第45話
それから数日、モーリスはほとんどを工場に泊まりこんで過ごし、約束した日まであともう1日というとき、
ついに…倒れた。
そのとき、ヴァンは図面を手に作業を指示していた。作業の活気の中でかき消されそうになりながら、ヴァンの耳は後ろにいたモーリスがタブレットを取り落とす音をとらえた。
ふりかえったヴァンの視界の中で、モーリスの身体がふらっと大きく揺らいだ。
「…坊ちゃん!」
ヴァンの手から図面が舞って、かけよった彼はかろうじて倒れていくモーリスの身体を抱きとめた。
「坊ちゃん!」
ヴァンの腕の中で、モーリスは目を閉じたまま応えなかった。
知らせが入ったとき、ディープはようやく短い休憩時間をとれたところだった。手にしていたコーヒーをこぼさなかったのは、自制した努力の結果だろう。
ディープが病室を訪れると、モーリスはもう意識を取り戻していて、かすかに微笑って迎えた。ここへ来る前に目を通してきたデータの意味するものが辛かった。
「…ねぇ、ディープ。僕はどのくらい悪いの?」
下手なごまかしや嘘は言いたくなかった。答えに困っているディープを見て、
「…ありがとう、ディープ。返事が顔に出てる」
モーリスは疲れたように目を閉じた。おそらく彼にはわかっていたのだ。人々の面持ちと幾つかの検査内容で、察していたのだろう。
「…モーリス。ふたりで考えよう。これからのこと。どうすればいいか」
このとき、はじめてディープは、モーリスに全てを話す決心をしたのだった。
連絡を受けて駆けつけてきたラディと、ディープとヴァンの3人は、とりあえず現実の問題に直面しなければならなかった。作業を続行するかどうか、である。答えは最初から決まっていたが、いつ再開できるのか、今の時点では誰にもわからなかった。
それでも、ヴァンはうなずいて言ったのだ。ラディやディープが口に出すのをためらっているうちに、はっきりと。
「中断しましょう。それが坊ちゃんにとって、いちばんいいことですから。そうでなければ、何のためにはじめたことなのか、わからなくなってしまいますから」
さらに、この結論をモーリスに伝える役さえも、ヴァンは自分から肩代わりしてくれた。ラディとディープは、すみませんという言葉以外は思いつくことができないかのように、ただそれだけをひたすら繰り返していた。
ラディはしばらく滞在することになり、今回、モーリスの快復は比較的順調だった。しかし、ディープの気持ちは重かった。そんなディープの様子に、ラディは気づいていたのだろうか。
「ねぇ、ディープ。モーリス、だいぶ元気になったじゃないか」
「…うん」
「もうすぐ退院できるんじゃないの?」
ディープは黙っていた。ここ数日、彼の心を占めている迷い、それをラディに言うべきかどうか…。
「ディープ?」
このとき、ディープはほんの少し疲れていたのかもしれない。ひとりで背負っているものを、重く感じるようになっていたのかもしれなかった。
「ラディ。モーリスは確かに良くなっているよ。でもそれは、小康状態になっただけで、完治するというわけじゃない」
ラディは、ディープのここ数日の沈んだ様子が気になっていた。だから、聞いてみた。
「ディープは、モーリスが治ると思っているの?」
「本当は…あまり思ってな—」
最後まで言い終わらないうちに、ふいに襟元をつかまれ、ドンと壁に押しつけられて、ディープは息がつまりそうになった。
「どういう意味だ?!」
ディープは、ラディの顔をまっすぐ見ることができなかった。ディープをつかんでいるラディの手にギュッとチカラが入り、そのあとスッと手が離れた。
「…モーリス、そんなに悪いのか」
ラディの声がかすれていた。
「…こんな言い方で許してくれる?モーリスの中に爆弾があると思って。それは、完全に取り除くことはできなくて、いつスイッチが入るかもわからない。ただ僕にできることは、少しでも遅らせること。祈ること」
壁を背にして、うつむいているディープの前で、ラディは長い間、何も言わなかった。
「…そのこと、モーリスは?」
「知ってるよ。この間、話したんだ。でも、モーリスには言わなくてもわかっているみたいだった」
「それで…?モーリスは…なんて?」
「僕に任せるから、いちばん良いと思うようにしてって。ただ、いつでもありのままを教えて欲しいって、それだけを言われたよ」
「そうか…」
そう言ったきり、言うべき言葉をラディは見つけられなかった。
