本編

「あーあ、もう勉強するのめんどくさーい」

 図書館の無表情なたたずまいを見あげ、リノは今日何度目かのため息をついた。

 家にいると母親が、「勉強すすんでるの」だとか、「ここ間違ってるじゃん」だのとうるさいので、ここまで逃げてきたのだ。

「はあ、……こんなのが、私の人生なんてサイアクだよ」

 とぼとぼとした足取りで、リノは図書館の自動ドアをくぐった。


 稲沢市中央図書館は、2006年6月に、「自然の光がふりそそぎ、風が抜ける」をコンセプトに建てられた図書館だ。

 稲沢市に三館ある図書館で、もっとも大きく、外観も館内もおとなで落ち着いた雰囲気。

 だが、一階の児童閲覧室は、床や壁がカラフルで楽しい雰囲気で作られていて、ソファではゆったりくつろぎながら本を読むことができる。

 まあ、勉強ぎらいで本を読むことが苦手なリノには、ふだんだったら無縁の場所だ。

 今日は仕方なく、ここまで逃げてきただけ。

 リノは一階のしらべもの室に入ると、すみっこの個人キャレルコーナーを確保した。

 一息ついたあと、だらりとテキストを開き、問題を解いていく。

 気が散ったままの頭は、とうぜん現実逃避をはじめてしまう。


 私の人生、ずっとこのままなのかな。

 このままなんか、いやだ。

 つまんない。こんなの私じゃない。

 私は何か……何かになれるはずなんだ。

 そうだ、動画チャンネルをやってみるのはどうだろう。

『富士山、登ってみた!』

『アイドルのオーディション、受けてみた!』

『ピアノをこっそり習ってみた!』……。


 どれもピンとこない、リノ。

 さらに、やるにしても、どれも親の許可なしでは簡単に動けないものばかりなことに気づくと、机に突っ伏してしまう。

 話を聞くよりも、〝そんなことよりも勉強でしょ〟と突っぱねられることは、わかりきっているのだ。

 どうしようもなく不自由で、かんじがらめだった。

 それでも、何かをしたい思いは変わらない。

 今の自分からは想像もつかないような、何かを。


 その時、真ん前の本棚で、気になるタイトルを見つけた。

 リノは立ち上がると、本棚のなかでひときわ輝く背表紙へと手を伸ばした。

「『異世界に行く方法』……?」

 うさんくさそうと思いながらも、パラパラとページをめくっていく。

 すると、大きな字でこんなことが書かれていた。

「〝失敗する可能性があります。何回もくり返しやってみることが大切です。不思議なことが、実際に起こった例はいくつも報告されています〟」

 勉強しているときに、母親がよくいうセリフだ。

「くり返しやらないと意味がないのよ」

「間違えてもいいから、空欄を埋めなさい」

 リノはつい、にくたらしい本に向かってしゃべりかけた。

「そんなにいうなら、マジで行ってやるわ。異世界っ」

 久しぶりにわくわくしていた。

 こんな気持ちは、小さいころ以来だった。

「もう前置きはいいや。異世界に行くやり方を紹介しているところまで、さっさと読み飛ばそう」

 まんなかあたりを開き、本題が書かれている部分を見つけると、リノは目を皿のようにして、読みこんだ。


【 第十五章『異世界に行くための方法』。

 まず、十階以上あるエレベーターに乗る。

 次に、エレベーターに乗ったまま、四階、二階、五階、十階へ行く。

 この時、誰かが乗ってきたら、成功しない。

 十階についたら、次は八階へ行く。

