ダンジョン・オブ・ザ・デッド

白ノ光

ダンジョン・オブ・ザ・デッド

 最果ての地と呼ばれる場所があった。

 そこは、世界の東端であり北端。不毛の大地である。ここより先は絶海であり、誰もその先を知らない。

 最果ての地には森が広がっていた。木々の枯れた腕がどこか不吉に、来るものをこまねく。

 死んだ森の中に、突出して盛り上がる土がある。一見丘のようだが、緻密な彫り込みのされた金属製の大扉が、隙間から地下への階段を覗かせていた。

 男がひとり、よろめきながら、その大きな階段を下る。天井に張り付いた蝙蝠だけが彼を見つめた。

 男の銀髪は力なく垂れ下がり、肌は陶磁器のように真っ白で、病的にも思える。黒を基調としたタキシードを身に纏うが、各所が擦り切れ、大きく開いた切り口には血も染み込んでいた。身体を包み込むマントはどこか、畳まれた動物の羽のようだ。

 階段の先、長く長く伸びる通路を歩く。壁も天井も、ひたすらに白い。通路の脇には柱が等間隔に並び、代り映えのしない景色は、同じ場所を堂々巡りしている気分にさせる。何かの血の混じった足跡だけが、大理石の床に付いた。

 「誰か、いないのか。誰か──」

 最後の息を吐き出した男はそのまま、瞼を閉じて倒れ込む。

 生命の気配はない。ただ、床の冷たさだけが世界の無情だ。

 しかし、動くものがある。呼吸の音もしなければ、心臓の鼓動も聞こえない怪物。白い岩石から成る巨人は、その太い指で、男の細い身体に触れた。


 深い闇。海のように広がる、汚泥の中に男は眠る。

 汚泥は血だった。血が、身体を沈めるほどの重さと粘度を持ち、男を底へ引きずり込もうとする。暗がりでは、この海がどれほど深いのかも分からない。

 「────!」

 瞼を開けた男は、驚きながら身体を起こすと、海の奥から浮かび上がるものがあった。それは、骸だ。

 人ではない。緑や青の肌をした亜人か、獣、または異形──総じて魔物と呼ばれるものの骸が、男に、血を流し続ける顔を向けながら浮かんでくるのだ。

 「……ジャック。アーサー。キンシー。お前たちか、私を呼んでいるのは」

 男には、いずれの浮かぶ骸にも、覚えがある。己を慕い、同じ道を征き、しかし斃れていった者たち。彼らは筋張った細い腕を、男に伸ばす。

 「もう、私の番だと言うのだな。そうか。そうだろうな。私は多くを失い過ぎた──」

 己の死期を悟り、男は、骸の腕と海の波に身体を任せる。海がどこまで深いのか、確かめてもいいだろう。自分にできることは、もう全て終えたのだから。

 男は誤解していた。腕は、男を海に引きずり込もうというのではない。男を、海から出そうと押し上げる。

 「お前たち──私に、まだ戦えと? 使命を果たせ? 安らかに眠らせてもくれないのだな。ふ、ははははは……」

 男は笑う。乾いた笑いだけが海に沈んでいく。

 「──ねえ」

 どこからか、声が聞こえた。若い女の声だ。

 「ねえ、動かないね」

 男は天を見上げる。真っ暗で何も見えない。

 「死んでるのかな。死んでるね。うーん」

 「誰だ、お前は──」

 問いかけも、向こうには届いていないようだ。声の主は男の反応など知ったことではない。

 「あ、そうだ。これ植えてみましょうよ、スミス。生き返るんじゃないですか? もしかしたら」

 「おい! なんだ“もしかしたら”って!」

 「ん、なかなかくっ付かない……。もうちょっと強くやった方がいいかな。えいえい」

 「何してる? なあ、何してる? なにをもうちょっと強くやるんだ!?」

 「あ、やべっ」

 「おい──!」

 男の身体が、海から引き剥がされて遠く、高く昇っていく。闇の中に眼下の海は消え、頭から眩い光に包まれる。

 今度こそ現実に、瞼が開けられた。

 そこは水のせせらぎが聞こえる、湿った穴倉の隅。細長い通路を、荒れた岩壁に掛けられた燭台の、青白い炎が照らす。

 「────」

 男は仰向けに寝かされていたようで、声にならぬ声を上げながら上体を起こすと、何かに頭をぶつける。

 「ふぎゃ!」

 鈍い音こそしたものの、金髪の少女は、顎を一度撫でたきり痛みを気にしていないようだ。

 少女の肌はやけに白く、また随分と汚れた服を着ており、所々から麻がほつれている。首元に巻かれた包帯、鮮やかな黄色の兜と、黒い長靴が特徴的だった。

 「よかったぁ! 生き返りましたか! あなたもアンデッドですよね? ゾンビですか?」

 「誰がゾンビだ。アンデッドだが、死体と間違えられるのはいい気分ではないな」

 「す、すみませぇん! キノコが根を張ったので、てっきり……」

 「キノコ?」

 男は、額に違和感を覚えた。

 何か、余計なものがぶら下がっている。視界には映らないものの、頭を動かす度にそれが連動して揺れ、どうにも気になる。

 手で頭を触り、頭頂部から生えているそれを千切れば、それはキノコであった。細長い笠を持ち、紫色に白い斑点を持つ。そして、石突からは寸断された細い根が伸びている。

 「なんだこれは──!」

 「ああーっ! 捨てないでー!」

 床に叩きつけられたキノコは床から壁へと跳ね返り、少女がそれを手の中へ受け止める。

 「これ、死体を苗床にして繁殖するキノコなんです。苗床はキノコから養分を送られて、ゾンビみたいに動き始めると、キノコを遠くの繁殖地まで運ぶんですよ。面白いですよね」

