増田朋美

その日は寒い日で、学生にとっては少しつらい季節であった。学校へ行く人は、徒歩で通学する人が多いが、学生特有の、ブレザー姿にスカートと言うスタイルでは、寒くて、ちょっと行きづらくなるに違いない。最近は、ズボンで行かせてくれる学校もあるようであるが、それでも、寒い日は、ちょっと学校に行くのは過酷であった。

「行ってきました!」

と、元気な声で、中年のおばさんが製鉄所にやってきた。名前を大塚とめさんと言う彼女は、製鉄所の中でも厄介な存在であることは疑いなかった。来訪したときは、高齢になっているお母さんと一緒に来た。お母さんは、もう自分が高齢になってしまったので、彼女の世話をするのができなくなったから、ここで預かってもらえないかといった。そうやって、利用を申し込んでくるケースもある。とめさんが、引きこもるようになったのは、中退した高校で、いじめにあったからだと言う。病院では、統合失調症と言われているそうであるが、特に感情のコントロールができないところを除けば、大量に薬を飲む必要もないのではないかと思われる雰囲気を持っていた。でも、一度辛いことや悲しいことがあると、パニックになって暴れたり、時間がなくて慌てるとパニックになり大声を出してしまうなどのところがあるという。それが、とめさんの社会参加を遠ざけてしまって、ずっと家の中に居るようになってしまったと、お母さんは涙ながらに語った。とりあえず、居場所を作ったほうが良いと言うことで、製鉄所の管理者であるジョチさんは、ここの利用を許可したのであるが、とめさんに対しては、非常に手を焼かされてきた。

ちなみに、製鉄所というけれど、鉄を作るところではない。居場所の無い女性たちに、勉強や仕事をさせるための部屋を貸している福祉施設なのだ。製鉄所と言う名前がつけられたのは、鉄は熱いうちにたたけという言葉から取ったものだという。

確かに、とめさんの年齢は、もう50に近い年だったが、心は、幼いままだったのであった。とめさんは、学校の先生に意地悪されたことや、いじめられたことなどを話した。そして成績が悪くて、いわゆるいい学校には行けなかった事などを、ありとあらゆる人を捕まえて話すので、製鉄所のみんなも困ってしまったのであった。唯一話を聞いてくれたのは、水穂さんであったが、水穂さんも体調を崩してしまうと行けない。そこでジョチさんは、とめさんに、もう一度学校へ行きなおして、ちゃんとした教育を受けさせてもらうことを提案した。幸い今の時代だから、訳アリの生徒さんを受け入れてくれる高校は直ぐに見つかった。とめさんは、編入という形で、通信制高校として知られている、望月学園に通うことができるようになった。

「さて、宿題しなくちゃ。」

とめさんは、そう言ってカバンを下ろすと、教科書とノートを広げて、勉強を始めた。通信制高校では、足し算引き算から勉強し直す生徒さんも珍しくない。とめさんもその一人で、やっていることは、大変初歩的な勉強なのであるが、製鉄所の利用者たちは、それを馬鹿にするとか、そういう事をする人はいなかった。元々とめさんは、利発的な女性だったらしい。勉強も一生懸命やって、一度も宿題を忘れたことがなかった。通信制高校だから、定期試験の結果を、教室に張り出すということはしないが、試験を繰り返しやっているよりもずっといいと彼女は言っていた。

「とめさん、落ち着きを取り戻したようですね。こないだまでは、本人に言っては困りますが、変なことばっかり口走ってたのに。それがなくなっただけではなく、一生懸命勉強するようになって。」

水穂さんは、彼女が勉強するのを眺めながら、そうジョチさんに言った。

「そうですね。元々、彼女は勉強したかったんでしょうね。勉強は嫌いと言っていましたが、それは違うと思いますよ。とめさんは、勉強をしたくなかったのではなくて、勉強をする環境が悪かったのではないかな。だから、勉強の楽しさも感じなかったんでしょうね。まあ、学校というところが、いかに無意味なのか、よくわかりますよね。」

ジョチさんは、ちょっとため息を付いた。それほどとめさんのぐちは多かったのだ。まあ、しっかり勉強させてくれる場所が得られるということで、こんなに変わってしまうのだろう。

製鉄所の利用時間は、10時から17時までであった。17時近くになると、利用者たちは帰り支度を始めて、自宅に帰っていく。そんな中でもとめさんがまだ一生懸命宿題をやっているので、

