肉を斬らせて骨を断つ

 尉氏で攻勢を受け止める夏侯惇らはついに撤退を決意した。酸棗に退き、虎牢関の支援を受けつつ継戦する方針だ。


「っていうふうに見せかけろって、また孟徳の奴は無茶振りを……」

「だがやってみせるんだろ?」

「当り前だ。この俺が孟徳の命を守らぬことはありえん」

「うむ、殿軍は任せろ」


 夏侯淵の騎兵は敵の追撃を寸断しつつ徐々に退く。敵は追ってくるが、変幻自在の動きに翻弄され攻勢を持続できない。


「ぐぬぬ、なんということだ!」

 敵将は兜を地面にたたきつけ悔しがるが、部下の一言で気を取り直して周辺地域の制圧を急がせる。


「尉氏が落ちたか」

 劉備は報告を聞いて眉をひそめる。

「はっ、敵の攻勢を支えきれず。夏侯惇将軍らは酸棗に退きそこで態勢を整えております」

「ふむ、曹操から聞いていた策の通りではあるが……」


 官渡は南と西から攻勢を受けることとなる。陳留から増援を送ったが焼け石に水とも言われていた。

「田豊、策を」

「曹操殿にお任せるべきかと」

「現状維持ということだな」

「です」

 さらりと涼しげな顔で答える。そこに一人の少年が進み出た。


「殿、意見を言ってもよろしいでしょうか?」

「おう、孔明か。面白い、言うてみよ」

「はい、殿自ら出馬なさり、延津に向かうとの噂を流されませ」

 その一言に田豊の顔色が変わる。無論同じことを思いついていたのだろう。同時にそれをすることによる危険にも考えが及んでいた。


「なるほど、袁紹をより深く引きずり込むか」

「はい。であれば孟徳殿の策もより効果を発揮しましょう」

「うむ、それは良い。だが官渡の将兵をより危険にさらすことになるな。万が一官渡が落ちれば虎牢関から東の勢力圏を失うことになる。田豊がお前の言った策を言わなんだのはそういうことだ」

「袁紹は優柔不断な性にして、部下の意見に左右されやすいと聞きます。おそらくですが、曹操様もそこを見て、埋伏の毒を仕込んでいるのではないかと」

「許攸か」

 以前曹操から聞いていた。袁紹とは同郷でその時に袁紹の腰ぎんちゃくであり、今も側近をつとめている男がいると。


 孔明は何も言わずににっこりと微笑んだ。田豊は表情をこわばらせつつも、何とか笑みを浮かべる。

 孔明の兄の諸葛瑾も若くして素晴らしい才能を持っていた。だがこれは次元が違う。人外の智謀と言ってよいこの少年をいかにすべきかと劉備は頭を悩ませるのだった。



「尉氏を落としたか。捨て石部隊がよくやってくれたようだのう」

「はっ、やはり数は力にございますな」

 郭図がにやにやと笑みを浮かべながら追従する。その姿を苦々し気に眺める男こそ許攸であった。


「殿、官渡の砦はいまだ塁高く、兵の士気も旺盛とのことです。されば敗残兵を追撃し、酸棗を攻めましょう」

「何を言うか。官渡はわが軍の攻勢で疲弊しきっている」

 郭図の言うことには多少の無理があった。霹靂車から投げ込まれる岩によって攻城兵器はかなりの損害を受けている。今仕掛けている攻撃は蟻攻と呼ばれる、古くからある力攻めで、それは効果を発揮しているとは言い難かった。