 八階に着くと、小さな子どもが乗ってくる。その子には決して話しかけてはいけない。

 次は、三階のボタンを押す、が……エレベーターは三階へ行くことはなく、そのまま、十階に行く。

 そうなったら、成功だ。

 エレベーターの扉が開くと、そこは〝あちらの世界〟となっている。

 これらは、必ずルールにそって行わなければならない。 】


「この小さな子どもって、まさか人間じゃないとか?」

 リノの背中に、ゾワリとしたものが走る。

 しかし、あちらの世界も気になる。

 テーマパークみたいに、素敵なところだったらぜひとも行ってみたい。

「勉強の息抜きで、ちょっと行って帰ってくるだけだよ。やってみる価値はあるよね」

 自分にいい聞かせるように「よし」と声に出すと、すぐさま地図アプリを開き、近場の十階以上ありそうなビルを探した。

 目当てはあった。

 こっそりと家に帰り、自転車に飛び乗ると、目的地へと向かった。

 JR稲沢駅を出たらすぐに目に飛びこんでくる、飛び抜けて高いビル。

 三菱電機ビルソリューションズの異様に高い、エレベーターの試験塔だ。

 2007年当時は、世界で最も高いエレベーター試験塔といわれていたそれは、「稲沢市」にちなんで、語呂合わせの173.0m。

 約四十階建てのビルに相当する高さの試験塔は、田んぼの多い稲沢市では、かなり目立ち、まるで灯台のように市内を見下ろしている。

 体力のないリノは、十分ほどでつくはずの試験塔まで、およそ二十分かけてたどり着いた。

 四十階といわれているエレベーターの試験塔はリノの首が折れ曲がりそうなほどに高かった。

「これは……マジで異世界まで行けそう」

 しかし、そこでリノの足は止まってしまった。

 会社の前まで来て、ようやく気づいたのだ。

 むしろ、なぜ今まで気づかなかったのか。

 おとなだらけの会社に、子どもが入れてもらえるわけがないのだ。

 リノは、がっかりした。

 せっかく、ここまで来たのに。

 うなだれたまま、自転車を方向転換方向していると、会社の門の前で、母親くらいの年齢の女性がリノに向かって手を振ってきた。

「あなた、どうしたの?」

 駆け足でリノのもとへと走ってきた女性は、にっこりと微笑んだ。

「あ、いえ……」

「もしかして、ソラエを見に来たの?」

「そらえ……?」

「あなた、運がいいわよ! 今からね、建築士会のイベント講習で、エレベーター試験棟ソラエの視察をするの。よかったら、あなたもどう? 将来の役に立つこと間違いなしね」

 ラッキー、ついてる! リノは、飛び上がって喜んだ。

 この女性は、まさかリノが異世界に行くために、ここに来たとは夢にも思っていないだろう。

 それでも、いい。エレベーターに、乗れるんなら、なんでも。

 リノはすっかり目の前のことに夢中になってしまい、大切なことを忘れてしまっていた。


「ソラエはね、『空へ向かってそびえる姿と限りない品質追求』への思いをこめて名づけられたんですって。あ、あと気をつけてね。ここは……」

 試験塔ソラエをモチーフにした『SOLAE』の大きなロゴを横ぎり、女性が親切に解説してくれるのをなんとなく聞き流しながら、いよいよ巨大な塔に入場したときだった。

 リノは、ついに思い出した。

 異世界へ行く方法に、『誰かが乗ってきたら、成功しない』と書かれていたことを。

 こんなに見学客がいるところじゃ、ぜったいに異世界に行けないんじゃ?

