虚誘炎殺の計
「子遠!」
「孟徳殿、待って居りましたぞ」
許攸の守る長社の陣は門を開け放って曹操の軍勢を迎えた。これにより前線の袁紹軍の補給線がほぼ途絶えることになる。
「孟徳殿、これよりいかになさるおつもりで?」
「うむ、まずは派手に我らの戦果を喧伝しようぞ」
「そのようなことをしては袁紹が全軍を率いてこちらに向かいますぞ!」
「で、あるな。奴らが事態を知るのに数日、どちらにせよ兵糧が届かない様になれば気づく。それにだ」
「……それに?」
「官渡の砦はそろそろ限界だ」
「なっ!」
「故にこちらに攻勢を引き付けることが必要だ。いつでも本拠を突けるという絶好の位置に我らは居る。それだけで袁紹のやつは震え上がるであろうよ」
曹操の指示のもと、陣の防備が強化された。劉備が旗揚げ当時から率いてきた兵に限らず、もともとが農民で、税の一環として徴兵されてきた者が多い。彼らは土木作業に慣れており、短時間で陣の強化ができた。
「さて、子廉。お前は主力を率いて陣外に伏せよ」
「はっ」
「陣から火の手が上がったら一気に敵の後方を突け」
「承知した」
「許攸は我と共にこの陣にとどまる」
この時曹操は壕を掘るのと同時に脱出用の地下道を作らせていた。ただそのことは許攸には伝えていない。
「なっ!?」
案の定、許攸は命を懸けてこの陣を守る気などない。そもそも袁紹を裏切った時点で敗北すれば死を免れないことに今更思い至ったようだ。
「さあ子遠、この陣を強化する案を聞こうじゃないか。どこに兵を配れば効率よく守りを固められるかな?」
「そそそっそうですな」
だらだらと脂汗を垂らしつつ返答する姿に、「こやつは変わっておらんな」と曹操は独りごちる。
結局強い者に付き、そのおこぼれをもらう体質だ。故に腰が据わっていない。今こいつの頭にあるのはどうやってこの場を逃れるかということだけだろう。
ただ、逃げ道は無く、ここで迎え撃つほかは無いと覚悟を決めたのか、許攸自身の献策は相応に理にかなったものであった。
「こいつ、性根を入れ替えればそれなりに才はあるのにのう」
曹操のつぶやきは行きかう兵の喧騒にかき消され、許攸の耳に届くことは無かった。
数日後、凄まじい勢いで袁紹の本隊が現れる。背後から追撃してくる兵はいない当たり、官渡の将兵は限界を迎えていたのだろう。
「おお、おお、凄まじい殺気だのう」
「然り、袁紹の怒りが乗り移ったようにございますな」
許攸の顔色は優れないが、曹操の付けた兵がそれとなく見張っていることに気づいたからであろうか。この場を切り抜ける最善の方策は、袁紹を撃退するしかないと思い定めた結果、覚悟だけは決まっているようである。
「許褚、先陣を任す。典韋、介添えせよ」
「おー、やってくるだー」
「はっ!」
二人は勇んで配下の兵を率いて陣の前に立つ。
「中康、殿の名を汚さぬようしっかりと働くのだぞ」
「しっかりってー?」
「敵に後れを取るなと言うことだ」
「んー、あいつらぶっとばせばいいんだろ?」
「あー、そうだ。殿に逆らうばか者どもに思い知らせてやれ」
「おー、わかったぞー。いくぞみんなー」
許褚の間延びした声に緊張感を削がれた兵たちが笑いを漏らす。敵の大軍に少し飲まれていた軍勢の緊張がやや緩んだ。
「いーくーぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
間延びした声が徐々に強まり、最後は虎の咆哮のごとき雄たけびへと変わった。その声に兵たちは表情をあらため、同じく鬨を上げる。
「ほう、こいつはすごい。将としても器量があるのかもしれんな」
「つづけ!」
