてくれたお礼とばかりに、野生種のコケムストリをその大きな右手でくしゃっと潰して見せた。二人ともその光景がお礼には見えなかったので、平和なはずの草原に少年の悲鳴がこだまする。
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