「とめさん、もう利用時間は終了ですよ。」

と、水穂さんは優しく彼女に言った。

「あら、もうそんな時間ですか。一生懸命勉強していたから、わかりませんでした。すみません。」

とめさんは帰り支度を始めた。

「慌てなくて良いですよ。ゆっくりお支度なさってください。」

水穂さんがそう言うと、

「ああいえ、ごめんなさい。もっと時間をまもるというか、夢中にならないようにしなくちゃ。」

とめさんは、急いで、筆箱をカバンの中にしまった。

「明日もまた来ますから、よろしくお願いします。」

とめさんは水穂さんに頭を下げた。

「はい、お待ちしております。」

水穂さんがそう言うと、とめさんはありがとうございましたと言って、急いで製鉄所の玄関を出ていった。そういうところもまるで普通の高校生と変わらないようだった。精神疾患があるということだったが、それも、だんだんフェイドアウトして、健康を取り戻して言ってくれればいいなと、ジョチさんも水穂さんも思うのだった。

その翌日。その日もよく晴れていた。いい天気で気持ちいいですねなんて利用者たちは言っていた。最近は曇っている日が多かったので、久しぶりの晴れ間が出て嬉しいなと言う感じがした。

しかし。

そろそろとめさん来るかななんて、みんなで話していたとき。製鉄所の玄関の引き戸がガラガラっと音を立てて開いた。誰だろうと思ったら、案の定とめさんだった。でも、とめさんは、とてもつらそうで、なにか悲しそうな顔をしていた。

「とめさんどうしたの?なにか学校であったんですか?」

利用者の一人が、そう彼女に聞いてみるが、彼女は答えなかった。

「学校でなにか悪いことでも言われたの?」

別の利用者がそう言ってもとめさんは答えなかった。

「とめさん、折角利用者さんが聞いてくれているのですから、答えないと行けないのではないですか?」

とジョチさんがちょっときつく言うと、とめさんは涙を流しながら、

「死んじゃったんです。あの人。」

と答えた。

「はあ、どなたが亡くなったんですか?」

ジョチさんが聞くと、

「はい。隣の席に座っている男子生徒で、名前は加藤正隆くんというとても明るくて、素敵な生徒さんでした。そんな彼がどうして死んでしまったのか。私は、彼と一緒に勉強ができてとても嬉しかったのに。同級生と言っても、息子みたいな年齢の人で、将来は大学に進学して、もっといい勉強をするんだって言ってたから、私は、心から応援するって言ったのに。」

と、とめさんは言った。

「そうなんですか。それはおつらいですね。隣に座っていた生徒さんが、亡くなられるというは辛いでしょう。なにか、持病でもあったのですか?」

ジョチさんがそうきくと、

「違います。そういうことじゃないんです。自殺でなくなってしまって。まさか、大学へ行くのを楽しみにしていたので、自殺をしてしまうとは思いませんでした。どうして、彼が自殺してしまったか、見当も付きません。私は、隣の席に座っていたから、彼が亡くなったことに責任取らなくちゃいけませんよね。それもそうなんですけど、本当に彼が可哀想で、、、。」

とめさんは涙をこぼして泣き腫らしてしまうのであった。

その日からとめさんはまるで人が変わったように勉強しなくなってしまった。本人に話を聞いてみると、つらい気持ちが続いていて、何もする気がしないのだという。それは鬱というもので、自分の意志でなんとかなるといくら説得しても効果はなかった。ただ自宅に居るのは、家族から反対されているらしく、毎日彼女は製鉄所に来てくれたのであるが、それでも彼女は泣いてばかりいた。水穂さんが、とめさんに声をかけたりしてくれていたが、他の利用者たちは、これほど落ち込んでしまった彼女をどうしたらいいのかわからないという顔で、眺めているしかできない様子だった。とめさんは学校にも行かないし、勉強もしないし、何もしないで泣いている。まるで放心状態であり、全く誰とも喋ろうとしない。そんな日々が、一月近く続いてしまった。

