鋼鉄の乙女(3)
眼前に聳える荘厳な要塞に圧倒され、ラドムは暫し言葉を失った。
「こ、ここは……?」
さっきまで居たのは石造りの狭い民家であった。
台所と寝室が一部屋にまとめられているような造りである。
的確な表現かどうかはともかく、貧しい者が住む家屋といえよう。
そこを一歩出たすぐ目の前には岩山が、まるで天空へ伸びるように聳えていた。石造りの要塞……いや、そこに築かれている建造物は修道院か?
青い空に突き刺さるような尖塔の頂上に、太陽の光を受けて輝く金色のオブジェが見える。
目を細め、睫毛で陽光を遮るようにして観察したその金色は、大きな羽を生やした人の姿をしているように見受けられた。
「あれは、大天使ミカエルの彫像なんだって。ガリル・ザウァーが言ってた」
あれが大天使ミカエル……ということはこの建物は、ポーランドに住んでいたラドムでも知っている有名な修道院であるに違いない。
「ここはモン・サン=ミシェルか? ブルターニュとノルマンディーの境にあるベネディクト派の修道院?」
「ベネ……? ベネディ……えっ?」
アミが呆けた笑顔のままラドムをかえり見た。
むしろ説明を求めたいのはこちらの方なのだが。
「僕は……イギリスに向かってたんだけどな」
両親と三人で目指した逃亡先はイギリスのエジンバラであった。
元より密輸船のため、航海ルートははっきりとは教えられていない。
ドイツ軍に襲撃を受けたのがフランス近くの海域だったのだろう。
海流の影響かもしれないし、途中で方向を見失ったのかもしれない。
アミに助けられ、こんな所に連れて来られたのは偶然だ。
別に因縁があるわけではない。
しかし岩壁に落書きされた十字架の形を見やり、ラドムの顔は次第に俯いていってしまった。
どうかしたか、とアミが心配そうに顔を歪める。
「もう僕のお葬式は済んだかなって思って……」
「ラドムのソウシキ? ヘンなこと言うな」
絶望に襲われた少年が妙なことを口走ったと考えたのだろう。
ラドムは「違うよ」とアミを見上げた。
「近所の人に頼んできたんだ。僕と両親が逃げた次の日に、僕たちのお葬式を上げてくれって。死んだことにすれば追っ手がかからないかもって苦肉の策」
まぁ、あんまり意味なかったけどね──感情を殺した声でそう呟いた刹那のこと。
突然、目の前が霞んだ。
思いも寄らぬタイミングで大粒の涙が溢れ出す。
「ち、違う……」
ラドムは拳で目元をこすった。
「ラドム?」
隣りのアミの声に困惑の響きが混ざる。
どうやって慰めていいか分からず、戸惑っているに違いない。
「ごめんね……、あなたを困らせるつもりはなかったんだ。せっかく助けてくれたのに……」
腹の激痛と両親を失った怒りと悲しみ、襲われた衝撃、絶望……様々な感情が一気に溢れ出しただけだ。
嗚咽を漏らさぬよう奥歯を食いしばり、少年は全身を震わせた。
「泣くな、ラドム」
成長の遅い薄い肩をつかんだのはアミの冷たい手だ。
「ラドム、聞け。いろんなものを失くすのは不幸だ。でも、ラドムは生きている。今、生きてるだろ」
「アミ…………」
何も分かってないくせに、と少年は嗚咽を漏らす。
失うということの意味を何も分かってないくせに、と。
「わたしがいるぞ。わたしは強いから、ラドムを守ってやれる」
気休めだということは分かっている。
でも高ぶった精神はゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
理由なく命を奪われる状況下に置かれたこの時代のユダヤ人の少年にとって、彼女の言葉は救いのように響いた。
誰かが自分を心配してくれている。それだけで得も言えぬ嬉しさが込み上げるのだ。
頬を伝う涙を拭い、頭一つ背の高いアミを見上げる。
もう大丈夫──ぎこちなく笑いながらそう告げると、鋼鉄色の乙女はほっとしたように微笑んだ。
「わたしもラドムといっしょだ。小さいころ、ドイツ軍の偽装船に襲われて親と、それからこの手をなくした」
「え……?」
反射的に彼女の冷たい右腕に視線を転じる。
長袖の上からならば、華奢な左腕と寸分違わないように見えるそれだが、肩の辺りから体温がない。
右腕全体が、血の通わない造られた腕に挿げ替えられているのだ。
「アミ……」
しかし少女の笑顔に屈託はなかった。
「ロムにはお母さんはいるけど、お父さんはドイツ兵に殺された。ヴァッフェン・カマーの子はみんなそうだ。みんなガリル・ザウァーに助けてもらった。みんな家族みたいなものだ。だからラドムもここにいろ。大丈夫だ」
──ヴァッフェン・カマー?
