16 : 触ってないわよ
昨日の大雨が止むと、季節は一気に夏らしさを帯びた。耳障りな蝉の声が頭に響き、照り付ける日光はじりじりとアスファルトを溶かしている。
「はあ、はあ、はあ……」
高校から徒歩10分ほどの距離にある晴見くんの家に辿り着いた時、私は息が切れていて、首筋には滝のような汗が伝っていた。背中にべっとりと貼り付くブラウスが不快でならない。
なにかお詫びの印をと思い、途中でコンビニに寄ってスポーツドリンクや蜜柑ゼリーなどを買ってきた。
委員会の仕事を放棄したのは今日が初めてだ。その理由が晴見くんだなんて……彼の家まで来ておきながら、そんなことをする自分が未だに少し信じられない。
インターフォンを押そうとする指先が震える。
家まで押しかけて来られて、彼は迷惑に思わないだろうか。私のやっていることは親切などではなく、ただ自分が晴見くんと一緒に居たいだけなのではないか。
インタフォーンを押そうとした手を下ろした。
暑い。私は一体なにをやっているんだろう。
もう帰ろうか。そう思った瞬間、頭上で窓が開く音がした。
「あれ、氷見谷さん!?なにしてるの、そんな所で」
不織布のマスクを付けた晴見くんが窓から顔を覗かせていた。彼の姿を見ただけで嬉しくて嬉しくて、茹だるような暑ささえ忘れてしまいそうだ。
「は、晴見くん……」
「待ってて!今、下行くから!」
それからすぐに玄関のドアが開き、少し気怠そうな晴見くんが顔を見せた。
「どうしたの?」
「今日、学校休んでたから……き、昨日借りた服を返そうと思って」
「ええ!?そんなの、学校で会った時でよかったのに……っ、ゴホッ」
晴見くんは言いながら、痰が絡まったような咳をした。
「具合、大丈夫?あの、これ……買ってきたんだけど、よかったら……」
私が差し出したビニール袋を、晴見くんは不思議そうな目で見た。少しの間があり、晴見くんはリアクション芸人並みに大袈裟に驚いた。
「ええっ!?な、なんで!?っていうか暑いでしょ、取り敢えず上がって!」
「う、うん……お邪魔します」
晴見くんは体調が悪そうなのだから、本来であれば家には上がらずに帰るべきだとわかっていた。それでも、どうしての彼の誘いを断ることが出来ずに、私はまた晴見くんに甘えてしまった。
晴見くんの部屋にお邪魔するのは二回目だ。壁に掛かったアニメキャラのタペストリーも、丁寧に陳列された人気VTuberのグッズも記憶に新しい。
晴見くんはベッドに腰掛け、私はローテーブルの前に置かれたクッションの前に座らせてもらった。
熱がある人特有の重たげな視線を持ち上げて、晴見くんが私を見た。
「それで……氷見谷さん、今日は何しに来たの?」
「えっ!?だから、服を返しに来たのと、あとこれを渡しに来たのよ!」
私はそう言って、テーブルの上に置かれたスポーツドリンクや蜜柑ゼリーなどを指差した。
「そ、それに……昨日、私が傘に入れてもらった所為で晴見くんが濡れちゃったんじゃないかって……それで風邪でも引いたんじゃないかと思って……」
言いながら、自分の顔が熱くなっていくのがわかった。早速、熱でも移されたのだろうか?
「要するに、氷見谷さんは俺を心配してお見舞いに来てくれたって認識で合ってる?」
「合ってないわよっ!」
咄嗟にそう答えてしまった自分を殺したい。だからと言って、ここで可愛く『合ってるよ♡』なんて言う自分を想像すると全身に悪寒が走るんだけど。
晴見くんは何か言いたそうな視線をじっと私に向けていたが、何が可笑しかったのか、突然吹き出して笑った。
「氷見谷さんって、面白い人だよね」
「お、面白い……?私が?」
真白すふれに対して『面白い』と言ってくれるリスナーはいるけれど、私自身は『面白い』と言われたことなど殆ど無い。
「ゴホッ、ゴホ……ッ」
晴見くんは骨張った手でマスクを抑えながら、辛そうに咳き込んだ。
「晴見くん、大丈夫!?ごめんなさい、体調が悪いのに喋らせてしまって……!私はもう帰るから、横になって寝てなきゃだめよ!」
「うーん……そうだね……」
晴見くんはそう言いながら、億劫そうにベッドに横になった。
「熱は測った?薬は?っていうか、水分ちゃんと取ってる?」
「あはは。氷見谷さん、なんかお母さんみたいだなぁ……」
「今日、お家の人は?」
「うーん……六時くらいには兄が帰ってくるんじゃないかなぁ」
もしかしたら、晴見くんの家にはお母さんはいないのだろうか。だけどそんなことを聞けるほど私はまだ彼と親しくないし、彼が話したくないなら私も聞きたくないと思った。
「そう……それじゃあ、私は帰るから……」
「うん、ありがとう。玄関は開けといていいから。気を付けて帰ってね」
「ええ……」
晴見くんは仰向けになって目を閉じている。私はその場に立ったまま、彼の様子を少しの間見ていた。晴見くんは小さい子供じゃないのだから、熱があるからと言って家に一人でいても問題ないとわかってはいるが、それでもやはり心配だったのだ。
その時、眠ったかに見えた晴見くんの口元が笑った。
「氷見谷さん、前にも俺のこと見てたよね?今みたいな感じで」
そう言われて、私は全身が熱くなるのを感じた。晴見くんはあの時の──中庭での一件のことを言っているのだ。あの時、眠っていると思っていた晴見くんは実は起きていて、私が無断で頬に触ったことは彼に知られている。
穴があったら入りたい。可能ならば晴見くんの記憶の中から真っ先に消し去りたい出来事だ。
「……さ、触ってないわよ」
晴見くんは笑った。
「誰も触ったなんて言ってないよ」
晴見くんが目を開けてこちらを見る。開きかかったその目を両手で覆いたかった。けれど、間に合わなかった。
ああ、心臓が止まりそう。
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