別に待ってなかった始まり
目的は「可愛い」って言葉だけど、できるだけ人の記憶に残らないように心掛けている。夜歩くとき、知り合いには会わないように気を付けてるし、この散歩には決まったルートはなく、目的地もない。だからぶらぶら、明るい道を選んで歩いている。
傍目には若い女が一人ぶらついているだけに見えるだろう。俺は慣れた足取りでヒール高めのブーツのかかとを鳴らして歩く。
女装を始めた当初は、外に出ようなんて思ってなかった。ただ鏡の中に映る自分に満足してればよかった。だけど次第にそれにも飽きが来るわけだ。
俺は露出狂の気持ちがちょっとだけわかる気がする。晒したいのだ。別に俺は局部を晒そうとは思わないけど――可愛く着飾った俺を誰かの目に晒したい。
人とすれ違う。すれ違う。すれ違うんだけど、何も言われない。お前男だろ、って言われたりとか、なんだこいつっていう奇異の目を向けられることもない。ニーハイソックスにショートパンツ、ショートボブのウィッグを被った俺が、本当は男だってことを誰も疑わない。
俺は女の子だ。可愛い女の子。
そう思うと快感。頭の中にぶわっと快楽物質が分泌される。なんていうんだっけ。
だから俺はこの前俺の前にちんこをおっぴろげてきたおっさんのことを責められない。おっさんは俺の声を聞いて俺の正体を悟り、「しまってください」という男の声にしょんぼりしながらちんこをしまっていた。うん、ちんこはしまいなよ。通報はしないでおいてあげた。俺からおじさんへの情けだ。
ふわふわと熱に浮かされながら歩く東京の街はすごく広くて、すごく高い。頭の中にヒールの音が響いている。酔っぱらってもいないのに酔ってる気がする。ひと気のない細い路地、開放感にも似た心地よさの中でヒールを鳴らしていると、突如目の前にソーセージが現れた。いや、ソーセージのようなものが、現れた。
「……」
男は無言だった。俺の行く方向を遮るような形で、彼はコートの前をおっぴろげていた。
またかよ!
面倒なので避けて通ろうとする。しかし男は狭い路地を目いっぱい往復してしつこく俺にそれを見せてこようとする。ちょっとしたカバディ状態だ。雑踏のお見合い状態、と言えば通じるだろうか。
どんだけだよ。どんだけ俺に見せたいんだよそれを。思いがけず大声が出かけたその時、やつは現れた。
「おい! 警察呼ぶぞ!」
露出男の背後から低い声が叫ぶや、おっさんはひらりとコートを翻して大通りの方へ逃げて行った。俺はそいつの顔を見た。背の高い屈強な男だ。体格が良く、人のよさそうな顔をしている。
……人でも良くなきゃこんなところに首を突っ込んだりしないか。
「大丈夫か」
見下ろされて、俺はこくりと頷く。俺は女装のために体格をあるていど作ってあるから、華奢に見えるように肩を丸めたりするのだけれど、やつはちがう。ぴんと胸を張っている。逞しい胸筋がシャツを盛り上げている。
「……怖かったろ」
助けてくれた優しいこの人に自分が男だってことを伝えたらどうなるか、ということを俺は一瞬考えてしまった。一瞬でも。
今じゃその選択を後悔している。
「可愛い女装男子にあんな狼藉。許さねえあのジジイ」
「エッ??」
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