14 : ばか

 晴見くんが言った言葉がいつまでも耳に残り続ける。

『今はすふれが一番だけどね』

 たとえこの先晴見くんが近くにいなくなったとしても──すふれが一番でなくなったとしても、私はずっとこの言葉を忘れないと思う。

 この甘美な喜びを素直に口に出せたらいいのに。純粋で真っ直ぐな『真白すふれ』であればそんなこと造作もないはずなのに。

『ありがとう』の言葉一つ伝えるだけでも時間がかかる。そんなわたしが、とても嫌いだ。

 それでも、時間がかかったとしても伝えたい。


 その時、晴見くんが突然大きな声を上げた。

「あった!モバイルバッテリー!昔使ってたやつ!」

「そ、そう。よかったわね」

 晴見くんは見つけ出したモバイルバッテリーを自身のスマートフォンに接続しようとした。……が、USBのポートのタイプが異なるのか、上手く挿さらないようだ。

「あれ?おかしいな……これじゃダメなのか……?」

 晴見くんは独り言のように呟きながら、諦め切れないのか何度もケーブルの先端を挿し込もうと試みる。

 

「晴見くん」

 彼が振り返る。

「はい」

「あんまり無理に挿そうとすると、壊れちゃうかもしれないわよ。スマホ」

「あ、うん。そうだね……うわー、ほんと兄貴の奴サイアクだ。もう充電7%しかないんだけど!」

 晴見くんは悪態を吐きながらも、無邪気な子供のように楽しそうに笑った。


「あの……晴見くん」

「ん?なに?」

 言え。言うんだ。彼に『ありがとう』と。

 いつも配信を見てくれてありがとう。すふれを好きになってくれてありがとう。

 言え……!

「あ、あのー……?氷見谷さん?」

「晴見くんっ!」

「はいっ」

 彼に近付こうと一歩踏み出したその時、床に落ちていたLANケーブルのような何かを踏んでしまった。恐らく、モバイルバッテリーを探す際に晴見くんが取り出したものだろう。

 ちょうど挿し口のあたりを踏んでしまったのか、尖った部分が足の裏に深くめり込む。

「い……っ!」

「氷見谷さん!」

 

 単純に痛かったので『きゃっ』などの女の子らしい声ではなく、シンプルに痛みを訴える声が漏れてしまった。しかし、そんなことを後悔している場合ではなく、バナナの皮を踏んで滑った人のように身体が傾き、床に頭をぶつけると思った瞬間、晴見くんに右手首を強く掴まれた。

 物凄い力で身体を引き寄せられ、勢いの余りそのまま床に倒れ込む。


 不思議と痛くないと思ったら、私は晴見くんを押し倒すような体勢になっていた。

「い……ったた」

 晴見くんが呻く。

「……ごっ!!ごめんなさいごめんなさい!!」

 私は即座に晴見くんの身体から下りて謝罪した。最近ちょっと体重が増えているなと思っていたんです。晴見くんは男の子にしては細身だから、私なんかが全体重をかけて圧し掛かったら、骨の一本や二本は簡単に折れてしまうのではないかと不安になった。


「いや、大丈夫……ってちょっとひみyあさ……っ!!」

 晴見くんは何か言いかけて、首が捥げるかと思うくらいの速さで壁際に向き直った。

 なに……?なんなの、この人は……?

「は、晴見くん?どうかしたの?」

「いや、どうかしてるのは氷見谷さんだから!」

 理由もわからず『どうかしてる』だなどと言われて、ほんの少しだけムッとした。そりゃあ、圧し掛かってしまったのは悪かったと思っているけど。でも事故だったんだから仕方ないじゃない。なにもそんなに怒らなくったって。

「(重くて)ごめんなさい。悪かったわ。大丈夫?立てる?」

 室内に恐ろしい怪物でも現れたかのように壁際にうずくまる晴見くん。アンタこそどうかしたんじゃないのか、と思わずにはいられない。

 私が優しく声をかけて晴見くんの背中を軽く叩いても、彼は一切こちらを見ようとしない。

「晴見くん。そんなに痛いんだったらいっそ救急車でも呼ぼうか」

 私はそう言い、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出そうとした。そこで違和感に気付く。


 …………無い。

 これがまだスマホだけならよかった。

 信じたくないが、そういえばやけに下半身が涼しいような……


「──っっっっkゃああ《割愛》



◇◆◇



 一階のリビングに戻った私たちは、互いに黙り込んだままソファの隅と隅に座っていた。既に停電は復旧し、テレビ画面には人気のお笑い芸人の姿が映し出されている。


「……あの、氷見谷さん。なんか、ごめんね……?さっきも言ったと思うけど、俺は一切なにも見てないから。なにも起きてないし、そもそも二階にも行ってないから」

 晴見くんは『そうだよね?』とでも言わんばかりの目で、隣にいる私に視線を走らせた。

「……ええ、そうね……だけど万が一さきのアレが現実に起きたことで、その所為で私がお嫁に行けなかったとしたら……晴見くん、貰ってくれる?」

「貰うよ」

 冗談のつもりで言ったのに、その一言で一気に身体が熱くなり始める。同時にそれは、一刻も早く記憶から消し去りたい先ほどの出来事が、紛れもない現実であったことの裏付けにもなっていた。

 ついさっきまで私のことを殆ど見ようとさえしなかった癖に、どうしてか今彼は、黒い瞳で真っ直ぐに私を見ている。


 こういう時、どういう反応をしたらいいのかわからない。恋愛偏差値が近所でも有名な不良校レベルの自分を呪った。

「……ば、ばかっ!あ、そうだ!制服、そろそろ乾いてるんじゃない?ちょっと見てくる!」

 それだけ言うと、私は逃げるように彼の視界から隠れた。


 ばか。ばかばかあばかばかばかばかばかばかばばか。晴見くんのばか。

 大好き。


 晴見くんが乾燥機にかけてくれた制服は、まだほんのりと湿っていた。

 

 

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