鋼鉄の乙女(2)

 自分がその男の怒りを一身に受けているらしいことは察せられた。

 不本意ながらその理由も。


 アミという人物がラドムを助ける過程において、危険を冒したことが気に入らないようだ。

 それで腹立ちをぶつけられるのも理不尽だと自分としては思うわけだが、ここに先程から解けぬ謎がひとつ。


「あの、アミって……」


 問いかけたその言葉をかき消したのは、窓の外から聞こえる女のお喋りの声だった。

 のどかな口調は、さきほど出て行ったロムの母のもの。


 どうやら向こうからやって来る相手に話しかけているらしい。

 返事をするのは少々幼い印象を受ける女性の声だった。

 走って来ているのか、声はどんどん近付いてくる。


「大きな船だけど爆弾使ったら沈んだんだ。今月入って、今日ので六隻目」


「あら、多いわねぇ」


「あのね。そのとき、ドイツ兵のオサイフ拾っちゃった」


「あら、それって略奪じゃないの?」


「リャクダツじゃないよ。拾ったの! ガリル・ザウァーにあげようと思って……わたしが持ってるより役に立ててくれるからな。あれ、あれれ?」


「どうしたの、アミちゃん」


「おサイフ、どっかにいっちゃったみたい」


「あらあら、落としたのかしら。おバカさんねぇ。アミちゃん」


「うぅん……。もし拾ったらわたしに教えて。おばちゃん」


「ん? おば……あらっ? お姉さんって言ったのかしら」


「ご、ごめんなさい。お姉さん……」


 ……何だ、この気楽な会話。


 ラドムの肩が脱力と共にガックリ落ちる。

 何なんだ、こいつ等。物騒なんだか抜けてんだか、分かりゃしない。


 室内の三人の男の間に微妙な空気が漂った。

 黒ずくめ男の殺気が和らぐのが分かる。

 固く閉じられていた口元が微かに笑みの形に解けたことに、ラドムは気付いた。


「そうそう、アミちゃん」

 ロムの母の声が今更ながら低められた。

「あの子、目を覚ましたわよ」


 本当か? と幼い声は歓声をあげる。


「それを先に言えよ!」


 同時に壊れそうな勢いで木の扉が開かれる。

 飛び込んできた人物を観察する間もなく、銀色の姿が弾丸のように少年に向かって飛来した。


 人懐っこい犬が突如覆いかぶさってきたかのようだ。

 重量が圧となって、少年の身体にのしかかる。

 それが犬でないと分かったのは、ニュッと伸びた腕にワシワシと頭を撫でられ、抱きしめられたからである。


「もう元気になったか? よかったな」


 はしゃいだ声と共に頬に触れた冷たさに、ラドムは息を呑む。

 彼の左頬に触れていたのは、少女の華奢な右手──に見えた。

 しかしそれは血の通った人間の手ではない、まるで温度を感じさせないものであったのだ。


 ああ、あの時僕を助けてくれたのはこの冷たい手だったな……。


「ああ、ごめん」

 抱きしめたラドムの身体がビクリと硬直したことに気付いたのだろう。

 手が離れた。

「義手なんだ、わたしの右手。硬くてびっくりしたか?」


「そ、そんなこと……!」


 反射的に首を振ってから、少年は己の置かれた状況に気付いた。

 右頬が何だかもの凄く柔らかなものを押し潰しているなとは感じていたが、甘やかな香りにつられて顔をあげて、それが女性の胸だったのだと初めて悟る。

 信じられないくらいの重量感と圧迫感から逃れようともがき、彼の視線は自分を抱き締めて放さない少女の顔を正面から捉えた。


「あ……」


 忘れる筈もない。

 そこに居たのは地獄のようなあの船で、自分を助けてくれた銀色の天使その人だった。


「あのっ……」


 反射的な動きで。ラドムの両手は自身の口を覆った。


 ラドムの首筋をくすぐる長い銀色の髪、薄い灰色の瞳。

 可憐な顔立ちは、今は笑顔で満たされている。

 薄い桃色の唇はつややかに濡れていて、両端が笑顔の形を作っていた。隙間から覗く歯は、小さな真珠のようだ。


 つられて微笑みかけた少年は、少女の肩越しに突き刺さる殺意にようやく気付いた。

 シュタイヤーがこちらを射殺さんばかりに恐ろしい視線を投げていたのだ。

 ロムも不機嫌そうに横目で睨んでくる。


「ちょっ、ちょっとごめん。僕……」


 慌てて離しかけた顔を、しかし少女はガシッとつかんで放さない。


「ケガはもう大丈夫なのか?」


 言うなりラドムの腹に巻かれた包帯を引っ張る。

 緩くなったその隙間に右手を突っ込んだ。


「ぎゃあっ!」


 自分の右手が冷たいという自覚は皆無のようだ。


 完全に塞がっていない腹の傷をつつかれ、少年は草食動物の断末魔の悲鳴に近い声をあげた。