ディープと別れ、エアカーを運転しながら、ラディの頭からは先程の会話が離れなかった。市街地にさしかかったとき、ふいに目の前を子犬が横切り、それを追いかけて子供が飛び出した。
気づいたときには既に遅かった。ブレーキを思いきり踏みながら、間に合わないと判断した彼は、とっさにハンドルを大きく切って、どうにか避けようとした。
一瞬の遅れが事故につながった。いつものラディだったら、避けられたはずの事故だった。フロントガラスいっぱいに、道路の隔壁が大きく迫り、彼の車は正面から突っ込んでいた。
——衝撃。
子犬を抱きしめた子供が、大きく目を見開いて、その場に立ちすくんでいた。
やがて、遠くからかすかに救急車両のサイレンの音が聞こえてきた。
ディープが病室を訪れたとき、ラディは眠っているように見えた。幸い、生命に関わるような怪我はなかったが、身体のあちこちが傷パッドで覆われていて、幾つもの打撲と裂傷があった。心配された頭部の障害は無く、わずかに額を切っただけで済んだのは、奇跡だった。しかし、これでしばらくの間、ラディは動けないことになった。
ディープが見守るうちに、ラディの顔がかすかに歪んで、
「ツ…」小さな声がもれた。
「痛むかい?」
ディープが声をかけると、ラディはゆっくり目を開いて、ディープを見た。はじめはぼんやりして、よくわからない様子だったが、やがてその姿を認めた。
「…ディープ」
「事故だって?驚いたよ。急に呼び出されたから」
「…子犬と子供。飛び出してきたから、よけようとしたんだ」
「ラディ。心配してたんだ。モーリスのこと、話したせいじゃないかって」
ラディはそれには答えず、
「ディープ。このこと、モーリスには…」
ディープは少しムッとしたようだった。
「わかってるよ。言うなって言うんだろう?まだ話してないよ。だいたい、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろう?まず自分のこと…何?」
ラディがクスッと笑ったことに、ディープは気づいた。痛みに顔をしかめながら、ラディは言った。
「やっぱり、そんなふうに怒ってる方が、君らしいよ」
「ラディ!」
ラディが動けるようになるまでには、思ったより時間が必要だった。
「言うなよ。モーリスには」
その日も、ディープにラディはそう言った。
「じゃあ、モーリスに何て説明すればいいの?ラディが急に来なくなって、しばらく来ない理由。何て言ってごまかすの?」
話しているうちに、険悪な雰囲気になってしまっていた。ディープはモーリスに聞かれそうになっていたのだ。そのときはどうにかはぐらかして、それ以上は追及されなくて済んだのだが。
「うるさいな!だったら話せばいいだろう?それで、またモーリスは具合が悪くなって…」
ふいにラディは思い出した。祈るしかないと言ったディープの言葉。今までずっと、自分の無力さを感じながら、誰にも言えず、ひとりで抱えてきたであろう胸の内を。
「ラディ?」
急に黙りこんだラディに、ディープが声をかけると、ラディはハッとして、ごまかすように強い口調で、
「もういいから、モーリスの方に行けよ」
ラディは、できることならディープの言葉を信じたくなかったのだ。
「…また、来るね」
ディープのその言い方は納得したからというより、むしろこれ以上、怪我人を刺激しないよう気づかってのことのように思えた。
それからしばらくして、眠っていたラディは、ドアが開いて、誰か入ってきた気配に目を覚ました。
「……!!」
一瞬、言葉が出なかった。傍に座っていたのがモーリスだったから。
「久しぶりだね」
モーリスはそう言って笑った。
「モーリス!どうして…?」思わず身体を起こしかけ、「アッツ…!」痛みに顔をしかめる結果となった。
「大丈夫?!」
「…大丈夫」
モーリスをこれ以上心配させたくなかった。
「ディープがね、教えてくれたんだ」モーリスは、ラディの表情をみて、急いでつけたした。「怒らないであげて。僕が無理に聞き出したんだよ。ディープは僕に嘘をつかないって約束しているから、言うしかなかったんだ。無理が重なって、もう少しで倒れそうになってたよ。僕達ふたり分の心配だもの…」
「えっ!?」
*
ディープはモーリスの病室に毎日顔を出すようにしていたが、仕事が一段落ついた自分の休憩時間に来ることが多かった。
その日の昼休憩も遅くなり、食事の時間も取れず、栄養ゼリー飲料のパウチを手にしながらデータを確認しているディープに、モーリスはとうとうハッキリと尋ねた。
「ディープ。ラディに何かあったんでしょう?」
(……!!)
