25:思想家ぶった女子高生

 誰であれ人には表の顔と裏の顔が存在するのだろうか。

 叱られて尻尾を下げた犬のように、俯いて歩く晴見くんを横目で見ながら私は思った。


『殺すぞ』


 自分が言われたわけではないのに、彼が放った鋭利な言葉が耳に焼きついて残響となり、いつまでも消えない。

「はる……」

 元気付けたい。あなたは何も悪いことはしていないのだと、ただ私を──私と小春ちゃんを守ってくれたのだと、それを伝える為に彼の名前を呼ぼうとして、途中でやめた。

 いや、やめたというよりも、隣を歩く彼の横顔は他人を一切寄せ付けず、世界の全てを拒んでいるかのように見えて、どうしても声をかけることができなかったのだ。私が呼べなかった彼の名前が、側を走る車のエンジン音に連れ去られていく。

 今、私が一緒に歩いている『彼』は、本当に晴見くんなのだろうか。


 駅で小春ちゃんと別れた後、私は晴見くんのことがどうしても心配で、自宅の最寄り駅を通り過ぎて彼を家まで送っていくことにした。

 電車の中で「晴見くん、今日は送っていくわ」と私が言っても、晴見くんは虚ろな目で「ああ……うん……」と小さく答えただけだった。


 人間なら誰にでも落ち込んだり苛々したりすることはある。普段は穏やかな人が激昂したり、反対に厳しい性格の人が優しい言葉を言ったり……人間の言動は本人の気分や周囲の反応一つで案外あっさりと変わるものだ。

 けれど、今の晴見くんの状態は「気分の浮き沈み」とか、そんな簡単な言葉ではとても言い表せない。まるで別人だ。抜け殻のようだ。なにか良くないものに取り憑かれているようにも見える。

 私の隣にいるのは誰なんだろう。晴見くんはどこへ行ってしまったんだろう。この人は誰?なんだか少し怖い。


『あああああああああああああああ!!!!!!!!!!』


 痛ましい叫び声を上げて蹲る彼は、まるでに怯える小さな子どものようだった。そんな彼の姿を見て、ただ狼狽えるだけで何も言えず、のこのこと隣を一緒に歩くことしかできない自分が不甲斐なくて仕方がない。

 私はきっと、晴見くんのことをなにも知らないから何も言うことができないのだ。けれど、彼のことを深く知れば、その心の奥にある闇に触れてしまったら、彼を傷付けてしまうのではないか。いや、それ以上に、私は晴見くんのことを──


「氷見谷さん!!」


 後ろから突然手首を掴まれて、強い力で引き戻された。その瞬間、甲高いクラクションを鳴らしながら物凄い勢いで車が通り過ぎていった。

「氷見谷さん!どうしたの!?信号赤だよ!!」

 そこにいたのはいつもの晴見くんだった。いや、『いつも』とは少し違うかもしれない。けれど、確かにこの人は私の知っている晴見くんだ。それが嬉しくて、晴見くんに叱られている最中なのに笑ってしまった。