 「だからなんだ! 勝手に他人の頭にキノコを生やすな!」

 「えへへへへ。本当はもっと植えるつもりだったんですけど、逃げ出しちゃって……」

 「逃げ出す? 何が? キノコが?」

 少女が掴むキノコの根は、ひとりでに動いているように見えた。

 それ以上、男がそのキノコに言及することはない。気色の悪さから、深掘りを避ける。

 「でもほら、元気になったでしょ? キノコの養分を利用して、回復できるんですよ。死体にしか根付かないから、使えるのは元から死んでるゾンビかそこらだけなんですけど」

 「む……」

 男は軽く首を回し、握り拳を作ると握力を確かめる。僅かだが、動けるほどには力を取り戻したらしい。

 「すまない、動揺していたようだ。君が私を助けてくれたのか。名前は?」

 「アリスです。屍公に使役されたゾンビとして、このダンジョンの建設を一任されたダンジョンマスターです」

 「魔王軍の拠点が、こんなところに残されていたとはな。僥倖だ」

 壁に手を付きながら立ち上がると、男は名乗る。

 「私はルシファー。魔王様直属の配下が四天王、鮮血のルシファーだ。人間の手勢に追われ、力の大半を失ってしまったが。屍公は私の部下にあたる」

 「ひえええ、四天王様!」

 アリスは兜を取って胸元に抱え、何度も深々とお辞儀した。

 「すみません、すみません! 知らなかったとはいえ、四天王様をゾンビ扱いしてしまいましたぁ~! 死にたくないです、殺さないでください~!」

 「死にたくないもなにもゾンビだろ君。殺したりなどするものか。この際、キノコを生やした無礼も許そう。ダンジョンにおいてはダンジョンマスターの権限が最も強く、私は救われた側なのだから」

 「そうですかぁ? じゃあ、ルシファーって呼んでもいいですね?」

 「様を付けろよゾンビ娘」

 「お許しをルシファー様ぁ!」

 ぽとり。

 最後に勢いよく下げた頭が、そのまま首から外れ、地面に向かって落ちる。

 「あっ」

 「おい!」

 刹那、少女の顔面が地表の鋭利な岩にぶつかる前に、ルシファーの手がそれを受け止めた。

 「ありがとうございます~。とうとう終わったかと思いました」

 「既に手遅れだと思うが、これで平気なのか?」

 「自分で設置したギロチントラップに自分でかかってしまいまして、首がもげやすくなっちゃったんですよ。でも、頭が無事なら動けるみたいです。お手数ですが、私に首を返していただけますか」

 生首は笑い、残された胴体がその両手を虚空に伸ばしている。視点が頭にある都合、自分がどこにいるのか、よく分かっていないのだろう。

 「やれやれ。私の前で兜を脱ぐ必要はない、安全対策に務めろ」

 ルシファーが少女の頭を回し、視界に彼女の胴体を映すことで、アリスは自分で自分の頭を掴めた。そのまま頭をあるべき場所に戻すと、前後逆のそれを両手で回し、向きを修正する。

 切断面は綺麗に揃い、片手で頭を抑えながら、包帯を巻きなおして首を固定。それだけでまた元通りになるのは、ゾンビという死体ならではの芸当だ。

 「ではルシファー様、私が客間へご案内致します。ごゆっくりお休みください」

 「客間だと? ここはダンジョンだろう、城ではあるまい」

 「いえいえ、おもてなしの用意は常にしてるんですよ。ささ、どうぞこちらへ……」

 自分の首が取れたことなど、もはや気にすることでもないようだ。

 アリスは兜を被り直すと、壁に立てかけられたツルハシを拾い上げ、ルシファーを先導する。ツルハシもまた年季の入ったもので、刃先は丸くなり、錆も浮いている骨董品だ。

 少女の言葉に従い歩き出すと、ルシファーは何かに躓いた。

 「おっと──」

 その汚れ具合から、岩か何かかと考えるも、しかしそれは細長く、通路を横断している。そして、見たことのあるキノコが生えていた。

 「あ、ごめんなさい! こちらは私の同僚、建設作業員のスミスです。ほら、挨拶!」

 ゾンビは頭にキノコを生やしたまま起き上がると、のっそりとした緩慢な動きで、ルシファーに礼をする。アリスと比べ、外見も怪我や変色で醜く、一言も喋ることはない。

 「このゾンビは、ここで何をしてるんだ?」

 「休憩ですよ」

 「休憩? ゾンビが、か。食事以外にも休憩が必要とは知らなかった」

 「食事もいいですけど、ほら、ここには人間がいませんから。気になったことはありませんか? 人間のおおよそ寄り付かない廃墟に出てくるゾンビは、どうやって自分の肉体を保っているのか」

 「……確かに、食事なしに生きることはできない。アンデッドであろうと、食事から得られる魔力がなければ、力を弱めていく一方だ。ゾンビの食料は人肉が中心だったな。だとすれば、人のいない場所で寝ているのは、道理に合わん」

 「実は私たち、人肉を食べる必要はないんですよ。いえ、効率的な魔力の吸収と、嗜好品としては人肉が欲しいんですけどね。要は魔力が回収できれば身体を動かせるので……」

 アリスは、例のキノコを自分の頭に押し当てた。兜に阻まれ、キノコは根付くことができない。

 「このように、ジメジメした場所で、キノコから養分という形の魔力を受け取ります。苔とかを生やすのも同様の理由で、ゾンビって環境に優しいんです」

 「ゾンビから自然環境の話をされるとも思わなかったな」

 ゾンビ──死体に魂を詰め直した、外法の産物。彼女らはその起源を人間としながらも、人間の側からは魔物と呼ばれ討伐される対象にある。

 ゾンビの大半は言葉を介さぬ怪物であるが、それは、設計の段階で魂から自我が取り除かれるからだ。単なる手駒に、余計な機能は不要である。しかし、何らかの目的があって自我を必要とするのなら、例外的に自我を残したまま設計される。アリスもまた、ダンジョンマスターとするべく手がかけられた個体だったのだろう。

 細長い通路を出ると、そこは少し開けた庭だった。足元には水路が張り巡らされ、極彩色の植物がうねる。植物のいくつかは、嗅覚を麻痺させるような強烈な臭いを醸し、またいくつかは、獣の牙のように鋭利な棘と酸を貯めた胃袋を持っていた。

 空はない。地中に造られた庭園の、天井のクリスタルが青い炎の明かりを反射させ、階層全体の光源となっている。

 「こちらは地下三階、中庭となっております。お客様に楽しんでいただけるよう、多種多様な植物をご用意しました。外敵が侵入した際にも、食人植物が壁となって侵攻を阻みます」

 地下でありながら、空気が澄んでいて流れもいい。花草の種類はどれもルシファーの好みでなかったが、景色の美しさは認めるところにあった。

 「この庭も、全て君たちが管理しているのか。さぞ大変だろう」

 「はい。うっかりすると私が食べられそうで、剪定も一筋縄ではいきません。ですが、植物はダンジョンの肝ですから必要な仕事です」

 「そうなのか?」

 「地下の水脈から、このダンジョンへ水路を引いています。すると、昆虫系の魔物がよく繁殖します。彼らはダンジョンの戦力となりますが、増えすぎても水を汚染します。昆虫を捕食する鳥類は、流石に地下だと飼いにくいので、他に彼らの数を抑制する天敵を用意します。それが、このような肉食性の植物です」