奇妙な違和感を覚える。
《
彼女はまるで団体名のように言うが……。
物騒なその響きから、ただの孤児院とは思えなかった。
「アミ、そのヴァッヘン……」
「なんだ?」
「……ううん、何でもない」
彼女に疑問をぶつけるのは躊躇われる。
曖昧に頷いたラドムの背を叩き、アミは突然嬌声をあげた。
「ほら、見ろ!」
「何? 痛っ! ちょっ、痛いって」
ここはモン・サン=ミシェル島の裏手に当たる位置であった。
島の表側には賑やかな
修道院を中心とした狭い島は、周囲をぐるりと囲むように石造りの道路が設えられてあり、今アミがきらきらした瞳を向けているのは幅の狭い通路の向こう側であった。
彼女があまりに嬉しそうにそちらを見つめるので、ラドムも戸惑ったように眼を凝らす。
彼女の視線の先、石で造られた民家の間を一人の人物がこちらに向かって駆けて来ていた。
森の小動物のように忙しなくせっせと足を運ぶのは、骨と皮だけに見える痩せた中年の男だ。
修行僧のような粗末な衣服に身を包み、足取りは覚束ない。
「おかえり、ガリル・ザウァー! この子目をさましたよ。ラドムって名前なんだって」
アミの大声に男はちょこまかした動きで近付いてきた。
ちらりと少年に視線を移すと、男は間の抜けた笑顔を見せる。
「気が付きましたか。それは良かった。怪我の具合がひどそうなので、心配していたんですよ」
「あ、あの……」
「こちらはモン・サン=ミシェルの裏側ですよ。一度正面に回って山を登って礼拝してみなさい。祈れば涙も止まりますよ。ラドムさん、貴方に神のご加護がありますように」
どうやら失神中に対面は果たしているらしい。
少年は赤い目を誤魔化すように瞬きを繰り返した。
アミやシュタイヤー、ロムたちから名前が挙がっていたガリル・ザウァー──年齢から鑑みて、彼らの保護者的な存在なのかと窺える。
「それよりうっかりしていました。もう出かける時間です。支度してください、アーミーさん」
保護者の性急な要請に、しかしアミはのどかに首を傾げてみせる。
「それよりガリル・ザウァー、この子も一緒に住んでいいだろ? わたしと同じ孤児なんだ」
はいはい、どうぞという気の抜けた返事を得て、彼女はアリガトウと一人喜んだ。
「貴女はいつも天真爛漫で良いですね。ああ、きれいな銀髪だ。眩しいくらいですよ」
そうか、とアミは左手で自身の髪を撫でて嬉しそうに笑う。
そんな彼女を尻目に溜め息をついたのは、話題に上ったラドムであった。
褒めてない。
ソレ、絶対皮肉だと思ったものの、口に出すのはさすがに堪える。
僅か二十分前に初めて言葉を交わした相手であるが、少女の抜けた性格は手に取るように分かってしまったから。
「どこかに行くの?」
「うん。ガリル・ザウァーとおつかいに行く。ラドムもくるか?」
そのままの格好で出掛けるつもりなのだろう。
アミは一歩、足を動かしながら頷いた。
「う、うん……僕も行く。ちょっと待ってて」
どこへ向かうかも聞かされていないのだ。
返事は躊躇われたが、今アミから離れるのは不安でならない。
二人の答えも待たずに少年は家に戻った。
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