10 : 雨の中
午前から午後にかけて、日中であるにも関わらず空は黒々とした雲に覆われていて、校舎内までもがどんよりと暗く感じられた。
それでも、この日最後の授業が始まる前までは雨は降っていなかったのに、途中から大粒の雨が降り始め、スマホを見るとロック画面に『大雨洪水警報』の文字が浮かんでいた。
一際大きな雷鳴が轟き、教室内で小さく悲鳴が上がる。
終礼が終わっても尚、教室内に残っている生徒がいつもより多く感じられたが、その多くはスマホを一生懸命操作していて、恐らくは親などに迎えを要請しているのだろうと思った。
その時、母から連絡がきた。
『雨すごいね~。仕事終わりに小学校に葵を迎えに行くから、梓も気を付けて帰ってね。』
……つまり、私にお迎えは来ないということ。
まあ、母も自転車の後ろに葵を乗せて帰るのだろうし、迎えに来られたとしてもびしょ濡れになるのは変わらないから別にいいけど。
待っていても雨はやみそうにないので、私は警報級の豪雨の中を歩いて帰ることにした。
私としたことが、こんな日に限って折り畳み傘しか持って来ていない。
校舎の前で小さく溜息を吐き、憎たらしい空を見上げた。
「雨やばいってマジで!」
「ほんとサイアクー!」
そう言いながらやけに楽しそうに、傘も差さず雨の中へ飛び込んでいく女子生徒たちの背中を見送った。
その時、視界の端に彼がいることに気が付いた私は、鞄から折り畳み傘を取り出そうとしていた手を止めた。
晴見くんがいた。
彼は紺色の雨傘を広げて歩き出そうとしていたが、私の視線に気付いたのか、ふとこちらを見た。
視線が重なる。鼓動があまりに激しくて、心臓が壊れてしまうのではないかと思った。
「あれ?氷見谷さん、もしかして……傘、忘れた?」
忘れるわけないでしょ、と言おうとして開きかけた口を止めた。実際、鞄に入れっぱなしにしていた折り畳み傘しか持っていないし……
私は頷いた。
「それじゃあこれ、よかったら使いなよ。俺の家、歩きで10分くらいだから」
晴見くんはそう言って、満面の笑みを浮かべながら雨傘を私に差し出した。そしてどうしてか私は、気付いた時にはそれを受け取ってしまっていた。
「それじゃあまた!」
躊躇う素振りは一切見せず、土砂降りの雨の中に駆け出していこうとする晴見くんを、私は慌てて引き留めた。
「ま、待って!やっぱり悪いから!傘は、その……大丈夫だから……私の家も、バス停から近いし……」
最後の方は自分でも何を言っているのかわからないくらい、ぼそぼそとした喋り方になってしまった。せっかくのチャンスなのに、彼と上手く話せない自分がもどかしくて仕方がない。
晴見くんは不思議そうな顔で私をじっと見た。なんだか変なヤツだと思われていそうな……
「え、いいよ。学校からバス停までちょっと歩くでしょ?こんな雨の中傘もささずに歩いたら風邪引いちゃうよ」
「それなら晴見くんだってそうでしょう?いくら家が近いとは言っても……これでもしあなたに風邪を引かれたら、その……私も困るし……」
「うーん……まあ、無理にとは言わないけど……あ、そうだ!それならバス停まで送ってくよ!通り道だし!」
はあ!?送る!?それってまさかとは思うけど……!