ジョチさんは、望月学園に行ってみた。相変わらず製鉄所ではとめさんは何も喋ってくれないが、彼女の学校である望月学園に行けばなにかわかるかもしれないと思ったからである。取り合えず、学校に小薗さんの車で送ってもらい、望月学園の正面入口へ行って、校長先生にお目にかかりたいと言うと、校長先生は用事で外出しているというので、教頭先生が相手をした。ジョチさんは、大塚とめという中年の女性と、加藤正隆くんという生徒がどんな関係にあったか、を聞きたかったが、教頭先生は、確かにそういう生徒は居たのであるが、特に問題を起こしたわけではない、ただ、学校の授業や雰囲気が合わなくて自殺したのだとしか言わなかった。ジョチさんは、そうではなくて、二人がどんな関係にあったかを聞いたが、教頭先生は、とめさんと加藤正隆くんは、親子くらいの年の差がある生徒さんだし、まさか隣に座っているくらいのことで、ひどいうつになってしまうような関係ではないでしょうというだけであった。いくら聞いても糠に釘で、ジョチさんは仕方なく製鉄所に帰ることにした。そのときに、教頭先生が、安堵の顔をしたのを、ジョチさんは見逃さなかった。ということは、つまり、なにか裏があるんだなとジョチさんは直ぐに分かったが、そのときは、教頭先生に挨拶して、学校の応接室を出た。

「やれやれ。今日は空振りですか。」

ジョチさんが、応接室を出て、学校の廊下を歩いていると、

「あの、すみません。もしかしたら、大塚とめさんの保護者の方ですよね?」

と、一人の中年の女性に声をかけられた。

「はい、そうですが、なにか?」

ジョチさんがそう言うと、

「あの、私、養護教諭の、大川と申しますが。」

と、女性は言った。

「大塚とめさんまだ、元気になって居ませんか?ずっと学校に姿を見せないから心配になってしまいまして。」

「そうなんですか、とめさんの事を、心配してくれる方が居たのですね。それでは、決して彼女は学校で一人ぼっちだったわけではなかったわけですね。」

ジョチさんは、ちょっとホッとした口調でいった。

「ええ。とめさんは、一生懸命勉強する生徒さんで、休み時間にも一生懸命勉強していました。ただとめさん、体調が良くなくて、よく保健室に来てました。本人は、こんな年齢で勉強するとなると、やっぱり年を取っていて、体にガタが出てしまうんだなと言って嘆いていらっしゃいましたが、それでも、一生懸命勉強していたと思います。」

大川先生は、ジョチさんを保健室へ案内しながら言った。とりあえず、ジョチさんは大川先生の好意で、保健室へ入れてもらった。やはり訳アリの生徒ばかりの高校ということもあってか、保健室で勉強している生徒が一人いた。まだ、20代そこそこの若い女性であったが、そういう若い女性はまだ精神疾患の症状が強い子が多く、学校に入れても、こうして保健室登校になってしまうと大川先生は言った。

「それで、とめさんは、どうしていらっしゃいます?元気にしていらっしゃいますか?ああ、そういうことなら、学校に来てくれますよね。保護者の方が、ここへ来るんですから、なにか辛い思いをしているに違いありませんよね。」

「ええ、実はそうなのです。あの、大川先生、失礼ですが、加藤正隆くんという男子生徒のことはご存知ありませんか?」

とジョチさんは、聞いてみた。大川先生は少し考えて、

「ええ。とめさんが、仲良くしていた男子生徒ですよね。とめさん、とてもうれしそうでしたよ。まるで息子ができたみたいに、正隆くんのことをかわいがっていました。まあ、世間一般で言えば、息子くらいの年齢になるかもしれませんが。」

と、ジョチさんに言った。

「そうですか。彼女が、その加藤正隆くんと出会ったきっかけは何だったのでしょう?」

「ええ、とめさんは、数学の問題の答えがわからなくて、困っていた正隆くんに、ノートを見せてあげたのがきっかけだと言ってました。正隆くんもとめさんが声をかけてくれてとても助かったようです。その日、とめさんは保健室に来て、自分は初めて他人に必要とされたって、すごく喜んでいましたから。」

「それでは、加藤正隆くんはなぜ、自殺に陥ってしまったのでしょうか?」

ジョチさんは、大川先生に聞いた。

「そうですね。一時期、この学校に非常勤講師で、とても言動が悪い先生が居たんです。御存知の通り、この学校は、以前から人手不足で、先生が足りませんから、仕方なく雇ったんだと思います。その先生が、働かない人間は悪であるとか、そういう変な発言ばかりしたものですから、校長は、直ぐに、その先生を、解雇したそうですけど。でも、ここの学校はただでさえ、非常に傷つきやすい生徒ばかりなのに、そういう先生が来てしまうのは、本当に困りますね。」