ハッとして彼を見たディープに、さらに聞いた。「違う?」
ディープは一瞬、迷ったようだったが、答えてくれた。
「…違わない」
「何があったの?」
ディープは困った顔をした。小さくため息をついたあと、
「君が知ったら、また体調を崩すんじゃないかとラディは心配して、僕に口止めした。ごめん、だから言えなかった。…ラディは入院してるんだ。整形病棟にいるよ。この前、運転中に事故を起こしたから」
モーリスの目が大きく見開かれて、
「え、ええっ!?大丈夫なの?どうして?」
「飛び出してきた子犬と子供を避けようとして、壁に突っ込んでしまったらしい」
モーリスはその光景を想像したらしく、目をつぶり、肩をすくめて痛そうな顔をした。
「でも、生命に別状はないし、話もできる。しばらくは動けないと思うけど」
「そう…だったんだ」
「ごめん、黙っていて」
モーリスは首をふった。
「ううん、教えてくれてありがとう」そして思いついた「ね、僕の方からラディに会いに行ってもいい?」
「止めても行くつもりなんだろう?僕に隠れて行くくらいならいいよ」
「ありがとう!」モーリスは笑顔になった。
ディープはベッド脇の椅子に座ると、ため息まじりに、
「ああ、ラディに怒られるなぁ。でも…良かった、君に黙っているのは辛かったから」そして、モーリスのベッドの片隅に頭を落として目を閉じた。「少し休ませて。あと10分…時間が…」
言い終わらないうちに寝息が聞こえていた。
(ディープ、疲れてるよね…。あれ?)
モーリスは自分が肩に羽織っていた上着をディープにかけようとして、
(…なんだか熱っぽくない?)
ディープの身体が熱いように感じた。モーリスは端末を取ると、小声で相手に連絡をとった。
少しして、ディープの院内端末にコールがあった。
「ん…。はい」ムクっと頭を起こし、半分だけ目が開いた状態で、端末を手にしていた。
「あ…!」受け応えをしているディープの目が見開かれて、「はい、すぐ行きます」通話を終えるとディープは立ち上がった。
「何だろう?ウィン先輩に呼ばれた。モーリス、またあとで」
ディープが出ていったあと、
(ディープはきっとこれで大丈夫)モーリスは微笑んだ。(あとでラディに会いに行ってみよう。整形病棟なら、そんなに離れてないし)
*
ディープがウィン医師のオフィスに顔を出すと、
「あ、ディープ、一緒に来て」
連れて行かれたのは、外来で点滴などを行うためにベッドが並んでいる処置室だった。
「何か…急患ですか?」
「そう」
ウィンはディープに応え、それから処置室担当の看護師に言った。
「忙しいところを急に申し訳ないね」
看護師は微笑んで、
「大丈夫です。今、薬剤の準備をしますので、オーダーを入れてください。急患って、ドクターブルーだったんですね。5番ベッドが空いてますから、どうぞ」
「えっ!?僕ですか?」
ディープの目がまるくなる。
「ちょっ、ちょっと待ってください。まだ仕事が残って…」
抵抗を試みるが、ウィンがしっかりと腕をつかんでいて、有無を言わさず、ディープはベッドに連れて行かれた。
「業務命令だよ。横になって」
そう言われ、しかたなくユニフォームの上衣を脱いで横になったディープの体調を、ウィンは手早くチェックし、カルテにオーダーを入力した。
「ディープ。これはもう完全にオーバーワークだろう?熱発しているし、倒れる寸前じゃないか」
「これくらい大丈夫ですから…!」
「何を言ってる。きちんと休んで体調管理するというのも仕事のひとつだよ」
