27:心の傷
誰かに自分の想いを伝えたことは、人生でこれが初めてだ。
幼稚園や小学校に通っていた頃、親や仲の良い友人に対して伝えた好意とは全く意味合いが異なる。
相手が晴見くんでよかった、と心から思う。
「……あ、あの、氷見谷さん」
晴見くんは明らかに困っている様子だ。わかっている。私が彼に恋愛対象として見られていないことくらい。傘に入れてもらったのも家に招かれたのも、ただ彼が優しいからというだけ。けれどその優しさに甘えてばかりでは、私はいつまでも晴見くんの「特別」になれないような気がした。
「ごめんなさい……突然こんなことを言ってしまって。あなたを困らせることくらいわかっていたのに。だけど、どうしても伝えたかったの」
晴見くんがあまりにも謙虚で、自分の魅力に全く気付いていないから。
「い、いや……嬉しいよ。とても。だけどびっくりしちゃって……ほら、氷見谷さんって冷静だし大人っぽいし、成績も良いし、高嶺の花って感じだったから……まさか俺なんかのこと……って、信じられなくて」
冷静で大人っぽい?私が?
……そんなわけない。それは現実の世界を生きていく為に作り上げた仮面だ。晴見くんならもしかしたら、本当の私がそんなに出来た人間ではないことを見抜いてくれているのではないかと思っていたのだけど。
でも、それなら私のことももっと晴見くんに知ってもらいたい。
「氷見谷さん。つまらない自分語りなんだけど、ちょっとだけ話をさせてもらってもいいかな」
気付けばカーテンに透けて見える空は、月明かりや街灯の明かりさえ見えない暗い夜の色に染まっていた。
私は頷いた。
「ええ、もちろん」
「俺の家は父親と母親、兄の四人家族で、俺が小学校に上がる前くらいまでは、家族みんなで普通に楽しく暮らしてた。
だけど、育児が落ち着いたからとかそんな理由で母親が働きに出るようになってさ……」
晴見くんはそこで言葉を止めた。その手は苦痛に耐えるかのように強く握られていて、微かに震えているように見える。今、彼が私に話してくれていることは、彼にとってよほど辛い過去なのだろう。
晴見くんのことをよく知りもしない私にそれが出来るかはわからないけれど──いや、例え出来なかったとしても、受け止めなければいけない。
「大学を出てから働いていた会社は結婚と同時に辞めたらしくて、最初はパートタイムで、和菓子の工場で働き出したんだ。母親は基本的にいつも明るくて飄々とした感じの人でさ、適当だったり抜けてるなって子供ながらに思うところも結構あった。
それで、工場で働き出したんだけど、お局に苛められるとか言って一週間くらいですぐに辞めたんだ。その後は近所のスーパーで働くことになったけど、そこも人間関係が悪いことを理由に一カ月も経たずに辞めて、その後は本屋だったかクリーニング屋だったか……どっちにしろ、そこも同じような理由で長く続かなかった。
父親はしっかりした人で、仕事で疲れて帰って来ても、落ち込んで自暴自棄になっている母親をいつも励ましてた。『辛いなら無理に働かなくてもいい』とも言ってた。
でも、母親は負けず嫌いというか、変なところで責任感が強い人でさ……結局、父親の言う事も聞かずに仕事を始めて、短期間で辞めて、っていうサイクルを何年も繰り返してた」
晴見くんは、お母さんのことを思い返すかのように憂鬱そうな重い溜息を吐いた。そしてコップに入ったお茶を一口飲み、また話し始める。
「どこで働いても結局上手くいかなくて、一番長く続いた所でも半年くらいだったと思う。新卒で入った会社を結婚するまで続けられてたってことが信じられないくらいだよ。
『その会社でもう一度働かせてもらえないのか?』って父親は提案したみたいだけど、母親に『辞めますって言って辞めたのに入れてもらえるわけないでしょ』って言われて一蹴されたらしい。
俺が中学生になった頃には、母親はもう働くことを諦めたのか、ずっと家に居るようになった。かと言って専業主婦として家事をするのかというと全然そんなことはなくて、料理もしないし洗濯物も溜まりっぱなし。おまけに昼間から酒ばっかり飲んで、それに対して俺たちがなにか言うと『私が悪いって言うの!?』って、ヒステリックに喚き散らすんだ。
父親はどうだか知らないけど、俺も兄も母親のことが本気で嫌いだった。小さい頃は大好きだったのにな。
でも、一番辛かったのはきっと母親本人だったんだろうなって、今となっては思う。料理も洗濯も、全くやる気がなかったわけじゃない。やろうとしても出来なかったんだ。
夜中に水が飲みたくなってキッチンへ行こうとした時、明かりの点いていないキッチンで母親が一人立って啜り泣いているのを見た時は、心臓が止まったかと思ったね。