 白い花が咲いている。花弁が縦長で、甘い香りを漂わせている。

 アリスが、その細い指先で花弁をつつくと、花弁は瞬きの間に閉じた。

 「植物が水も空気も綺麗にしてくれるので、他の魔物も住みやすい環境になりますし、魔力の循環もよくなります。そして、その植物の数を管理するのが、私というわけですよ」

 「ほう。しかし、薔薇が見当たらないな。私は薔薇が一番好きな花なのだが」

 「ありませんね。他の植物に喰われて絶滅しました」

 「……そうか」

 「でも、見てくださいよこのお花! 五年かけてようやく交配に成功したんです! ほら、足が速いでしょ? こだわりの逸品ですよ」

 「花に対して足が速いという感想を抱いたことはない! どうして植物に足を生やそうとするんだ……うわ、速いな」

 蓮の花に見えた物体は、根っこを昆虫の足のように動かし、水上を滑っていった。

 「客間は地下四階です。階段までまだ歩きますよ」

 石畳の床は、人がふたり並ぶのがやっとの幅であり、柵もないので足を踏み外せば水路に落ちてしまう。水面に咲く、牙を持つ花は美しくも恐ろしい。大型の植物によって視界は悪く、行き先がよく見えないため、道がいつまでも続くように感じられる。

 道中、ルシファーは思い付いた質問を口にした。

 「このダンジョンの名は? いつから建造している」

 「名前はまだありません、完成したら付けられる予定です。建造自体は、十一年前から」

 「十一年か、なるほど広いわけだ。どれほど大勢がここで働いてるんだ?」

 「私含め、三人ですね」

 「それはそれは……三人? この広さを?」

 あまりに予想とかけ離れた数字を口にされ、ルシファーは自分の聞き間違いかと誤解した。

 「ダンジョン建設に関わる人員は私、さっきのスミスさん、あとブラムさんっていうゾンビがもうひとりで全員です。スミスさんとブラムさんは細かい作業が苦手なので、力仕事であるダンジョンの掘削を任せています。庭の剪定やインテリアの配置、その他諸々全てが私の仕事ですね」

 「ち、地下三階だと言ったな、ここは。何階まである。どこも同じような広さの造りなのか?」

 「設計書に沿って、現在、地下十階を掘削中です。広さはどこもあんまり変わらないかな」

 「おかしい。たった三人でそこまでできるはずがない」

 「最初は百人の部下がいたんですよぉ。でも、地盤沈下だのガス爆発だの、花に喰われただの落とし穴に嵌まっただの、色んな事故で数が減っていってこの有様です。とほほ、寂しいなあ」

 アリスの首に巻かれた包帯も、事故のひとつだ。彼女がまだ動いているのは、運がいいからに他ならない。ダンジョン建設というかくも過酷な労働とその犠牲に、ルシファーは想いを馳せる。

 二人が庭園を闊歩していると、庭の角から大きな影が伸びていた。

 白い岩石でその巨体が構成されている、無機物の生命体。ゴーレムが、ひっそりと二人の様子を窺っている。

 「あのゴーレムは?」

 「門番のシロです。普段は地下一階を警護してるんですけど、珍しくお客様がいらっしゃるので、下りてきたみたいですね」

 アリスはゴーレムに走り寄ると、ゴーレムの、地面まで垂れる長い腕を撫でた。

 「シロというのは名前か。随分と親しいようだが」

 「私の友達──いいえ、家族なんです。このダンジョンを造ったときから一緒ですからね、喜びも悲しみもたくさん分かち合いました。シロがルシファー様を見つけて運んできてくれたんです。不法侵入者と判断しただけですけど」

 「……そうなのか、それは感謝しなくては。よくやった。今、私は言葉でしか礼を返せないが、いつか必ずお前の働きに報いよう」

 ゴーレムはルシファーに顔を向け、僅かに目線を落とした。頭を下げたつもりなのかもしれない。

 「私にもお礼を言ってくださいよ! 死にかけのルシファー様を起こしてあげたのは私ですよ!」

 「ああはいはい、よくやったよくやった」

 「どうにも感謝が薄いような……」

 「勝手に他人の身体に菌糸類を植え付けるなよ」

 ゆっくりと動き出したゴーレムは、持ち場に戻っていく。

 巨躯が道からはみ出て、両腕が花に当たってはそれを吹き飛ばす。植物は抵抗か、ツタを伸ばして岩肌に絡ませるも、虚しく引き千切られては一秒も動きを止められない。

 後の始末のことを考え、アリスの目が遠い場所を見つめた。

 「ええと、客間まで案内するんでしたね。階段はこちらです──」

 振り向けば、ルシファーが倒れている。

 やはり死んだように、息ひとつせず瞼を閉じていた。

 「ルシファー様!?」

 アリスが駆け寄り男の身体を起こすと、死体はゆっくりと濁った瞳を見せる。

 「無様だな。四天王などと名乗っておきながら、今の私は、ゾンビ以下の魔力しか持ち合わせていない」

 「みたいですね! このままだとお花に食べられちゃいますから、無理矢理でも持って行きますよっと!」

 ルシファーが自力で立ち上がろうとするも、よろめいてしまうので、アリスは自分の肩を貸した。左手はルシファーの左脇を、右手はルシファーの右腕をそれぞれ掴み、半ば引きずる形で目的地まで急ぐ。

 少女の形をしているが、ゾンビであるアリスは、人間以上の膂力を発揮できる。そのような理由を抜きにしても、ルシファーをひとりで担ぐのは簡単だった。男の身体は、やけに軽い。

 「どうしてこんなに弱ってるんですか? マジで私でも倒せそうですよ」

 「私には、心臓がない」

 「心臓が?」

 「十年前の戦いで奪われた。心臓がなければ、私は力の半分はおろか、八割も出せん。どこかに人間の心臓はないだろうか」

 「うーん、余ってませんねー。もっかいキノコ生やしときます?」

 「遠慮しておく」

 階段の前まで辿り着いたとき、ルシファーは壁に身体を預け、アリスから離れた。

 青い炎が彩る壁には、縦横無尽にツタが伸びる。下階へ続く階段は横に広い口をしていて、扉などはなく、庭の外周と直結していた。

 照明に魔力を用いると、どうしても青くなる。魔力の性質であった。赤い炎と比べ、魔力さえ通っていれば燃え続け、手入れが楽だ。空気が汚れることもない。

 ランプのかかった扉がひとつ。壁に這うツタが扉の部分だけ避けているのは、誰かが手入れしているからだろうか。

 「少々お待ちください!」

 アリスがひとりだけ扉の向こうに消え、数分の後に帰ってきたとき、黄色い兜も長靴も身に着けていなかった。それらはホワイトブリムとパンプスに置き換わり、ツルハシはどこかへ置いてきたようだ。