「ふむ、官渡の攻勢は継続するが、尉氏にいる軍は北上させよ」

 ここで袁紹はやってはならない失策を侵した。二人の意見をどちらも取り上げようとして、戦力の分散という愚を犯したのだ。

 そしてそこに駄目押しの一手がもたらされた。


「報告! 劉備が兵を率いて鄴を出陣、延津へ向かっているとのこと」

「ほう、玄徳がついに出てきたか。よかろう、袁本初が直々に打ち破ってくれる!」


 袁紹は本陣を前進させるよう指示した。


「殿、後方ががら空きになります。危険です!」

 許攸が必死の表情で進言するが、もはや完全に意識が前に行っている袁紹は取り合わない。


「殿、では許攸殿は後方にて我らの背後を守っていただきましょう」

「ああ、それが良いな。長社の陣を守れ、良いな」

「……ご下命承りました」


 悔し気に声を震わせ、顔を伏せる許攸であったが、下を向いて袁紹から見えない表情は喜悦にゆがんでいた。



「さて、頃合いだな」

 尉氏の南、陽翟の境界に潜んでいた曹洪率いる一隊は行動を開始した。

「うむ、良いころ合いだと我も思うぞ」

「孟徳!?」

 敵地に孤立する別動隊は非常に危険な任務である。それでも曹一族の者が将となっているゆえに兵が従っている事情があった。

 そこに曹一族の旗頭がひょっこりと現れたのである。

「うむ、さすが子廉だな。見事に兵が統率されている」

「お、おう、あたりまえ……じゃねえ! なんで来た!」

「うむ、この戦いの胆になる部隊だからな、俺が居なければ始まらんだろう」

「危険だ!」

「なに、典韋もいる。大丈夫だ」

「そういう問題じゃねえ!」

「それにな。ここで失敗すれば我は殿から任された兗州を失う。そうなればいかなる面目あって殿に会えるかね?」

「……わかった。曹子廉は孟徳の指揮下に入る」

「おう、頼むぞ」


 一万の兵は北上し、曹の旗を掲げて進軍した。袁紹はほぼ全軍を押し上げ、官渡の攻撃に振り向けている。同時に尉氏を制圧した軍も酸棗に攻め入らんと北上していた。すなわち、前線と本拠の間に兵力の空隙が生じているのである。


「ははははははは! 進め、進め!」

 曹操は先陣を切って笑い声をあげながら進軍する。警備兵ほどの規模の敵兵が現れるが、数が違い過ぎて戦いにならない。


 そんな中、一隊が曹操の前に立ちふさがった。


「ここから先にはいかせねえぞう」

 何やら間延びした声でこちらに告げる巨躯の男が大刀を振りかざしている。逆に意気軒高なのはその男だけで、ほかの兵は数の違いに怯えて逃げ腰になっていた。


「典韋」

「おう!」


 曹操の側に控えていた典韋が盾と刀をかざして進み出る。


 凄まじい一騎打ちが繰り広げられた。だが典韋とその男が激しい戦いを繰り広げる中、その配下の部隊は曹洪によって蹴散らされる。


「おい、良いところで悪いんだがな」

「なんだあ?」

「ちょいと一息入れんか? だまし討ちはしないと約束しよう」

「わかったぞ。お前さんは強いからいい奴だ」


 そうして男は周囲を見渡すと……自分の率いていた兵がことごとく逃げ散っていることに気づいた。


「あれえ? みんなどこ行っちまった?」

「皆逃げてしまったぞ。ところで世にもまれなる豪傑だのう。おぬしの名を聞きたい」

「おらは仲孝だあ」

「それは字であろう?」

「許褚っていうだ」

「ほう、良き名ではないか。良かったら我に仕えぬか?」

「んー、おめえさん村の者にひどいことをしないって約束してくれるかあ?」

「もちろんだ。国民はすべて我が殿の赤子である。なんで粗末に扱おうか」

「難しいことよくわからんけど、あんたはいいやつだな。おらにはわかるぞ」

「ふふふ、虎のように勇猛ながらその純朴さ。面白い奴だ。典韋、お前の副官にする。よく教えてやれ」

「おう! 許褚よ、よろしくやろうぜ」

「おー、典韋っていうのかあ。よろしくなあ」


 そうして立ちふさがる者なき曹操の軍は進撃を続け……長社の陣を陥落させたのだった。

 これはすなわち袁紹軍すべてのの補給線が立たれたことを意味した。

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