鋼鉄の乙女(1)

 長い金色の睫毛が震え、瞼がゆっくりと開かれる。

 濃い紫の眼は焦点が定まらず、未だ夢の中をさ迷っている様子。

 ゆっくりと時間をかけて左右に動く眼球は無意識のうちにあの鋼鉄の天使の姿を探しているかのようだった。


 次第に明瞭になる意識。

 ラドム・ザクワディは五日間の意識不明状態から覚醒した。


 煤で汚れた天井。左右に揺れる視界から、石造りの狭い民家の一室にいることが分かる。

 指先に触れるやわらかな感触。

 同時に感じた肩と腰の強張り。

 自分が今、石の床に敷かれた薄い毛布の上に寝かされていると察せられた。


 周囲には三人の人物。

 フランス人、だろうか。

 男二人と女が一人。

 少なくともドイツ兵でない事は確かだ。


 身に染みついた用心深さで己の置かれた状況を観察して、彼はそこにさしあたっての危険はないと判断した。

 むしろ、どことなくのどかな空気すら流れている。


 少年はそろそろと手を動かし、自らの腹を探る。

 コルトにナイフで抉られた傷。

 ともすれば致命傷にもなりえたその場所には丁寧に包帯が巻かれてあった。


 ──あの天使が?


 銀色の髪を靡かせた少女の姿を思い浮かべたものの、その残像はひどく朧で。

 ナイフを弾いた強靭な腕とともに、それが現実の記憶とは考えられなかった。


 ──夢、だったかな……。


 唇に残るあたたかな感触はすでに儚く、思い起こすことも叶わない。

 代わりにジワリ……。

 浮かんできたのは父と母の最期。

 ナイフを刺され、自分の目の前で絶命した両親。


「うっ……」


 微かな嗚咽に気付いたのだろう。

 男が一人、ラドムの元へにじり寄って来た。


「大丈夫かよ、お前」


 掛けられた言葉はフランス語である。

 ラドムが何か言おうと口を開きかける前に、今度は女がやってくる。


「あら、気が付いたのねぇ。よかったわ。ロム、この子生き返ったって早くアミちゃんに教えてあげなくちゃ」


「アミさんなら出かけてんぞ」


「あら、またぁ?」


「最近偽装船が多いんだってよ。そんなの放っときゃいいのに」


「あらあら、そんなこと言っちゃダメよ」


「──ちょっ、ちょっと待って」


 何だ、こいつら。


 頭上で交わされる意味不明の会話。

 放っておけばいつまでもこの調子のやりとりが続きそうに思えて、ラドムは上体を起こして二人を遮った。


 ところが彼等は驚いたように目を見張ってラドムを凝視してから、強引に会話を続行したのだ。


「すごいわ。分かるのねぇ」


「スゲェ! ユダヤの子どもはフランス語も分かるんだな」


「いや、あの……」


 だから何なんだ、あなたたちは。


 ラドムはキリキリと唇を噛んだ。

 呆れたように二人を見比べる。


 二人とも、よく似た容貌をしていた。

 人懐っこい印象を与える顔立ちだ。


 明るい茶髪を男の方は短く刈り、女の方は優しく肩に垂らしている。

 同色の瞳もクリッと丸く、無邪気そのものといった表情をつくっている。。

 男の方はラドムと同じくらいの年代に見えた。


 だが、女の方は皆目分からない。

 少し年上というのは察せられるが……姉弟だろうか。


 それにしてもユダヤの子はという言い方が少々癇に障る。

 目の前の二人に悪意がないことは察せられた。

 差別という意識はないのだろうが、ポーランドから遠く離れた異国でも、やはり出自を意識せざるをえないらしい。

 そうなると恐怖という感情よりも、年端の行かぬ少年特有の高慢が顔を覗かせる。


「ユダヤの子だけど僕は良い教育を受けたんだ。ポーランド語、ドイツ語、英語、フランス語なら不自由しないよ」


 ツンと唇を尖らせて、ラドムの口調は固い。


「へ、へぇ……」

 男の方が引き攣った呻きをあげる。

「で、でもスゲェよな。そのケガ、普通なら腹切られた時点で死ぬぜ。ヒドイ傷だもん。お前、スゲェ根性だな」


「根性とかそういう問題じゃない。あんな所で、あんな奴に、理由もなく殺されたくない……」


 語尾は微かに震えていた。

 両親を思い出したか、或いはその時の恐怖が身体を支配したのか。


「すこし寝むといいわ」


 彼の動揺に気付いたのか。さりげない動作で、女はむき出しになっている少年の肩に毛布を掛けて部屋を出て行った。

 軽く触れられた指先は柔らかく、優しさが沁み渡るような感覚に陥る。

 慌てて頭を下げて見送るラドム。

 男は焦ったように話題を変えた。


「お、おれ、ロム・テクニカ。おまえは?」


「僕はラドム・ザクワディ。あの……お姉さんにごめんなさいって言っといて。助けてもらったのに、失礼なこと言っちゃったから」


 ロムと名乗った青年は明るく笑った。


「助けたのはおれたちじゃねぇよ。アミさんが偽装船から血まみれのおまえを連れて帰ってきたんだ。今は出かけてるけど心配してたぜ。えっ……今、何て言った?」


「えっ、何?」


 アミって誰?

 偽装船って何?

 そう。尋ねたいのはどちらかと言えばこちらの方だ。

 しかしロムは青い顔でプルプル震えている。


「? 僕の名前はラドム・ザク……」


「違う! その先」


「? お、お姉さんに謝っ……」


 そこでロムは吠えた。


「ちがう、違う! 今のあれ、おれのお母さん! あの人、若作りだけど五十歳近ぇんだよ」


「ごじゅう?」


 軽い衝撃にラドムは息を詰まらせた。


 かわいらしい綿毛のようにフワフワした今の女性がロムの母で、五十歳近いとは。

 ラドムの母親よりずっと年上だなんて意外だ。


 女性の年齢は分からない。

 本当に分からない。


 いや、そんなこと別にどうでもいいんだけど。

 そもそも知りたいことは他にあったはずだし。


 しかしラドムが口を開くより前に、今まで部屋の隅に立ち尽くしていたもう一人の男がおもむろに少年の元へと歩み寄ってきた。


「ドイツ軍艦が商船に偽装し、敵国商船や密輸船を襲撃し略奪を繰り返している。そんな事も知らずにあの海域を通っていたのか」


「あ、あの……?」


 男の纏う殺気に、ラドムは言葉を失った。


「よせよ、シュタイヤー。別にラドムが運航表作ったわけじゃねぇだろ。それにドイツの偽装船のことなら、ちゃんとアミさんが駆けつけて華麗にやっつけたんだからさ。さっすがアミさんだな」


「それを問題にしているのだ。そもそもアーミーは軽率すぎる。勝手にそのような所へ出向くなど。しかもユダヤ人の孤児を連れて帰るとは。子供が子供を助けてどうなる」


 冷たく低い声。

 その声からも言葉からも敵意が直に伝わってくる。


 シュタイヤーと呼ばれたその男──陰気な表情を崩そうともしない。

 後ろで纏められた長い黒髪と同色の眸。

 筋肉質の長身の身体には黒の衣服を纏っており、肌が見えるのは顔だけである。

 年齢は二十代半ばであろうか。

 まるで闇のような人物だと、ラドムは思った。



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