 白いエプロンの映えるロングスカート姿は、まさしくメイド。土の中を掘り進む建設作業員は姿をくらまし、ルシファーの目の前には、血色の悪いメイドが立っている。

 「お待たせしました! 汚い恰好では中に入れませんからね」

 「メイドだったのか、君」

 「時には岩をも砕く穴掘りゾンビ、時には食人植物を切り払う庭師ゾンビ、時には客人をもてなすメイドゾンビ、それがこの私です! どうですか? 似合ってませんか?」

 「……さっきの服装よりは、ずっとマシだな。ただ、ドレスの端──虫に喰われてるぞ」

 「げっ! ちょー久しぶりに引っ張りだしたから、生地が痛んでるぅ!」

 アリスが服をはたくと、軽く埃が舞った。それだけの間、このダンジョンに客人は来ていない。

 咳払いの後、何事もなかったかのように扉が開けられる。

 「こちらは地下四階、大広間となっております。お客様が寛げるよう、寝室や食堂、書斎や浴場を完備しました」

 ルシファーが踏み込んだのは、赤い絨毯の広がる居住空間。大きなシャンデリアは広間を青で満たし、テーブルやイスなどの家具は職人が手掛けたものと思われる高級品で、まるで貴族の屋敷に迷い込んだかのような錯覚をする。人間の背丈ほどある大きな振り子時計は立派で、隣にある同じぐらいの大きさの何かは、薄いレース生地で覆われていた。

 正面と左右には通路が伸びる。また、四階はその中で上下の二層になっているようだ。広間の両脇から続く階段は、肖像画の飾られる壁を挟んで上層へ。手すりごしに、扉が並んでいる様子が見て取れた。

 ルシファーの瞳はつい、肖像画の中──椅子に座る淑やかそうな女性──に吸い込まれる。柔和な顔をしているが、頭には二対の角が生えており、金糸の刺繍があしらわれた荘厳なドレスをその身に召す。

 「魔王様──」

 その場に跪き、偶像に顔を伏せるルシファーの様子を、アリスは驚きながら見つめていた。まるで神に祈る人間のように敬虔だったからだ。

 魔王は、四天王直属の上司であり、魔王軍配下ならば敬われて当然の存在である。しかしアリスは、肖像画を仰ぎ見ても跪いたことまではない。そこにあるのは魔王でなく、ただその姿を写し取っただけの絵だ。

 「ルシファー様は、魔王様のお姿を直接拝見したことがありますか」

 「勿論だ」

 「私はありません。このダンジョンは魔王様の別荘として建造されていますが、未だ、魔王様がこちらに足を運んでくださったことはないのです。もう建造から十年目となり、主要な階層は完成を迎えているというのに……」

 「──それは」

 「屍公から下知を受けることも、随分ありません。私から人員の手配を願う手紙をしたためても、一向に返事がなく。ルシファー様なら、何か御存知ではないのでしょうか」

 「────」

 ルシファーは押し黙った。

 自分と相手の間にある違和感の正体。それを悟りなお、口にすることができない。四天王として、鮮血の異名を持つほどに人間を引き裂いてきた彼でさえ、躊躇してしまうほどの残酷な真実なのだ。不幸は知らなければ、不幸にならない。

 「すみません、ルシファー様はお疲れでしたね。お食事にされますか。それとも、ベッドで休まれますか」

 「ベッドは要らん。棺はあるか」

 「すみません、ないと思います。今から掘りましょうか、土!」

 「掘らんでいい。じゃあ椅子だ。食堂でいいから案内しろ」

 食堂は下層、正面廊下の突き当り、両面開きの扉の先にあった。

 長く大きいテーブルがひとつ、いくつもの椅子に囲まれている。一番奥、扉から最も遠い椅子の背が、際立って長い。

 「ささ、どうぞ」

 アリスはその席を勧めるが、

 「ここは魔王様の別荘として建造されたと、そう言ったな。庭園に客間、ダンジョンらしからぬ設備はそのためか」

 「はい。魔王様の長期滞在を想定し、魔王城の備品などを搬入して生活環境を整えています。これらの家具も、魔王様が生活に不便を覚えることのないよう、お城と同じもののはずです」

 「ああそうだ、合っている。だから私は、この席に座れない。これは魔王様の席だ」

 ルシファーは、魔王の席から左隣の椅子に着席する。

 青く灯った燭台の火を見つめ、ふと、城の大食堂のことを思い出した。往時のことである。十年前、魔王城にて暮らしていたルシファーは同じような席に座り、仲間たちと杯を交わしていた。空席にそれぞれ、敬愛する魔王と、同僚の四天王たちが浮かび上がって見える。多くの種族が集まる国であったが、魔王という絶対的な力が頂点に立っていることで、種族間の争いはほとんど存在しない。生まれた時代も環境も、姿かたちすらも異なる者同士が、これまた全く文化の異なる食事を、同じ場所で摂る。奇妙でありながら、輝かしい日々だった。

 誰かの足音を耳が拾えば、微睡の喧騒は泡のように消え、初めから空っぽの椅子と、燭台を除き何一つ乗っていないテーブルだけが、ただ在る。

 「お水です。汲みたてですから、冷たいですよ」

 透明なグラスに、やや濁った水が注がれている。テーブルに乗せられたそれを持ち上げ、一度だけ口を付けると、ルシファーはグラスを置いた。

 グラスの中身は、ほとんど減っていない。

 「美味しい?」

 アリスは銀盆を胸元に抱えながら、無邪気な笑みを浮かべ返答を待つ。まるで、飼い主に褒められるのを待つ犬のように。

 ルシファーはつられて微笑み、しかし首を横に振った。

 「気遣いだけ受け取っておく。私はヴァンパイアという種でね、血かワインしか口に入れられないんだ。もっとも、心臓がなければ、血を啜ろうが力に変えられないのだが」

 「そうなんですか。初めて聞いた名前ですけど、ヴァンパイアって偏食なんですね」

 「魔王様の慈悲により、その御力の一端を授かった私は、この世界でただひとりの不死者となった。同類のいない、私だけの特別な力。新たな種となれたことのどれほど誇らしいことか」