 リノはもごもごと「す、すみません……帰ります……」と、引き返そうとした。

 景色がぐるんと、ひっくり返る。

 気づくと、リノは見知らぬエレベーターのなかにいた。

 リノは目を白黒させながら、「あれ?」とあわてて開閉ボタンを押す。

 そしてすぐに、ここが「異世界へのエレベーターのなか」なんだと察した。

 リノは、いったん落ち着き、深呼吸する。

「よ、よし……やってやるっ」

 目をぎゅっとつむり、ゆっくりと手順を思い出す。

 初めの目的階は順番に、『四階、二階、五階、十階』だった。

 重要なのは、この間、誰かが乗ってきたら、失敗してしまうこと。

 まず、四階のボタンを押した。

 次に、二階、五階、十階。

「よし。誰も乗ってこなかった……」

 ホッと胸をなでおろし、続けて、八階のボタンを押す。

 ——八階に着くと、小さな子どもが乗ってくる。その子には決して話しかけてはいけない。

 心臓が、バクバクと鳴りはじめた。

 本当に、子どもが乗ってきたらどうしよう。

 いや、話しかけなければいいだけ。

 それさえ我慢すれば、あちらの世界へ行ける。

 守るべきことを守っていれば、簡単に成功するはず。

 ——ポーン。

 エレベーターが止まった。スッと、扉が開く。

 目に、鮮やかな青が飛びこんできた。

 ランドセルだ。

 同い年くらいの、ランドセルを背負った男の子が立っている。

 肩までのばしたぼさぼさの長い髪、青白い肌。

 顔はうつむき、ぎゅっとランドセルのベルトをにぎっている。

 男の子は、ゆらゆらとエレベーターに乗ってきた。ぶきみだ。

 重苦しく、扉が閉まる。

 息がしづらい。

 緊張でどうにかなりそうだった。

 もう、やめて……帰りたい。

「ねえ」

「ひっ」

 急に男の子が話しかけてきて、リノはつい声を上げてしまった。

 いや、〝話しかけちゃいけない〟だもん。

 こっちから話しかけたわけじゃないから、いいよね。

「きみ、〝異世界へのエレベーター〟に乗りたかったんでしょ」

 リノは、ゾッとした。

 なぜ、それを知っているの?

「わかるよ。このへんで、高いエレベーターはここくらいのものだし」

「あ、ああ。そういうこと。でも、もうあきらめて、帰ろうかなって思ってたんだ」

「なぜ?」

 不思議そうにいう男の子に、リノは困ったように答えた。

「だって……異世界なんて、行けないに決まってるもん」

「異世界はここよりも、いいところだよ」

「そ、そんなのわかんないじゃん」

「僕も一緒に行ってあげるから」

「えっ……」

「それなら怖くないでしょ?」

「う、うん」

「じゃ、最後の三階のボタン、押すから」

 リノがうなずくと、男の子はカチッと三階へのボタンを押した。

 エレベーターが、ぐんぐんと十階へと上がっていく。

 あの、手順通りに。

「……異世界に着いたら、何する?」

 何だか、のん気な質問につい和やかな気分になってしまうリノ。

「そうだなあ。異世界の食べ物を食べてみたいかも」

「食べ物か」

 とたん男の子の表情が、スッと消える。

 ——ポーン。

 エレベーターが、十階に着いた。ゆっくりと、扉が開いていく。

 そこは、真っ暗だった。

 会社のオフィスような風景でも、異世界のような摩訶不思議な光景でもない。

 奥深くまで続く、大きな闇だった。

「何、ここ」

「きみが望んだ世界」

「私が?」

「異世界だよ」

「こんなの、私が望んだ世界じゃないよっ」

 リノの叫びが、闇に消えていく。

「さて、僕はこれで帰るよ。ごゆっくり」

「わ、私も帰る!」

「せっかく来たのに?」

 男の子はクスリと笑うと、ランドセルの中から、白い包み紙を取り出した。

「まあ、落ち着いて。おやつでもどう?」

 男の子はリノの手のひらに、それを乗せる。

 開くと、中には赤い木の実が入っていた。

 姫リンゴをさらに小さくしたような、可愛い実だった。

「これ、食べていいの」

「もちろん。食べたかったんでしょ。異世界の食べ物」

「えっ。これ、異世界の食べ物なの」

 男の子がうなずく。

 木の実に伸びかけていた指をぴたり、と止めた。

 本当に——食べていいのだろうか、これ。

 確かにさっきまで、異世界の食べ物を食べてみたいと思っていた。

 でも、なぜだか違和感がある。

 これを食べては行けないような気がする。

「ごめん。食べない」

「そう?」

 男の子が木の実をズボンのポケットにしまった。

「よかったね」

「え?」

「異世界へ行く方法には『ルールにそって行わなければ』ならないんだよ。エレベーターに乗る前に、いわれたでしょ? あの女性に」

 ここに入る前に、いわれたこと?

 リノは内心で、首を傾げた。

「……『気をつけてね。ここは、飲食禁止だから』って。ルールに従っていなかったら、きみ、異世界から帰れなくなってたよ」


 気づくと、リノはソラエの展望台にいた。

 稲沢の景色が、よく見える。

 さっきの女性が、にこやかにこちらに手を振ってくれている。

 ああ、帰ったら、勉強をしなくちゃ。

 甘い果実の香りが漂っているのを感じながら、リノははっきりとそう思った。



 おわり

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エレベーター 中靍 水雲 @iwashiwaiwai

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