ばあちゃんやじいちゃんも母親の悪口ばっか言って、父親に離婚するように勧めたりしてさ。でも、父親は離婚しようとはしなかった。母親に対してキツい言葉を言うこともなかったように思う。
だから、俺と兄のストレスは余計に溜まっていった。
ある時、学校が終わって家に帰ったら、当然のことながら夕飯は用意されていないし、洗濯物も取り込んであるだけでリビングの床に山積みにされていた。その日は学校でちょっと嫌なことがあった上に、洗濯物を畳むのは俺の仕事ってことになってたからイライラして、何か一言アイツに言ってやらなきゃ気が済まねえ!と思った。
母親はリビングにもキッチンにも寝室にもいなかった。呼んでも返事がないし、どこかに出掛けてるのか?と思ったら、二階で人の気配を感じたんだ。
嫌な予感がして、俺は慌てて階段を駆け上がった。そしたら案の定母親は、ベランダの窓から飛び降りようとしていた。
その後のことは正直あまり覚えてないんだけど、泣き喚いて暴れる母親と掴み合いになって、俺は母親に髪は引っ張られるわグーで殴られるわはっきり言ってサイアクだった。
精神病って軽度のものから重度のものまで色々な病気があると思うんだけど、本当におかしくなった人の姿って見たことある?もう、言葉では表現できないくらい恐ろしいんだよ。目玉が飛び出すんじゃないかってくらい目が見開いてて、顔面は蒼白で、よくわからないことを泣きながらずっと叫んでるんだ。
その辺にあるものを投げ付けられて、馬乗りになって殴られて、母親が鋏を掴んだ時は本当に殺されると思った。
だから俺は母親の腹を全力で蹴り飛ばして、手を血だらけにしながら鋏を奪って、母親が──」
晴見くんは話すのをやめて、暗い視線をこちらへ向けた。
「……なんで氷見谷さんが泣いてるの」
「わからない……わからないけど……わからない……」
晴見くんが笑う。
「あはは、『わからないけどわからない』って。なんだか氷見谷さんの言葉っぽくないね」
たしかに。普段なら私は、絶対にそんな曖昧なことは言わない。
「晴見くんがもし話してもいいなら……続きを聞かせてくれない……?」
私がそう言うと、晴見くんは少しだけ笑って頷いた。
「中学生の俺は、母親の意識がなくなるまで殴り続けた。そうしないと殺されると思ったから。俺の頭は冷静さを完全に失っていて、救急車を呼んだり誰かに助けを求めるなんて発想も浮かばなかった。
そのうち兄が帰って来て、俺は兄と母親と一緒に初めて救急車に乗った。
母親は今も生きてるけど、あれ以来なにも話さないし抜け殻みたいな状態で、精神病院に入院してる。
だからさ……」
「だから俺は怖いんだ。自分が傷付けられるのも、誰かを傷付けるのも怖い。
周りの人からすれば大したことない、誰も気にしないようなことが俺を深く傷付ける。そしてその度に、俺は自分が受けた痛みの何倍も酷いことを相手に返してしまうんだ。
自分が傷付いてから相手を傷付けるまでの間、もう何が何だかわからなくなって、自分で自分を抑えられなくなる。相手が動かなくなるまでやらなきゃいけないって脳が思い込んで、歯止めが利かなくなるんだ。俺はそれが怖い」
そう語る晴見くんは今にも泣き出しそうで、なにかに怯える小さな子供の目をしていた。息は乱れているし、身体は小刻みに震えている。
私は慎重に、そっと彼の手に触れた。まずは指先から。次第に掌全体を彼の手の上に重ね、静かに包み込んでいく。
「大丈夫」なんて、そんな安易なことはとても言えない。
誰かの心の傷に触れることは辛いけれど、それを直に感じ続けている当人が一番辛い。その痛みや冷たさを分け合うことなんて出来ないけれど、せめて傍に居させてほしい。
「……氷見谷さん。さっき伝えてくれたことの返事なんだけどね」
驚いて顔を上げると、優しい目をして微笑む晴見くんと視線が重なった。けれどその微笑は、他人を一切寄せ付けない、冷たく哀しい色をしていた。
「本当にありがとう。氷見谷さんのような素敵な人にそんな風に思ってもらえて、自分は本当に幸せ者だと思う。
だけど、今俺が話したように、俺は誰も傷つけたくないし、自分も傷付きたくない。要するに臆病者なんだ。
だから画面の中の君を──いや、すふれを初めて見た時に、惹かれたのかもしれない。
俺は君に相応しくない。だから……せっかく俺なんかを好きになってくれたのに、気持ちに応えられなくて申し訳ない」
やめて。申し訳なく思う必要なんてない。それと、「俺なんか」って何度も言わないで。
そう伝えたいのに、涙で言葉が出てこない。
私はきっと酷い顔をしているだろう。
少女漫画では失恋した女の子はみんな可愛く綺麗な泣き方をするけれど、現実はそんなに美しくない。
晴見くんが小さく微笑みながら、私にティッシュを差し出した。
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