「大きな声をだすな。耳がキーンとなるだろ。わたしはアーミー。アミって呼んでくれ」


「……ググゥ。こ、このタイミングで自己紹介か」


 律儀にラドムと名乗ってから、少年は咳き込んだ。

 頭から血の気が引くのが分かる。


「もう大丈夫みたいだな、よかった」


 何を根拠にした判断なのかさっぱり分からないが、アミと名乗った少女はにまっと笑ってラドムの腹を叩いた。

 再びの悲鳴に焦ったのか、今度は胸の谷間に少年の顔を沈め込むように抱き締める。


「や、やめて……。放して。頼む、から……」


 ラドムは少女から後ずさった。

 この数分間に天国と地獄を何度往復したことか。

 どうかしたかと顔を覗き込むアミに向かって引き攣った笑顔を向ける。


「い、いいよ。痛……。ぼ、僕も大人だから我慢することは知ってるし、傷が治るまでは……。何言ってるの、僕は? あっ、痛たた」


「何言ってる。まだ子供のくせに。十歳か? それとも八歳か?」


「……十四歳だよ」


 やっぱり! と少女は笑った。


 何がやっぱりだよ。意味が分からない。

 少年はポーランド語で毒づいた。

 明るいという誉め言葉を投げることはできようこの少女、しかし人の話を聞きゃしないという欠点があるようだ。


「わたしは多分、十五歳か、十六歳だ」


「多分って?」


「わたしは孤児だからな。本当の年も誕生日も分からない」


 あっけらかんと笑顔で言うものだから、ラドムは少々戸惑った。

 しかし、言わずにはいられない。


「実年齢はともかく、精神年齢は五、六歳くらいみたいだけどね!」


「あははっ、そんなわけないだろっ!」


 あからさまな皮肉に動じず、アミは笑いながら少年の髪を引っ張り顔を撫で、包帯をつかみ、あげく乳首を摘みあげた。



「痛ァッ……な、何すんだよっ!」


 何だ、この女。

 涙目になったラドムを見ながら、彼女は全く悪びれた様子なく底抜けに明るい笑顔を見せる。


 ──あの時は天使に見えたんだけどな……。


 明かに過去形で呟き、ラドムは痺れる腹を押さえその場に蹲った。


「どうかしたか? 顔が真っ赤だ。熱でもあるのか」


「えっ?」


 パンッと音立てて、自身の両頬を手の平で押さえるラドム。

 己の意志に反して、そこが熱を持っているのは分かっていた。


「ち、違うっ! だってあれは救命措置で!」


 視線は少女の桜貝のような色をした唇に注がれている。


「キュウメイソチ? ははっ、コイツ何言ってるか分かんないや」


 にまにま笑いながら尚も少年の顔を覗き込みかけたアミを止めたのは、黒の男の静かな怒声だった。


「好い加減にしろ。アーミー。また銃も持たず出掛けただろう。お前の行動は危険であるばかりでなく安直だ」


「うっ……す、すまない」


 怒られて、アミは素直にしょげ返っていた。


「そうだ。イギリス軍のダンケルク撤退を受けて戦況は大きく変わった。現在戦線はアフリカ大陸に移動したとは言え、この地はドイツ軍に完全に占領されている。お前がドイツ船一隻を狙うより《武器庫ヴァッフェン・カマー》が効果的に活動出来るよう図るべきだろう」


「で、でもドイツの偽装船は悪い。関係ない商船を襲って……あれじゃ海賊みたいだ! ドイツ人は悪いんだ。悪いヤツを殺して何がいけないんだ」


「……今、善悪の話はしていない」


 少女の歪みを、男は視線を逸らすことで黙認したようだった。


 こんな事態に慣れているのだろうか。

 ロムが両者の間に割って入った。


「ところでさ、ガリル・ザウァーはどこにいるんだ?」


「さ、さぁ」

 アミが首を傾げる。

「《武器庫ヴァッフェン・カマー》じゃないか?」


「いなかったぜ。おれ、さっき《武器庫ヴァッフェン・カマー》から帰ったとこだもん。コイツの世話があったからな」


 同意を求めるように背を叩かれ、ラドムは咳き込んだ。


「うぐぅ……ぶ、武器庫って何? ガリル・ザウァーって?」


 我ながら妙に旺盛な知識欲が恨めしい。

 知らなかったことを理解するのは楽しい。

 頼りない地面が、ほんのすこし踏み固められたような感覚に心躍るのだ。


「連れてってやる」


 アミが少年の腕を取った。

 腹の傷がひどく痛むものの、ラドムはつられて立ち上がる。


「《武器庫ヴァッフェン・カマー》にいないなら、きっと修道院だ。わたし、行ってくる」


 言うなり彼女は駆け出した。

 背後からのシュタイヤーの怒声を気にしつつも、ラドムも引きずられるようにして彼女の後に続く。


※ ※ ※

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