8 : わからなくて、苦しい。
そのまた翌日。昼休みが始まると同時に席を立ち、教室を出て行く晴見くんを私は追いかけた。その右手には、コンビニかどこかのビニール袋が提げられている。
少し距離を空けて彼の後ろを歩く。昼休み中の廊下は騒々しく、前を歩く晴見くんが私に気付く気配はない。
彼は風紀委員の教室がある校舎までやって来ると、以前私たちが何度か話をした中庭のベンチに腰掛けた。2年生の教室がある校舎──本校舎の中庭は昨日捜したけれど、この場所は盲点だった。
本校舎の中庭は昼休みを過ごす多くの生徒で賑わっていたけれど、それに比べて此処には、私を除けば晴見くん一人しかいない。
晴見くんはビニール袋からコンビニで買ったと思しきパンを取り出すと、時折スマホを弄りながらむしゃむしゃと食べ始めた。
あわよくば晴見くんと一緒に昼食を取るつもりで、私もお弁当を持ってきたけれど、なんて言って彼の前に出て行けばいいの!?
頭の中でシュミレーションをしてみる。
『晴見くん!やっほー!こんな所でお昼食べてるんだ~!一緒していい?』
ちがう!
『あら、晴美くん。奇遇ね。こんな所で一人で昼食を取っているなんて……可哀想だから一緒してあげるわ』
もっとちがう!
ああもうわからない!!
事情を知らない人が今の私を見れば、間違いなく彼のストーカーだと思われるだろう。
そうこうしている間に昼休みは残り少なくなっていき……昼休みが残り30分といったところで、昼食を食べ終えた晴見くんは唐突に眼鏡を外してズボンのポケットに仕舞うと、ベンチに寝転がって目を閉じた。仰向けの状態で、両手はお腹の上で重ねられている。
校舎の上の階で、生徒たちのはしゃぎ声が遠く聞こえた。やがてそれさえも聞こえなくなると辺りはとても静かで、眠る晴見くんの息遣いが聞こえてきそうなほどだった。
まさか、ほんとに寝た?この短時間で?
晴見くんは仰向けの状態で微動だにしない。まあまあ大きな音で晴見くんのスマホの通知音が鳴ったが、彼が起きる気配はなかった。
私は極力音を立てずに彼の傍までやって来ると、ベンチの前に屈んでその寝顔を盗み見た。
綺麗な顔……
──って、ああ……私は一体何をしているのだろう。これでは本当にストーカーみたいではないか。晴見くんが目を開けたらどうするんだ。
そう思いながらも、その綺麗な寝顔からどうしても目が離せなかった。
快晴の空から降り注ぐ陽光を受け、白い肌は透き通って見える。黒くて長い睫毛、少し乾燥した唇。ずっと見ていられたらいいのに、と思った。
気付いた時には手を伸ばし、指先が彼の頬に触れていた。そっとなぞると彼は少しくすぐったそうにしたが、目を開ける気配はない。
はっと我に返った私は、晴見くんの頬に触れていた手を慌てて引っ込めた。
彼の傍から逃げるように駆け出し、昼休みの終わりを告げるチャイムの音を走りながら聞いた。
バカか私は。何をやってるの。何を……?
左手の指先にはまだ微かに彼の頬の感触が残っている。その熱を閉じ込めるように、右手で強く指先を握った。
教室に戻って自分の席に着くと、マイとユカがやって来て言った。
「あ、梓。どこ行ってたの?」
「ごめん、ちょっと委員会の仕事を思い出して」
「えー、昼休みまで仕事?熱心だねぇ」
「ええ、まあね……」
委員会だなんて、友だちに嘘まで吐いて私は本当に何をしているんだろう。
結局、お昼ご飯も食べられなかったし……
マイたちが自分の席へ戻った直後、頭のすぐ後ろで低い声が聞こえた。
「お昼はちゃんと食べた方がいいよ」
騒がしい教室内にも関わらず、囁くようなその声はどうしてか鮮明に聞こえ、いつまでも耳元に残り続けた。
慌てて振り返ると、彼の方も振り返ってこちらを見ていた。
小さく微笑むその顔はどこか悪戯で、急に心臓を掴まれたかのように胸が苦しく、熱くなった。胸だけじゃない。顔も、指も、全部熱い。
……え?
ちょっと待って……もしかして、晴見くん、起きてたの……?
晴見くんは平然とした様子で窓際の自分の席に着席した。
優しい悪魔のようなあの微笑は、既に影をひそめていた。
「氷見谷さん大丈夫!?顔、真っ赤になってるよ!」
隣の席の子がひどく驚いた様子で心配してくれたけど、私は曖昧に頷くことしかできなかった。
「……ええ、大丈夫。大丈夫だから……」
さっきの晴見くんの微笑は、パンケーキを頬張っていた時の笑顔とはまるで別人のようだった。
私は晴見くんがわからない。
わからなくて、苦しい。
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