34:夢よりも幸福な現実
昼休みは中庭へ行くことができず、晴見くんとは一度も話せなかった。
今日は放課後に風紀委員の仕事があるけれど、終礼が終わったら晴見くんに声をかけてみよう。そう思っていたのに、終礼が終わるや否や先生に呼び出しを喰らった。
なにかと思えば、プリントを運ぶのを手伝ってほしいとの事だ。そんなの、私じゃなくても出来るじゃないですか。そう思ったけれど、口には出さないし出せない。自分で言うのもなんだけど、優等生とは面倒だ。
そうこうしているうちに、いつの間にやら晴見くんの姿は教室から消えていた。
不思議なことに、次の日もそのまた次の日も、晴見くんに声をかけようとした時に限って何かによって引き留められる。まるで神様が私と晴見くんを引き離そうとしているみたいだ。
昨日の昼休みは風紀委員の呼び出しがあり、今日はクラスメイトに勉強を教えてほしいとまた頼まれた。
晴見くんからは何も言ってこないどころか、私の方をちらりとも見ようとしない。いつも通り、窓際の席から夏空を眺めているだけだ。私の目には決して見えない、晴見くんにしか見えないなにかに心を掴まれているかのような空虚な目で──
あっという間に月曜日から木曜日までが流れ去り、一学期の終業式である金曜日を迎えた。
終業式で私は風紀委員長として夏休みの過ごし方などについて少し話をしたが、終業式それ自体については特段思うことはなかった。
「梓ちゃんってほんと凄いよねー。みんなの前であんなにすらすら話せるの」
小春ちゃんにはそう言われたけれど、全校生徒を前にして話す機会はこれが初めてではないし、今となってはそれほど緊張もしない。事前に頭の中に思い描いていた文章を読み上げるだけの作業だ。
終業式の後は、教室で担任の先生の話を聞いたり夏休み中の課題を受け取ったりして、部活がない生徒は午前中に下校できる。
今日、なんとしてでも晴見くんと話をしなければ、私は夏休み期間中の一カ月弱、晴見くんに会うことができない。
終礼が終わるとすぐに席を立ち、教室を出て行く晴見くんを私は慌てて追いかけた。
「は、晴見くん!」
私が呼んでも、生徒たちの声で騒がしい廊下では、私の声は届かない。おまけに晴見くんはイヤホンをしている。
下足室でローファーに履き替えて校舎を出る。少し先を歩く晴見くんの後ろ姿を素早く見つけて追いかける。
学校を出て、少し進んだ先で私は晴見くんの背中に触れた。
「氷見谷さん?どうしたの?」
振り返った彼はイヤホンを外しながら、不思議そうな顔で私を見た。
「あの……っ、前に言っていた話……!」
慌てて晴見くんを追いかけて来たので、心臓がバクバクとして息が乱れている。
「話?……ああ、もしかして中庭に呼んだ時の?」
私は頷いた。
「ごめんなさい。なかなか声を掛けるタイミングがなくって……その、もしこの後予定がなかったら、聞かせてもらいたいんだけど……」
晴見くんは、ほんの一瞬なにかを思案するような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「……うん。わかった。それじゃあ、ちょっと散歩でもする?