そこへ看護師が顔を出して、
「点滴の準備、出来ました」
「ああ、ありがとう」
ウィンは自分で処置をしながら、
「ドクターストップだよ。今日は点滴が終わったら、このあとはもう帰りなさい。半休扱いにしておく」そして、ディープの院内端末を手に取った。「これは預かっておくから。明日、出勤したら取りに来なさい」
コールを代わって、ディープが休めるようにと配慮してくれたのだ。
「すみません、こんな…」
ディープは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。どうしようもない現実に、気持ちの上でそろそろ限界を感じていて、わざと忙しくしていたところがあった。逃げ、かもしれない。誰にも迷惑をかけたくなかったのに、結局、迷惑をかけることになってしまった。
ウィンは首をふった。
「こういう場合は謝るより感謝した方がいいと思うよ。相手はモーリス君だね。彼が連絡してくれた」そして、あきれた様子で続けた。「全く…患者さんに気遣ってもらう主治医って、それじゃ立場が逆だろう?こんなことになっているとは私も気がつかなかった」
(何をやってるんだろう、僕は…)
こうしてふたりに心配をかけることになってしまい、ディープは自分を情けなく思う。
「もし知っていたら、私だって一緒にラディ君の心配をするよ。申し訳ないと思うなら、次からはちゃんと相談するようにしなさい。それじゃ、ゆっくり休んで」
「…はい」
ディープは自分を気にかけてくれる相手がいるということをありがたく思った。うなずいて出て行こうとするウィンをいそいで引きとめた。
「あの…」
ふりむいた彼に、
「ありがとうございます。あとをよろしくお願いします」
ウィンは微笑んで、片手を上げ、ベッドを囲むカーテンが閉められた。
ディープは小さく息を吐いて、目を閉じた。
*
モーリスの話に、ラディはしばらくの間、何も言えなかった。そんな彼に、モーリスは小さく笑って言った。
「ねえ、ラディは病院が嫌いなんでしょ?」
「病院だけじゃなくて、医者も薬も嫌いなんだよ」
いかにも嫌そうにラディは言った。
「どうして?医学で出来ることには限界があるから?」
「……!」
モーリスはそのとき静かにそう言ったのだが、ラディは言葉が継げなくなった。
「それじゃ、ラディはディープも嫌いなの?」
「それとこれとは話が違うだろう?」
モーリスはクスッと笑った。
「だって、ディープだってドクターだよ」
「そういう問題じゃない。あいつはあいつなりに、いつだって精一杯やってるよ。悩んだり、迷ったりしながらね」
「なんだ。ラディ、わかっているんじゃない」
モーリスがそう言って立ち上がったので、ラディはあわてた。
「あ…おい、こんな話ディープに言うなよ」
「どうかな?ラディ、早く良くなってね。また来るね」
「モーリス!」
このときモーリスが来たのは、ラディとディープふたりの仲が心配だったからではないかと、あとになってラディはそう思った。
ラディが退院するときも、モーリスはまだメディカルセンターを出られなかった。
「ディープ。苦しかったら、ひとりで抱えてないで、いつでも言ってくれよ。何もできないかもしれないけど、それしかできないけど、いつでも聞いてやるから」
そう言って、ラディは去って行った。
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