短く発された命令は兵たちに行き渡り、一人残らず鬨を上げる。許褚が走り出すと兵たちは間をおかず突撃に移行した。
袁紹の軍からも迎撃の兵が出るが、許褚に当たるやたちまち多くの兵を討たれて崩れる。
「ぬううう、俺が相手だ!」
「ふん、ごたくはいいからかかってこい」
普段の間延びした口調ではなく鋭く言い返す許褚。挑みかかるは袁紹軍の将である呂廣であった。
「どおおおおおりゃあああああああああ!」
ガキンと鈍い音を立てて二人の武器がぶつかり合う音が響く。
「ぐうううううう!?」
あまりの力で叩きつけられた刀に受け止めた手がしびれる。
「呂廣、助太刀するぞ!」
「兄者!」
兄である呂翔も許褚に武器を向けるが二人相手でも全く臆することなく立ち向かう姿に味方の兵の士気が大いに上がる。
「仲康、片方は俺に任せよ。悪来典韋、参る」
二人がかりでも押されていたのにそこに許褚に匹敵する豪傑の典韋が加わったのだからたまらない。
「「おらあああああああああああああああああ!!」」
ほぼ同時に振るった刀は呂兄弟の槍を弾き飛ばし、その勢いで地面にたたきつけられる。
「召し獲れい!」
典韋の命で鍵縄を持った兵が二人に殺到して縛り上げる。
先陣の将がなすすべなく敗れ、捕らえられたことを知った袁紹は顔良と文醜に出撃を命じた。
「おう、さっきのやつより歯ごたえがあるな」
「お前が文醜か、うわさは聞いておるぞ」
「ふん、貴様らごとき下郎の相手をしてやろうというのだ、ありがたく思え」
顔良と許褚、文醜と典韋は激しい一騎打ちを繰り広げる。
「子遠、手はず通りに動け」
「おう!」
許攸は退却の合図となる鐘を鳴らす。門を開くと一気に討って出て許褚らの部隊と合流した。
逃がしてはならじと顔良隊が突撃してきて許褚の部隊を突破する。そのまま長社の陣に突入していった。陣の外に出た部隊は文醜の部隊と激しくぶつかり合う。
「何をしておるか、そのような小勢など一息で揉みつぶせ!」
焦れた袁紹が前線に出てきて檄を飛ばす。
「ほう、本初よ。お前もいっぱしの大将気取りができるようになったか」
陣を放棄して脱出した部隊を率いていたのは曹操だった。顔なじみの気安さでからかうように声をかけると、もともと名門意識が強かった袁紹は頭から湯気を噴きだしそうな勢いで曹操の追撃に掛かろうとする。
「貴様、孟徳! 宦官の孫風情が何をほざくか! 奴を討ち取れ!」
高覧らの将が手持ちの部隊を率いて曹操へと殺到する。
「ははははは、そのようなへぼに捕まる曹操ではないわ!」
さらなる挑発を加え、曹操は馬首を翻す。
「殿、なりませぬ。曹操は謀多き輩ゆえ、何か罠があるに違いありません。先に長社の陣を落とし、態勢を整えるべきです」
「ぬう、だが奴の侮辱は我慢ならぬ……文醜に追撃を命じよ。あやつならば滅多なことは無かろう」
「承知いたしました」
曹操率いる部隊の殿は許褚が務めていた。
「貴様、やるのう。先陣から戦い通しでその膂力は見事だ」
「ふん、まだまだこんなもんじゃねえぞ」
文醜は許褚と戦いつつ曹操軍の背後に食らいつき徐々にその距離を縮める。
そのとき、長社の陣で爆発音が響いた。煙硝による火は中に蓄えられていた兵糧や物資が焼き払っていく。さらに運が悪いことに物資を確保せんと倉に近寄っていた顔良が炎に巻かれて焼け死んだ。
爆発音に一瞬気を取られた文醜の命運もここに定まった。
「放て!」
曹操の伏せていた弓兵が一斉に弩を放ち、矢が文醜の肩に突き刺さる。
「すまねえな。だがこれも戦場の習いってやつだ」
傷の痛みにうめく文醜に近寄った許褚が一刀のもとに文醜の首を跳ね飛ばしていた。
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