 晴見くんは少し驚いた顔をして、気の抜けた声で私を窘めた。

「もう、なに笑ってるの……俺が止めてなきゃ危うく轢かれるところだったよ?」

「え、ええ……ごめんなさい。ありがとう、止めてくれて……」

 そう言いながら、視線は自然と晴見くんに掴まれたままの手首に辿り着いた。

 晴見くんもそれに気が付いたのか、慌てた様子で手を離した。彼に掴まれていたところだけ、くっきりと赤い跡が浮かび上がっている。


「いや、こっちこそごめん……その、今日は色々と迷惑かけちゃって……」

 せっかくいつもの晴見くんに戻ったと思ったのに、彼の表情がみるみるうちに暗く沈んでいく。

「迷惑だなんて!晴見くんは私たちを助けてくれたのよ!だからなにも謝ることなんてないわ」

 だから、そんな哀しそうな顔はしないでほしい。いつも優しい晴見くんがこれ以上傷付く姿を見たくはないのだ。


「あれ?そういえば氷見谷さん、家この辺じゃないよね?なんでここに居るの?」

 晴見くんはそう言って、不思議そうな顔をして目を瞬かせた。その顔が可笑しくて、私はまた笑った。

「もう……電車の中で今日送っていくって言ったじゃない。覚えてないの?」

「え!?そうだっけ!?ごめん、俺、ぼーっとしてて……」

「いいわよ、そんなの。晴見くんには何かと助けてもらっているし……」

 改めて口にするとなんだか恥ずかしくなって、彼の目を真っ直ぐに見られなくなった。

「そ、それじゃあ後は一人で帰れるわよね!たしか、ここからすぐ近くでしょ?」

「あ、うん。氷見谷さん、ほんとにごめんね。今日はありがとう」

「だから、晴見くんはなにも謝ることはないって言ってるでしょ?それじゃあ、また学校でね」

「うん。また」

 私は晴見くんに背を向けてゆっくりと歩き出した。『また学校でね』なんて、何年も口にしていなかった言葉を存外あっさりと言えたことに、私は自分のことながら少し驚いた。


 ゆっくり、ゆっくりと進みながら考える。本当にこれでいいのだろうか、と。

 別人のような晴見くんの姿を見た時、私は彼のことを少し怖いと思ってしまった。

 私は晴見くんのことが好きだ。単なる好意ではなく、恋愛感情を抱いている。

 晴見くんは気付いていないだろうけど、彼は私の毎日を良い方向へ変えてくれた。

 晴見くんに恋をしたから、バーチャルの世界で別の人格として理想の自分になるのではなく、現実の世界で『なりたい私』になって、今を変えることができるのだと気付くことができたのだ。


 それなのに、私は晴見くんの危うい一面を見たら、それ以上彼の心の闇に触れたくないと思ってしまった。

『これ以上この人の深いところへ入っていいのか?』と、私の中で赤色の信号が灯ったのだ。

 心の傷を抉って晴見くんを傷付けたくないから?拒絶されたくないから?

 それもあるけれど、何よりも私は、晴見くんという一人の人間が抱える心の闇に触れてしまったら、私が彼を好きでいられなくなってしまうのではないかと不安だったのだ。


 晴見くんに恋をしているからこそ今の私が在る。もし晴見くんを好きでなくなったとしたら、今の私は壊れるのだろうか?

 ……そんなことはない。

 万が一晴見くんを好きでなくなる時が来たとしても、その時はまた、新しい私に出逢うだけだ。晴見くんは私を変えてくれたけど、だからと言って「好き」という感情しか感じられなくなるのは恋じゃない。それは依存とか執着とか、きっと別のものだ。

 私にとって晴見くんは甘い夢を見させてくれる相手ではないし、ましてや自分を変える為の道具などでもない。

 相手が何を考えているかなんてわからない。人間の本質なんて何十年と一緒にいたって知ることは難しいだろう。

 だから、もっと知りたいと思うのだ。もっと深く。晴見くんのことを。

 この感情こそが、私にとっての恋だ。


「晴見くん!!」

 既に見えなくなりかけていた彼の背中を追いかける。

「晴見くん!」

 晴見くんが振り返って私を見る。それだけでもう、たまらなく嬉しい。

「氷見谷さん!?どうしたの?」

「晴見くん……あの、その……もうちょっと話したいなって、思って……」

 走った所為で息は絶え絶えだし髪は乱れているし、今の私はきっと全然可愛くないのだろう。それでもいい。髪を整えている間に、彼が見えなくなってしまうくらいなら。


「いいよ」

 視線を上げると、微笑む晴見くんと目が合った。切れ長の黒い瞳の中には私が映っている。

うちに来る?」

 

 ああ。

 恋だの愛だのと思想家ぶって偉そうなことを色々と考えながら、結局私はどこにでもいる、同級生に恋をする一人の女子高生に過ぎないのだ。

 だって初めから、この言葉をどこかで期待していたのだから。


 

 

 

 


 


 

 

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