 「ほうほう。魔王様のお話、もっと聞きたいです」

 「あれほど優しい御方を私は知らない。何しろ、人間に迫害される魔物を守るため立ち上がったのだ。魔王様が望まれるのはただ平穏、種族間の争いがない世界。魔物が笑って迎えられる明日。その理想を実現するため、私は四天王のひとりとして魔王様を補佐し続けた。……ああ、勇者が現れるそのときまで」

 「魔王様って素敵な御方なんですね。私も会ってみたいなぁ。庭園とかこことか、特に力を入れて作ったところですからね。褒められちゃったりして……へへ」

 「褒めてもらいたいのか」

 「それはもちろん! 長年手をかけてきましたから、認めて欲しいです」

 青い火に視線を向けたルシファーは、再び逡巡する。

 やはり、真実を伝えるべきだ。この地底で、いつまでも淡い希望を抱き続けること。それこそ一番の悲劇になってしまう。

 「アリス」

 「はい?」

 ルシファーは軽く腰を浮かせ、わざわざ椅子をアリスに向け座り直す。

 どこか緊張感のある雰囲気に、少女は首を傾げて返事をした。

 「十一年前からダンジョンを建設しているらしいが、今日まで、外に出たことはあるか?」

 「ありませんけど。使いの者を出したことはありますが、そういえば帰って来ませんね。もう三年ぐらい経ちますがまだかな……」

 「そうか、だろうな。事情を知っているのなら、あんなこと言うものか」

 「なんですか、どういう話ですか?」

 「魔王様が、ここを訪れることはない」

 「──え?」

 「人間の軍勢が魔王城を襲撃し、双方ともに大勢の犠牲者が出た。屍公も、四天王の半分も、魔王城で死んだ。そして──魔王様は勇者に討たれ、この世を去られた。もう十年前の話だ」

 アリスは昏い瞳をぱちくりとさせる。ルシファーの言葉の意味が理解できていないようだ。

 「私は、魔王様の代わりに残された軍を指揮するという大役を引き受け、仲間と共に十年間戦ってきた。しかし、同胞が次々と斃れる中ついに、この果ての大地にあった最後の拠点も陥落した。私が傷だらけで斃れていたのは、人間に追われたからだと言ったな。地上には既に、魔物の居場所はない」

 「そんな、それでは──」

 わななく少女の指が銀盆を手放し、大きな音が食堂に反響する。

 少女の声は、その身体と同じく、震えていた。

 「このダンジョン建設は、無意味だったと? 磨いた床も、整えた庭も、私の十一年間も、死んでいった九十八人も、全て全て無意味だったんですか?」

 これまでの苦労は何だったのだろう。この首はどうして離れたのだろう。積み上げてきた石の塔、その土台が綻んでいく。

 「君の、ダンジョンに対する情熱は理解できた。だから躊躇ってしまったんだ。私も言いたくはないさ、君の努力を見せる相手が、もういないなんてことを」

 「ああ──」

 アリスは膝から崩れ落ちた。ぷつんと糸が切れた人形のように、彼女を地に立たせていたものが失われ、自分の意思で手足を動かせなくなる。

 全く力の入っていない彼女を受け止めたのは、椅子に座ったままのルシファーだ。

 ルシファーは無言で、胸元に抱いたアリスの頭を撫でてやる。血の巡らぬ二人に、体温はない。ただ冷たさを分かち合う。

 それ以外、何もできない。してやれない。アリスがどれだけの想いでこの仕事に携わり、仲間が減っていく中でもツルハシを振り続けたのか、ルシファーにその全てを理解することは難しい。彼女の気持ちをさも分かったかのように頷いて声をかけたところで、何の慰めにもなるまいと考えていた。

 「うあああ、うう、うあああぁっ……! ああああああっ……!」

 アリスは喚き、誰に憚ることもない大きな声を上げる。痛みを感じることすらなくなった肉体であるからこそ、心の傷は、より一層深くまで届く。

 地の底で夢見た希望が砕け散るとき、アリスの中の、死体を突き動かしていた魂の熱も失せた。

 「ああ──泣いて涙が出るのならば、どれだけ楽だったことか」

 ひとしきり叫んだあと、アリスは小さく呟いた。残された僅かな力で、テーブルの端に手をかけ、自分の身体を起こす。

 「私の仕事も終わりですね。これ以上、ダンジョンを拡張する必要はありません。計画書の内容を完遂できなかったことは残念ですが、魔王様がいらっしゃらないのならそれも、どうでもいいことでしょう」

 アリスの顔からは、完全に活気というものが消えている。つい先ほどまでの彼女には、死体でありながら生身の人間と錯覚するような、華やかな笑顔が咲いていた。それが今や枯れ、白を過ぎて土気色となった、能面の死体がそこにあった。

 目の焦点は合わず、この場から離れようとする動きもどこかぎこちない。そして、床に落ちていた銀盆を踏んで足を滑らせ、転倒したきり彼女は動かなくなった。胴体を残したまま、頭だけが床を転がっていく。

 「おい、アリス──」

 ルシファーは立ち上がり、メイドを呼びつけるが、返答はない。

 死体は喋らない。それが本来あるべき世界の常識だ。

 ルシファーの中には、また頭を取り付けてやるべきなのか、このまま眠らせてやるべきなのか、ふたつの気持ちがあった。結局、ルシファーも動けない。

 そのとき──

 カーン、カーン、カーンと、大きな鐘の音が部屋中に響いた。この食堂だけではない。ダンジョン中に響き渡る鐘の音である。どこから鳴っているのかは判然としないものの、それは不吉に六度同じ音色を奏で、止まった。

 「はっ!」

 少女は息を吹き返し目を見開くと、首無しの死体が床に寝たままで手足をばたつかせ始める。

 「首! 首ぃ~! 首を寄越せぇ~!」

 「うわ! お、落ちつけ! 私がやるからじっとしていろ、椅子が倒れる! ああもう!」

 猟奇的な発言をする生首を掴み、ルシファーはアリスの頭を定位置に戻した。すると死体は両の足で立ち、全身に活力を漲らせる。

 「ありがとうございます! 侵入者がいると鐘が告げています。様子を見に行きましょう!」

 「侵入者だと? 様子を見に行くとは、まさか一階まで上がるということか?」

 「いいえ、もっと楽な方法があります。ルシファー様もどうぞ、私についてきてください」

 早足で進むアリスの後を追いかける。食堂を出て、再び広間へ。

 振り子時計の隣の物体、覆われたベールを取り払うと、それは姿見だ。鏡面は覗き込む二人のうち、メイドの姿だけを映し出す。

 「あれ、ルシファー様? 鏡に映ってませんよ」

 「気にするな、そういうものだ。それよりどうするつもりだ」

 「お手をどうぞ、ルシファー様。これはただの鏡ではありません」

 アリスのルシファーの白い手が重なり、共に鏡の中へ。鏡面が二人を吸い込むと、広間には誰もいなくなった。

 「おっと……」

 そこは大きな部屋だった。広間とは異なり、家具や装飾の類はない。それどころか、他の部屋や廊下へ通じる扉すら見当たらない。代わりに、とてつもなく巨大な宝珠が、部屋の中央に据え付けられている。

