◆第一章①

 目覚めた瞬間、ごしたのだとすぐにわかった。空腹をうつたえる腹の音が鳴ったからだ。

 たくめいは飛び起きて服を着た。地味な色合いのあさで、着古してくたびれている。長い黒髪は後ろで束ねた。

 室内の家具ははいが置かれた低いつくえしんだいのみ。すいはなく、水は近くのから時折運んでいる。一人暮らしなので、これでじゅうぶんだ。

 位牌に向かって頭を下げた。

「いってきます」

 家を飛び出し、職場へと早足で向かった。

 雲ひとつない晴天だが、まだ蒸し暑さはなく過ごしやすい。馬車と人が行き交う大通りにははなやかなそうしよくの建物が立ち並んでいた。しらかべしゆいろとびらや柱、りゆうなどのちようこくがほどこされたもんぺいや色とりどりの看板。

 三十年ほど前は、広い大陸を支配する大きな国家があった。今は十以上の国に分かれてり合いをり返しているが、国も人もれつつある。内政に力を入れるために、りんせつする三国とはふんそうける協定が結ばれていた。

 ここ、ほくえいは小さな国だが、東へ西へと大陸を横断する商人のちゆうけい地点になっていて、市場ではさまざまな物が手に入る。首都のらくりんを歩く人々の服装が華やかなのは、平和のあかしだろう。

 通りの前方に人だかりができていた。顔をしかめてはなれていく人も多い。

 三人の男が若い女を取り囲み、うでつかんでいる。

 どう見ても危ないじようきようだが、通行人は遠巻きに見ていてだれも助けようとはしない。男たちがくつきような体つきだからだ。

 どうしよう。

 口を出せばめんどうなことになるが、見て見ぬふりもできない。

 母親に何度も言われていたのだ。困っている人がいたら助けるようにと。目の前の女は男たちの手をはらえずにいる。卓明も武芸に自信があるわけではないが、女性よりは弱くないだろう。

 仕方ない。

 正義感ではない。

 あらがえない、幼いころの刷り込みだ。

 いきなりなぐりかかられないように、笑みをかべながら近づいた。

「あの、すみません。女性が困ってるようですが」

 ほおに傷がある男が野太い声で答えた。

「ああ? 困ってるのはこっちなんだよ。家賃の期限は昨日だったのに、払えないって。金も払わず店を続けようなんて、おかしな話だろ」

 はかなげなようぼうの女だが、するどい目つきで男をにらみ返した。

「三日前にとつぜん五倍も値上げして、払えるわけないでしょ」

「この……っ!」

 男が繰り出そうとしたこぶしを、卓明は横から掴んで止めた。

「てめぇ……」

 男がこちらを見る。

 火に油を注がぬよう、笑みを作ったまま返す。

「こんなきやしやな身体じゃ殴られたら骨折れますよ。どんな理由だろうと傷害でつかまって、あなたが困るでしょう」

「役人を呼ばなければいいんだよ」

「このさわぎじゃ、どうだろう」

 通行人たちは手を出せない様子だが、助けを呼びに行った人はいるかもしれない。それまでの時間かせぎをしよう。

じやすんなら、てめぇもたたきのめすぞ!」

「それはちょっ──」

 言い終える前に拳が飛んできた。上手くかわしたものの、った足がぬるりと後ろにすべった。

 くつの下に果実の皮。

 誰だよこんなとこに捨てたの!

 心の中でさけび、その場にひざをついてしまう。

 終わった──。

 目をつぶった。

 しかし拳は振り下ろされなかった。

 ゆっくり顔を上げる。

 拳を横からにぎって止めていたのは、長身の男だった。

 すらりとした体つき。垂らしたちようはつの一部を高い位置で結い上げ、せんさいりのかみかざりで止めている。黒色の長衣は絹で、そでには赤いしゆう、帯にはかざりがほどこされている。それらのごうな装い以上に、あつとう的に華やかで整った顔立ちが目を引いた。

 暴漢は男を睨みつけたが、すぐに貴族だと察したのか顔をこわ張らせた。

 静かな口調で高貴な男が言う。

「往来で騒ぎを起こすとは感心しないな」

「……いえ、女が家賃を払わないので、払わないなら出ていけと言っていただけで、我々は何も」

「家賃を値上げする場合、前のはらい時には告げるよう決まりがある。まともな家主なら知っているはずだが」

「す、すみません、うっかりしてました。今後は気をつけます」

 三人組はげるように立ち去った。高貴な男は女の方へ視線を向ける。

だいじようですか」

「はい……」

 女のひとみかがやいている。

 こちらには目もくれない。

 態度に差がありすぎるだろ。

 卓明は心の中でぼやいた。

 まあ、いい。

 とにかく、ごとは解消されたのだから、いつまでもここにいても仕方ない。

 高貴な男がこちらを見た。

 この男のおかげで助かったのだから、礼は言うべきだろう。

「ありがとうございました」

 立ち去ろうとしたが、背後から声をけられる。

「この女性の知り合いではないのか」

 振り向いて答えた。

「いいえ、無事収まったようで良かったです」

 今度こそ早足で立ち去る。

 仕事は完全にこくだ。らんらんにこっぴどくしかられるにちがいない。

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