第9話 契約書

 マリエラが執務室に入るとジャンが難しい顔をして書類と向き合っていた。

「マリエラさん早速来てくれたんだね」

 マリエラを見る目は優しかった。

「はい。お忙しいところすみません」

「まあ、仕事中だからね。こちらに来る事をお願いしたのはわたしだから。気を遣わせたね」

 ジャンは「どうぞ」と言って、ソファーに座るように手を差し出した。

 マリエラは小さく会釈し、促されるままソファーに座った。


「考えてくれましたか?」

「はい。ジャン様のところで働かせて下さい」

 マリエラは少し緊張して、ジャンに答えていた。

「おおっ。それはよかった」

 ジャンは満足そうに頷き、机の引き出しから書類を出してきた。

「これを読んでサインしてくれるかな?」

 差し出された書類は雇用契約書だった。

 わたしがサインを?と思い驚いているマリエラに、

「貴女ならわかるでしょう?」

 とジャンは両手を膝の上でくみ、にこやかに話した。


「はい。拝見させていただきます」

 と言って、マリエラは契約書の内容を確認した。

 両親に教えられたことが役にたった。

 契約書は分かりやすく、好条件にまた、驚いた。

「えっと···こんな好条件でも良いのでしょうか?」

「ハハハ。やはり貴女は聡明な人だ。よく読み解いたね。わたしの思った通りだ。なにか不明なところはありますか?」

「いいえ。···いいえ、どうぞよろしくお願いします」

 マリエラは迷わず契約書にサインをした。


「では、貴女の都合のいい日に、家に来てください。これからはわたしはマリエラと、貴女は旦那様と呼んで下さい。大丈夫ですか?」

「はい。かしこまりました、旦那様。お屋敷に伺う日を女将さんと相談してきます」

 マリエラは立ち上がり大きく頭を下げた。

 ジャンも立ち上り握手をした。


 マリエラはジャンの執務室を後にし、宿屋に帰って行った。


 娘のフルールよりも2つ上のマリエラは驚くほどしっかりとしていた。恐らく両親の元で勉強し、努力したのだろう。彼女ほど聡明な娘は探してもなかなかいない。

 フルールのことを任せても彼女ならきっと、娘のことを特別な目で見たりしないだろう。


『早くフルールに会わせたいものだ』

 ジャンはフルールに少しでも笑顔を取り戻して欲しかった。ジャンは家族が与えられる愛情も大事だか、他人から向けられる情や信頼も大切だと思っていた。

 ジャンは地位や財産目当てに寄ってくる者たちを、フルールに近づけたくなかった。


 これ以上フルールの心を傷つけたくなかった。

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