 ルシファーが振り向くと、広間にあったものと同じ姿見が立っている。波紋に揺れる鏡面は落ち着いていく。

 「鏡を利用した転移装置か。そしてこれは──」

 宝珠は赤い。中心ほどその色は濃くなり、見つめる者を魅了する、蠱惑的な美しさがある。

 宝珠の前に立つアリスと比較すると、宝珠の全長は、彼女の身長の優に五倍以上はありそうだ。

 「ダンジョンコアです。ダンジョン全体に魔力を供給して、領域の管理を行う、まさに心臓ですね! それはともかく……」

 宝珠を囲むように、いくつかの石板が並んでいる。アリスはそのうちのひとつを触ると、石板に青い光が奔り、上方の石板が見たことのある景色を映し出す。

 白い殺風景な大通路。ルシファーが斃れた地下一階。そこを、天井から見下ろしたようなアングルで捉えている。

 「遠方の風景を映せるとは便利なものだ。ダンジョンコアにこのような機能があるとはな」

 「だだっ広いダンジョンの中を歩かなくても、ここで各所の異変を確認できるんですよ。さて、侵入者の姿も見えそうです」

 動くもののない景色は、時間が止まっているかのようだった。だが、魔物が画面の端から走ってきたことで、正常に機能していることが確認できる。

 魔物は小さな背丈のゴブリンだ。三匹が武器も持たずに走り、少し遅れて、一匹が彼らを追いかける。

 「なんだ、魔物ですね。丁重に迎え入れてあげましょうか」

 「待て──」

 ゴブリンの様子がおかしいことに、ルシファーは一目で気付く。彼らは一様に怯えている。何かから、逃げ出してきている。

 次の瞬間、最後尾のゴブリンの背が燃え上がった。火球の魔法を浴びせられたのだ。音まではルシファーの下に届かないが、痛みに叫び、空気を求めて燃え上がるゴブリンの凄惨な表情は、音がなくとも感情を伝える。

 ゴブリンの死体を踏みつけ現れたのは、四人の人間だ。革の鎧を着た軽装の女、鉄の鎧と兜を着た重装の男、白いローブを纏う女と、黒いローブを纏う男。いずれも、魔物を殺すための武器を携えている。人間たちは、残りのゴブリン三匹を追いかけてダンジョンを進んでいく。

 「え、人間!? どどど、どーしましょ!」

 アリスは慌てふためきながら、手元の石板を操作して石板の画面を切り替え、人間たちの足取りを追う。

 人間と三匹のゴブリンの間に割って入ったのは、白いゴーレムだ。ゴーレムは、急に動き出した岩の魔物に腰を抜かしたゴブリンたちを見つめると、人間に向き直り、その巨躯を武器とし暴れ出す。

 「シロ!」

 ゴーレムの大きさが故に画面が遮られ、どのような戦いが繰り広げられているのかまでは見えない。しかし、揺れる画面が、戦いの激しさを物語る。

 「ああ──そんな」

 揺れの収まったとき、ゴーレムを構成する岩石が崩れ落ちる。戦いの終わりに、人間たちは魔法で自らの怪我を癒すと、先へ進んだ。

 アリスは茫然とした顔で、ただ、土くれが転がる画面を見つめることしかできない。

 「人間と魔物の争いは、十年前に決着してなお終わらない。統率を失い、戦う力さえなくした弱者を相手に、人間は躊躇いなく剣を振るい続ける。顔を上げろ、アリス。まだ生きているゴブリンを守れ。君はダンジョンマスターだろう。客人をもてなしてやれ」

 ルシファーがアリスの背中を叩くと、アリスは大きく頷いた。

 「シロが時間を稼いでくれました。ゴブリンは今、地下二階を通行しています。地下三階のスミスに連絡して、彼らを安全な場所へ案内させましょう。偵察蝙蝠の視界とこの石板を同期させて、侵入者の位置を常に補足できるようにしました」

 「地下二階には何があるんだ?」

 「トラップゾーンです。ただ──」

 石板に地下二階の様相が映し出される。壁が迷路のように入り組み、ギロチンや落とし穴といった罠が敵を待ち構えている。

 しかし奇妙なことに、道の分岐路には矢印が大きく描かれた看板が立ち、頑丈そうな扉は全て解放されていた。

 「道案内の矢印を置いたままで、ショートカット用通路も開けっ放しなんですぅ……!」

 「何故そんなことになっている」

 「だってぇ、人が来るなんて想定してませんでしたし、迷路の構造がよく覚えられないんですもんー!」

 「君たちが造ったんだろ! ええい、これでは人間が素通りしてしまうぞ。……いや、扉が開いていなければゴブリンたちも道に迷ってしまうのか。不幸中の幸いではあるな。他に打つ手は? 出せる戦力は何がある。誰が一番強い?」

 「後は昆虫系の魔物と食肉植物、建設員の私たちゾンビ三人ぐらいしかいません。シロが……一番強かったです」

 ルシファーは首を横に振りながら頭を抱える。とても侵入者を撃退できるほどの駒ではない。彼らは手練れだ。多くの魔物を殺してきたのだろう、動きが洗練されている。ゴーレムで相手をするならば、彼らと同数は必要だ。

 画面を見れば、地下二階を通り抜けた人間たちが、ゴブリンを背中から切りつけている。地下三階へ到達する前に二匹が死んで、残った一番小さなゴブリンが一匹、庭園の植物に紛れ逃げた。囮にでもなるつもりか。スミスと思しきゾンビが、ツルハシを手に人間の前に立ちはだかるも、水路に突き落とされて画面から消える。

 「すまない、私のせいだ」

 「え?」

 「あの人間たちは討伐隊の一員で、魔王領の深部であるこの最果ての地まで踏み込まれたのは、ひとえに私の率いた軍が負けたからだ。ならば、私が連れてきたも同然。責任は取るさ」

 ルシファーはアリスに背を向け、鏡の中に踏み込もうとしたとき、マントを掴まれた。

 「だ、駄目です! そんなお身体で戦うおつもりですか!?」

 「戦うさ。どんな状態であろうと、私は戦わなければならない。血が枯れていようと、心臓が欠けていようと、魂がまだ燃えている」

 「どうしてそこまで……魔王様はもう、いないのに」

 「そうだ、いない。私は力及ばず、魔王様をお守りすることができなかった。四天王としてなんたる失態だ! ……だが。たとえ生き恥を晒そうと、私にはまだ使命がある。死んでいった者たちから、託された願いと希望がある。人間の手勢に立ち向かい、彼らゴブリンのような弱き魔物を、一人でも多く救う。それが生き残った者の使命であり、魔王軍として当然の行いである。──君のゴーレムが、命を懸けてそうしたように」

 「────!」

 「君こそ、どうして戦う。ここで抗おうとする。君の仕事は終わっているはずだ。諦められないんだろう。君も、まだ。違うか」

 アリスの顔はくしゃくしゃで、今にも泣きそうだ。

 これほど優しい口調で諭されたことはない。残酷な現実の前で斃れることなく、大義を胸に立ち続ける彼の在り様はまるで、深い闇に差す光。

 この光に触れたい。照らされたい。少女の中からごく自然に、そういう感情が湧き出る。

 「私の使命は、失われました。もう存在する意義すら分かりません。でも、それでも、願いたいものがあります! 人間をこのダンジョンに入れたくない! 魔王様のために誂えたこの箱庭を、好き勝手されたくない! 家族の仇が、取りたい……! 願いの為なら私も、自分の命を差し出しましょう!」

 アリスは、白いエプロンの肩ひもを外し上半身の覆いを取ると、次は黒いワンピースの胸元を開け、白い肌を露にする。

 「──偉大なる魔王様が配下、四天王であらせられる鮮血のルシファー様に申し上げます。人間の心臓なら、こちらに。生憎と新鮮なものではありませんが、腐ってはいないはずです」

 「アリス……」

 ルシファーは、これまでに多くの想いを背負ってきている。今まで共に戦い、斃れた仲間から、遺言という形で渡されるのだ。魔物の将来をお前に託す、と。

 背負うものが、また増えた。

 「ありがとう。君の願い、私がしかと叶えてやる」

 細い指先の尖った爪が、少女の胸の中心に突き刺さる。血も流れぬその切り口から、赤く黒い臓物を引き出した。死体から伸びる血管は千切られ、小さな心臓は男の手の中に納まる。

 ルシファーが着ていたタキシードを乱雑に引き裂くと、晒された男の胸にはぽっかりと穴が開いていた。こぶし大のものが嵌まりそうな窪みに、代わりの心臓が押し込まれ、窪みは少し隙間を持ちながらも埋まる。驚くべきことに、心臓は男の身体と癒着し、一体化を始めた。

 赤い霧が、ルシファーから立ち込める。

 霧は破れたタキシードを新しい装いに再生させ、赤い裏地の、黒いマントを形成した。

 「──鏖殺だ。久方ぶりの食事を始めよう」

 ルシファーは、悪魔のように口角を釣り上げて笑い、鏡の縁に手をかける。

 動かぬ少女の死体のみが、その場に残された。


 地下三階、広間に到達した人間たちは、自分の服に付いた植物のツタをはたいて落とす。

 ツタの表面には産毛が生えており、布であろうが金属であろうが張り付いて、本体から切り離してもなかなか外せるものではない。

 「ったく、しつこい花だったね。変なダンジョンだとは感じてるけどさ、あんな花見たことないよ。レンフィールドは何か知ってる?」

 「生憎、食肉植物の専門家ではないのでな。後で焼き払っておいた方がいいとは断言できる。しかし、そろそろ終点が近いのではないか? 見ろ、人間が生活できそうな場所だ。知性ある魔物がいる証拠だろう。ということは、ここがダンジョンマスターの待ち構える最奥であるという可能性が高い」

 黒いフードの老人は、軽装の女にそう告げると、杖を突きながら周囲を見回す。敵がいないか確認していた。

 「おいおい、マジかよ! この天井のシャンデリア、金じゃねーか!? どうにかして外してみようぜ! なあルーシー、手伝ってくれよ」

 「わ、本当だ……綺麗」

 鎧の男は、金に目が眩んでいる。白いフードの少女は、金の価値よりも、ただ美しさに感嘆する。

 「敗走した魔物どもの後始末なんて面倒くさい仕事だったけど、結果としてこんな、手つかずのダンジョンを見つけられた。今日のあたしらは運がいい。おい! 宝探しはダンジョンマスターをぶっ殺した後だよジョナサン! しっかし──」

 軽装の女が、背中から短弓を取り出して矢をつがえる。狙いの先は、壁に大きく飾られた肖像画。

 「この女は気に入らないね。偉そうに見下ろしてんじゃないっての」

 引き絞られた弦が放たれることはなかった。突如として聞こえた羽音に、女が振り返ったからだ。

 出入口の傍、振り子時計の隣にあった姿見から無数の蝙蝠が飛び出し、それは一直線、女の周りに集ってかん高い鳴き声を上げる。

 「ミナ!」

 老人が叫ぶも、もう遅い。蝙蝠がルシファーの上半身をかたどり、ミナと呼ばれた女の背後に現れた。男の尖った犬歯が女の首に突き立てられると、ものの数秒で女の全身は力を失い、干からびた死体と化す。一滴の血も残さず吸い尽くされたため、捨てられた女の死体から血が零れ、絨毯を汚すことはなかった。

 蝙蝠は全て、ルシファーの身体を構成して消えた。朱い瞳は血よりも鮮やかに、白い牙は剣よりも残忍に輝く。

 「歳を取って穢れた、不味い血だ。こんなものを口にするのは泥水を啜るも同然の屈辱だが、今は我慢しよう」

 ルシファーの中で、仮初めの心臓が、血を得てどくんと脈打った。正しくポンプとして機能を始めたそれは、ヴァンパイアの、失われた力を呼び覚ます。

 「テメェ、何しやがる──!」

 鎧の男が金属の擦れる音を立てながら、手に持ったメイスを魔物に振りかざした。しかし、ルシファーの身体は赤い霧となって散り、どれほど武器を振り回そうと当たらない。

 銀か、祝福を受けた武器でない限り、ルシファーに対する攻撃は無意味となる。魔法であれば傷を負わせられるかもしれないが、攻撃魔法の詠唱に入った瞬間殺されるだろうということを、老人は死地を潜り抜けた勘と経験で悟った。

 「畏れ多くも魔王様の離宮に足を踏み入れた狼藉者どもよ。我らが同胞をその手にかけ、家族を奪い、あまつさえ我らが忠心の拠り所である御真影すら冒涜せんとする、度し難き愚か者どもよ。魔王様の御前で、卑しい屍を晒すことを許す」

 淡々とした口調の中には、隠し切れぬ強い怒りが感じ取れる。人間たちの背筋が凍ったように冷たくなったのは気のせいではない。空気の温度が下がっている。

 焦りを覚えた鎧の男は、自身の恐怖を打ち砕かんと吼えるも、それは虚勢。恐怖や怒りの混ざった感情に、正常な判断は失われた。

 「ミナの仇だ、テメェが死ねや!」

 「やめんかジョナサン! 退け!」

 部屋が揺れるほどの衝撃と共に、冷静さを欠いた鎧の男は姿を消す。あまりの速さに、ルシファーが男の首を持ち上げて天井に叩きつけた瞬間を、目で追って理解した者はいなかった。

 天井に張り付いた肉塊が血を流し、雨のようにルシファーを濡らしたことで、ようやく残った老人と少女が悲鳴を上げる。鉄の鎧兜は粘度細工のようにひしゃげ、肉塊からはメイスを握り込んだままの手が突き出て、隣のシャンデリアに伸びていた。

 「ひっ──!」

 血の雨の中、天を見上げ嗤う男の姿は、悪魔そのもの。鮮血の名のゆえんたる狂気だ。

 神に仕えてきた少女はただ、自分の両手を合わせて祈るしかない。信じられない出来事を前にした人間は、祈ることで救われると思いたがる。

 現実主義の老人は杖を床に立て、必死に魔法の詠唱を始めた。ダンジョンから脱出する、帰還の魔法。それが儚い希望に縋る行為であることを理解しながら。

 「“死罰の血槍”」

 ルシファーがただ言葉を発するだけで、二人はたちどころに体内の血液を操作され、自らの血で形成された槍に内側から貫かれる。

 全身から十本以上の槍が生えているが、これらは内臓を深く傷つけると共に、血液を外部へ出す──つまり失血させることによってショック死も誘発する。一度発動したが最後、決して逃れられぬ死の定めだ。

 死に至った人間からは、血の槍が抜けるように融けて落ちる。広間は天井にも床にも血だまりが広がった惨たらしい有様であったが、血は自然とルシファーの足元に集まり、吸われていく。血の雨を浴びていたはずのルシファーにはもう、服も含め汚れひとつなかった。

 「流石ですルシファー様ぁ! 私、ばっちり見ていましたよ! 愚かな人間どもが無様に死んでいくところ!」

 姿見から、胸に穴を開けたメイドが顔を出す。顔面は蒼白であるが満面の笑みだ。

 「動けるのか、君──」

 「くっくっく、心臓なぞなくとも、私には第二の動力があります。彼らにも分けてあげましょうか」

 アリスは抱えたキノコの山から、ひとつずつ選んで死体に植え付ける。干からびた死体も、穴だらけの死体もひとりでに動き出し、自らの足で広間から去っていく。アリス自身の頭には既に、奇抜な色のキノコが揺れていた。

 天井の奇怪なオブジェに食欲をそそられながらも、アリスは、部屋の隅に、まだ生きている小さな影を見つける。

 物陰にうずくまっていたのは、ゴブリンだ。人間に追われ、このダンジョンに逃げ込んできた一匹だろう。家族を失った、怯える瞳でゾンビを見つめ返す。

 「怖がらないで。私たちはあなたを襲いません。魔物のお客様は大歓迎ですよ」

 差し出された白い手に、ゴブリンは自分の手を重ねる。そして、手を引かれるままに痩せた身体を物陰から出した。どれほどの間、満足な食事を摂れていないのだろうか。服はぼろきれ同然で、手足の泥は家具や床を汚す。だがその場にいる誰も、それを怒らない。

 小鬼と称される魔物の、さらに小さな子供は、大きな瞳から涙を零しながらアリスに抱き着く。かん高い声で何かを訴えた。

 「ルシファー様。この子たちの群れの他に、ゴブリンのちょー大規模な軍勢が今、この最果てに来てるんですって! しかも、絶賛路頭を彷徨い中だとか!」

 「地上はまさにこの世の地獄だ。月の墜ちた宵より、人間は統率を失った魔物を追い立て、棲み処から財まで全てを奪い殺し尽くす。陽の光を遠ざけ、魔物が安心して暮らすことのできる、新しい場所が必要なのだ」

 ゴブリンの頭を撫でてやるアリスに、ルシファーは声をかける。ゴブリンは少し怯え、アリスのエプロンを強く掴んだ。

 「……私、決めました。魔王様にここを訪れてもらうという目標は永遠に失われましたが、代わりに、ここを魔物の安息地とします。魔王様が望んだ、魔物の平穏という夢を。このダンジョンで、私は守りたい」

 少女の顔には、外見に似合わぬ強い覚悟と、生き生きとした活力を感じられた。何度絶命しようとも、ゾンビは、死なない。起き上がることは得意だった。

 ルシファーは満足気に笑みを浮かべると、両手を大きく広げ、宣言する。

 「このダンジョンは、まだ無名であったな。では、私が名付けよう。今この時より此処は、最果ての地に在る希望──ラストエデン!」

 「ラストエデン──」

 アリスは手を打った。幾多の願いを、想いを束ねた終着点として、これ以上ない名前に思える。

 「アリスよ。私はこのラストエデンを足掛かりに、いずれ魔王城を奪還するつもりだ。そのためにはまず、地上に残された同胞を救い、この地に集めるぞ。集まった魔物たちはラストエデンの力となるだろう。付いてこい! 君の手足がまだ動き、明日を願う希望があるのなら──!」

 「はいっ!」

 血色こそ悪いが、大きく咲いた満開の笑顔だった。深い地の底にいた少女は永い時を経てようやく、闇の中に光を見出した。

 「では、ゴブリンの群れを助けて働かせてやるとしますか! よーし、人間をぶっ殺しながら、皆が暮らせるダンジョンを造るぞ~!」

 決意を新たに、死者たちは動き出す。かつて魔物の王が目指し、終ぞ叶わなかった夢を求めて。

 この世に残った最後の楽園。種は蒔かれ、水が流れ始めた。そこに果実が実るのは、もう少し先のことになるだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダンジョン・オブ・ザ・デッド 白ノ光 @ShironoHikari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