大川先生はとても恥ずかしそうに言った。

「そうですか。そういう先生から守るための学校でもあるのに、困った人が先生になってしまうものですね。」

「ええ、加藤正隆くんは、音楽学校を目指すために、こちらの学校へ転校してきました。元々レッスンなどあるので、それと勉強と両立させるのは難しく、それで、こちらの学校へ来たそうですけれども、その先生が、音楽を学ぶことにえらく反対したらしくて。正隆くんは、それで自殺してしまったのだそうです。」

「そうなんですね。それで、加藤正隆くんと、大塚とめさんはどんな関係であったのでしょうか?どうも、こちらで過ごしている彼女を見ると、単にクラスメイトという関係には見えないんですよ。」

ジョチさんは、大川先生に言ってみた。

一方、製鉄所では、相変わらず放心状態になってしまっているとめさんに、水穂さんが静かに話しかけていた。

「今日は、暖かくていい天気ですよ。お茶でも飲みませんか?」

とめさんは黙ったままだった。そこで、水穂さんは、いきなり本題を出してしまうことにした。いちいち遠回しにしていたら、本当に話したいことから遠ざかってしまう。

「そんなに、同級生の方の自殺は悲しいですか?」

水穂さんはとめさんに聞く。

「確かに、人がなくなるというのは悲しいものですけど、単に同級生であっただけで、それ以外の深い関係ではなかったと思うのですが?」

水穂さんがそう言うととめさんは、きっぱりした声で、

「違います!」

と言った。

「それはどのように違うのですか?だって、理事長さんが入手した情報によると、親子ほど年が離れていた同級生だったそうではありませんか。そのような方と、そういう関係になったのでしょうか?」

「だって、生まれて初めて私の事を必要としてくれた人でした。あたしがノートを貸してあげたとき、本当に喜んでくれました。あれほど喜ばれた顔は、生まれて初めてでした。みんな、私が前向きになっても、どうせ裏ではやっと前向きになったとか、そういう愚痴ばっかり言うけれど、あのひとは、それがありませんでした。だから、私の事を本気で必要としてくれたんです。だから、私は、必要以上に大事な人になりました。」

水穂さんがそう言うととめさんはそう話し始めた。

「じゃあ、もしかして、いわゆる逢瀬を重ねるとか、そういう事をされたのでしょうか?」

水穂さんがそうきくと、

「そんな事してません!あたしたちは、勉強は教えあったけど、そういう事になったことは一回もありません。そんな事してたら、彼も私も勉強ができなくなりますし。たしかに私は、彼と一緒に勉強を教えて、教材も買いに行って、大学受験する予備校を探す手伝いもしました。彼の弾くピアノにあわせて歌うこともありました。あの、春のうららの隅田川っていう歌知りませんか?その歌を、彼のピアノに合わせて、私が歌ったこともありました。」

と、とめさんはそういったのであった。水穂さんはとめさんの感情が高ぶっているのを見て、もうそれ以上は聞かないことにして、

「そういうことなら、息子みたいな関係だったのですね。たしかに亡くなられてしまってお辛いと思いますけど、とめさんがいつまでも悲しんでいたら、なくなってしまった正隆くんも喜ばないでしょう。とめさんは、正隆くんの分まで精一杯勉強して幸せになってください。とめさんが、望んでいた真剣に勉強ができる環境に今居られるわけですから、それを大事にしてください。」

と優しく、アドバイスしてあげた。とめさんは、涙をこぼしながら、そうですねといった。

同じ頃、ジョチさんは大川先生から、とめさんと加藤正隆くんが、保健室にやってきて勉強を教え合っていた事を聞かされた。また、音楽室で、正隆くんのピアノに合わせてとめさんが歌っていたことも知らされた。そうなるととめさんは、正隆くんに対して恋愛感情を持っていたのに違いなかったが、いわゆる一般てきな男女の恋愛とは違うような気がした。とめさんはきっと、お母さんのような気持ちで、正隆くんと接していたのだろう。そのくらいのことができる年齢だから。

「そうですか。もしかしたら、汚い行為を含まない、純粋なアイというものだったのかもしれませんね。僕は、結婚していないので、それはよくわかりませんけど、きっともう少し年齢が近かったら、また変わってくるんじゃないのかな。」

ジョチさんがそう言うと、大川先生は、

「ええ。少なくとも、彼女たちは幸せだったと思いますよ。だから、とめさんがまた学校に戻ってきてくれることを願っていると伝えてください。」

と、ジョチさんに言ったのであった。

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増田朋美 @masubuchi4996

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