晴見くんは私の手から雨傘を受け取って広げると、私の頭上に傾けた。
「ほら、行こう!なんか雨、更に強くなってる気がするし……」
これ以上ここでやり取りを続けて、晴見くんの時間を奪ってしまうのも忍びない。
私は頷いたが、すぐ近くにある晴見くんの顔をまともに見ることができなかった。
クラスメイトや知り合いに見られたらどうしよう、と思ったが、幸いなことに周囲には同じ学年と思しき生徒の姿は見えず、私たちのことを気にする者など誰もいない。
晴見くんは私が濡れないように気遣って、片側の肩がすっかり傘の外にはみ出してしまっている。それだけでなく、歩く速度も私の速さに合わせてゆっくりと進んでくれているような気がした。本当なら、一刻も早く家に帰りたいだろうに……
学校からバス停までは歩いて5分ほど。晴見くんに迷惑をかけていると頭ではわかっていながら、バス停が近付くにつれて、思わず歩く速度を落としてしまっていた。
にも関わらず、晴見くんは嫌な顔を一切見せない。それどころか、他愛無い学校での出来事や、私たちの共通の趣味と言えるVTuverの話題を出して私を楽しませようとしてくれていることがわかった。
バス停が見えてきた。この幸せな時間がもうすぐ終わってしまうことが、ただただ寂しくて哀しかった。
「は、晴見くん」
「は、はい」
唐突に立ち止まって彼の名前を呼んだ私を、晴見くんは少し進んだ所で不思議そうな目をして振り返った。
「濡れちゃうよ、氷見谷さん」
バス停まではもうすぐそこ。晴見くんはこちらまで戻ってくると、私の頭上に傘を傾けた。
ここで聞かなきゃ、もうチャンスは巡って来ないかもしれない。晴見くんがいくら優しくても、土砂降りの中立ち話なんて始められたら苛つくに決まっている。早く聞け。言え。
「あ、あの……最近、配信、見てくれてないの?」
言ってすぐに後悔した。
配信を見るも見ないも彼の自由なのに、私本人からこんなことを言われたら重いと感じるに決まっている。
「あっ、あの!ごめんなさい、なんでもない……!」
「観てるよ」
彼は一言、そう言った。
思わず顔を上げると、以前見た優しい悪魔のような笑みを浮かべる晴見くんと視線が重なった。
「観てるよ。コメントしてないだけで」
晴見くんのことをずっと見ていたいのに、彼がなかなか目を逸らそうとしないので恥ずかしくなって、こちらから顔を背けてしまった。今、きっと私の顔は真っ赤になっているに違いない。でなきゃ、こんなにも熱いわけがない。
「な、なんでコメントくれなくなったのよ!急に!」
「え?なんでって……たまには観てるだけもいいかなって思っただけだよ?」
『なにか文句でも?』とでも言いたげな微笑が腹立たしい。けれど、その何倍も愛おしくって苦しい。この熱が晴見くんに伝わってしまいそうだ。だけど雨の所為で離れられなくて逃げ場がない。
嘘つき。ここ最近の配信では毎回コメントをくれなかった癖に、『たまには』だなんて絶対ウソ。
晴見くんが何を考えているのか全くわからない。それが少し怖くもあり、もっと彼のことを知りたいとも思う。
「は、はるみ……」
私が口を開きかけたその時だった。
側の道路を物凄いスピードでトラックが通り掛かり、跳ね返った雨水が滝のように降り注いだ。私は盥の水を被ったかのようなずぶ濡れの状態に。
あまりに一瞬の出来事で、私だけでなく恐らく晴見くんも何が起きたのかわからず、少しの間ぽかんとしていた。
「……ご、ごめん!!氷見谷さん、俺、気付かなくて……!俺が道路側に行くべきだった!!ほんっとごめん!」
晴見くんはひどく慌てた様子でそう言うと、鞄からハンカチかなにかを出そうとするが、片手が傘で塞がっている為なかなか出てこない様子。
「……だ、大丈夫よ。これくらい」
そうは言ったものの、あまりの恥ずかしさに今すぐにでも消え去りたかった。髪はびしょ濡れだし、制服も靴も鞄も雨水が浸水してしまっている。それに、濡れたブラウスが肌に貼り付いて下着が透けてしまっていた。6月のこの時期はブレザーの着用は任意だが、私は着てこなかったことを心から後悔した。
晴見くんもそのことに気が付いたのだろう、彼は「ごめん、ちょっとだけこれ持ってて」と言って私に傘を差し出すと、ブレザーを脱いで私の肩にかけてくれた。
「俺の家、ここからすぐ近くだから、よかったら寄っていってよ!このままじゃほんとに風邪引いちゃうよ」
晴見くんの、家……!?
予想だにしない事態に戸惑いつつも、もう少し彼と一緒にいられることを喜ぶ自分もいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます