皇子劉協
「なんということだ……」
長安の街並みは初めてここに連れられてきたころと様変わりしていた。
西方の守りの要として整備されていた街並みに、異国の商隊などが訪れ、洛陽とは違った賑わいを見せていたのである。
しかし、劉備に敗れた董卓が長安に撤退を決意して、洛陽を焼き払った。もともと董卓は西涼付近に跋扈する騎馬民族との戦いで功績を挙げ、勢力を伸ばした経緯があり、長安に本拠を構えたのは合理的な事情でもあっただろう。
そして董卓の戦死により事情が大きく変わった。董卓の主たる一族も戦死しており、反目していた部下たちは董卓と言う重しがなくなったことでそれぞれが自儘にふるまい始めたのである。
同時に董卓の専横に不満を持っていた洛陽から連れられてきていた士大夫層の重臣たちが董卓の部下を廃しようと兵を集めたが、軍事に不慣れなものが多くあっさりと露見する。
長安の市街で戦闘が起こり、異国の文化を取り入れつつある美しい町並みは炎に包まれた。
混乱のさなか、兄である弁皇子は何者かに連れ出され行方が知れない。そして、自身も形式上の敬意こそ払われているが、いつ暗殺などされるかと思うと夜も眠れぬ日が続くのであった。
「殿下」
深夜、寝所に一人の男が現れた。車騎将軍の董承である。
「む、叔父上か、いかがしたか?」
「燕王が童関を確保したそうです」
「なんと! 間もなく助けが来るということか!」
「はっ、劉玄徳殿であれば間違いなく。されど……」
「む、そういうことか」
聡い劉協は自らが質にされる可能性に思い至った。
「長安の兵は童関に向け出撃しております。逆に言えば……」
「童関に逃げ込めれば勝ち、と言うことだな」
「はい。いまかの地には玄徳が腹心、張益徳が配されております。また鍾繇がその補佐として任用されているということ」
「なるほど。であれば……」
「はい、鍾繇より使者が参っております。長安の民には申し訳ないこととなりますが、場内で混乱を起こしますので、その機に乗じて脱出されますよう」
「よくわかったぞ。玉璽は我が懐中にある。李確めが狙っているのも、我が行かされておるのもこれが目的であろうからのう」
伝国の玉璽は古くは始皇帝が作らせたものと言われる。高祖はこれをもって中華全土の支配権を宣言した。王莽の乱のときには一時それを奪われ、光武帝が奪還したといういきさつがある。
「それをもって皇帝に御成りなされ」
「……我にその資格があるか? 董卓をはじめとする逆臣どもに良いように扱われ、軍も領土もない有様だぞ」
「それでも、です。漢の直系は弁皇子と貴方様しかおられません」
「血筋をもって正統と成すならば、玄徳叔父にもその資格は在ろう。さらに言えば劉表や劉焉にもだがな」
「それで群臣や民草は納得いたしますまい」
「そうかの?」
「はい、そういうものです」
「まあ、よい。そのような迂遠な話はあとからでもできよう。今は此処を脱出することが先決であるな」
「おっしゃる通りにございます。臣めは準備がありますのでこれにて」
「うむ、よろしく頼むぞ」
「ははっ」
董承が退出すると劉協は深いため息をついた。董承は玄徳と縁が薄い。仮に玄徳が皇帝となれば、自らの権勢が脅かされるということなのであろう。
「皆口先では立派なことを申す。しかし内情はこれでは……驍や舜の時代は良かったと儒者どもは口々に言う。しかし、人がそうそう変わるものではない。結局この世に理想郷などは無い、と言うことになぜ気づかぬ。欺瞞の中で生きることをなぜ苦痛に思わぬ」
劉協の嘆きは誰もいない、灯りすらない寝室の闇に溶けて消えて行った。
数日後、長安の城壁に近い市街で火事が起きた。城壁付近の騒ぎで、これは内応の恐れがあると誰かが言い出し、それを受けて宮殿内の兵士も派遣され消火活動と巡察に加わることになった。
劉協は兵の衣服を身に着け、その中に紛れ込んだのである。
「城中で騒ぎを起こす胡乱なる輩が出れば敵に付けこまれよう。続け!」
董承の周囲には、楊奉や張楊といった将が付き従い、城外に潜んでいる軍と合流する手はずになっていた。また、童関からひそかに軍が進発し、劉協らを迎え入れる予定である。
劉協自身は騎兵の身なりで、董承の真横に付き従っていた。
「殿下、胸を張り、前だけを見るのです。あまり周囲を気にしすぎると怪しまれます故」
「うむ、わかっておる」
周囲は董承の親衛でまとまっているとはいえ、一介の騎兵に将軍が話しかけるのも不審と言えば不審である。城内の街路を東門に向かって進むのを長安の住民はまた戦いかと脅えが混じった目で見ていた。
「すまぬ、我に力がないばかりに……」
「董承である。城外に胡乱な輩が集まっているとの報告を受けた。偵察に向かうので通されたい」
「ははっ!」
城門を閉めてはいないが、城内の騒ぎで警戒は厳しい。だが董承自身は長安内部でも上位の地位を占めているので、門番風情ではそれをとどめることはできない。
長安を出て東へ進む。幾度となく出会う巡回する兵をやり過ごし、部下の兵との合流地点で休息をとりつつ進む。
そして長安では劉協がいないことが発覚し、李確と郭巳が慌てて追手を出していた。
騎馬に不慣れな劉協をおもんばかって軍の足取りは鈍い。それでも間もなく童関が見えるという地点まで来てついに追いつかれた。
「いかん! 追手が現れたぞ!」
背後を警戒していた張楊が陣を組み、迎撃の用意を整える。さすがは元董卓の部下とあって、騎兵の運用は巧みであった。
「殿下、ただお一人でも駆け抜け、関に入りなされ!」
「なっ、それで叔父上はいかがする?」
「臣は殿下の盾となり、命に替えても敵をここより先に通さぬ所存」
「ならぬ! 叔父上を見捨てて何が皇族か!」
「そのお心をずっと忘れぬよう、お頼み申し上げますぞ」
その一言を最後に董承も剣を抜き放ち、激しい戦闘を繰り広げる張楊の部隊に参陣しようと駆け出す。
「叔父上!!」
劉協の悲痛な叫びは戦場の叫喚にかき消され、ただ空しく響いた。
一人騎馬を走らせ童関に向かうと、いつの間にか取り囲まれている。
「劉協殿下に相違ありませぬか?」
兵を率いていた武人が声をかけてきた。
「我は劉協である」
「されば迎えに参りました。俺……っとわたくしは劉玄徳が義弟、張飛と申します」
「おお、そなたが叔父上の」
「ご安心召されよ」
張飛はそのまま軍を進め、戦いの様子を見ると大声で部下に命じた。
「あれが董卓の残党どもか、皆の者、討ち取れ!」
「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」」
そこからは一方的な蹂躙であった。鍛え抜かれた張飛配下の兵は鎧袖一触に敵軍を蹴散らしたのである。
「されば、むさくるしいところにございますが、童関にて一息つかれますよう」
ぎこちない礼を取りつつも、無理やりに顔をゆがめて笑みを作ろうとする張飛の姿になぜかこの上ない安堵を感じ、劉協は気を失った。
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