そうだ!桜葉公園、水連が今ちょうど見頃で綺麗なんだよ。ここからすぐ近くだし、氷見谷さん、バスで来てるからあんまり行ったことないでしょ?」
「ええ。大きな公園みたいだけど、行ったことはないわ」
「よし、じゃあ行こう。ここよりかはうちの生徒も少ないだろうしね」
晴見くんがそう言ったということは、あまり他の人に聞かれたくない大事な話なのだろうか。だとしたらそれは何だろう。あまり期待し過ぎるのは良くないとわかっているけれど、どうしても期待してしまう。
◇◆◇
晴見くんが連れて来てくれた公園は想像以上に広く、フリスビーやバドミントン、ジョギングをしている人や、犬の散歩をしている人が多い。敷地内には植物園やお花畑もあるそうで、花の見頃の時期には毎年多くの人がやって来るそうだ。
晴見くんが言っていた水連は今の時期が見頃だというのに、タイミングがよかったのか、辺りには私たち以外に誰も居ない。
水上に咲く白や桃色の花は可憐で美しく、印象派の絵画の中に居るみたいだ。頭上では木の葉がざわざわと風に揺らめき、黄昏の空の色を滲ませた木漏れ日が晴見くんの長い睫毛や瞳を照らしている。
この時間が永遠に続けばいいのに。そうしたら私たちは、二人きりでいられるのに。
「氷見谷さん、あのさ……」
どこか物憂げな晴見くんの視線が水連から私へと移動する。
これから晴見くんが言うことは、私にとって良いことだろうか。それとも悪いことだろうか。
「な、なに?」
「実はさ……俺、すふれの動画を見るの、しばらくの間止めてたんだ」
「えっ?え……っと、そうだったの……」
思ってもみない言葉に意表を突かれ、私の頭は一瞬フリーズしかけた。最近は動画を上げても「ましゅまろぽてと」からコメントが来ないとは思っていたから、もしかしたら見てさえいないのではないかと薄々気付いてはいたけれど。それにしても、晴見くんはこちらが申し訳なくなるほど深刻そうな顔をする。
「本当はすごく見たい。一番好きなVTuberだし、いつも楽しみにしてたから。でも、どうしても見られなかったんだ。自分には見る資格が無いような気がしてさ……」
晴見くんはそう言うと、苦々しい笑みを浮かべた。
「資格が無いって、どういうこと?」
「前に氷見谷さんが俺のことを……その、好きだって言ってくれたのに、俺は……今の自分ではどうしてもその綺麗な気持ちに応えられなくて、そんな自分がたまらなく嫌で、男の癖に情けないって思われるかもしれないけど、正直に言うとずっと怖かった。氷見谷さんの声を聞くのが。学校で会うことも」
一生懸命、一言一言絞り出すようにして話す晴見くんの姿を見ていると、私の胸は絞めつけられるように痛んだ。私は自分の願いを叶えることに必死で、晴見くんの気持ちを考えてなどいなかったのかもしれない。
「どうしたらいいかわからなくて、ずっと考えてた。
けど、最近の氷見谷さんを見て凄いなって思ったんだ。なんていうか、上手い表現が思い浮かばないんだけど……素敵だなって思った」
好きな人に真っ直ぐに目を見ながら「素敵」だなどと言われて、赤面せずにいられるだろうか。顔が熱いと思ったら、晴見くんの顔も真っ赤になっていた。
「氷見谷さんを見て、自分も頑張ろうと思えた。これまでは『大切な人を傷付けたくない』ってことを言い訳にして、自分が傷付かないようにする為に逃げてばかりいたけど、まずはそんな自分自身が変わらなきゃ、現実は何も変わらない。氷見谷さんを見ていたら、やっとそのことに気付けたんだ」
……どうしてだろう。すごく、すごく嬉しいのに、胸が苦しくて目の奥が少し熱くなる。
「氷見谷さん、ありがとう。こんな俺を好きになってくれて。
今更こんなこと言うのは卑怯かもしれないけど、俺も氷見谷さんが好きだよ。君が『真白すふれ』であることは別にしても、きっと好きになってた。
でも、やっぱり今の自分では君の隣にいることはどうしても出来ない。だからこの夏に絶対に変わって、もう一度伝えるよ。だから氷見谷さんがよければ……その、待っていてもらえないかな……」
ああ、私はなんて幸せ者なのだろう。これは本当に現実だろうか。夢でさえ、こんなにも幸せな夢は見たことがない。
本当に、本当に幸せ過ぎる。
涙が溢れて止まらない。
晴見くん、大好き。
私は何度も何度も頷いた。涙で顔はぐちゃぐちゃだ。
晴見くんが鞄から紺色のハンカチを取り出して、私の頬を伝う涙をそっと拭ってくれる。まるでガラス細工に触れるかのように慎重に。
晴見くん、何をするつもり!? 白井なみ @swanboats
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