官渡の戦い
許から北上した袁紹軍は陳留と洛陽の連絡を絶つべく尉氏に兵を差し向けた。それは降伏した黄巾の残党を中心としておりろくな装備もない、捨て石の軍勢だった。
曹操は尉氏に駐屯し迎撃の準備をしていると、袁紹の本命は官渡であることが判明する。黄河南岸の劉備の支配地域で、陳留はその中心部になる。
曹操が率いる兵は二万、袁紹は降兵も含め十万を数える兵力を展開していた。
官渡には曹仁率いる五千、これらは曹操が河北に赴任していたころからの子飼いの兵で、最精鋭でもある。
「劉曄殿。貴殿の読み通りになってきましたのう」
「曹仁将軍、わたくしの読み通りになるということは、この地は凄惨な戦場と化すということですぞ」
「ああ、よくわかっておる。ここで袁紹の主力を引き付け孟徳殿を助ければ主公は必ずや勝ちましょう」
「……燕王殿下ならば必ずや」
「さよう。されば劉曄殿、貴殿には申し訳ないがちとこの戦場にてお付き合い願う」
「はっはっは、承知しましたぞ」
胆力に優れた劉曄は何事もなかったかのように笑い飛ばす。その姿に周囲の兵は大いに勇気づけられるのだった。
「押せい!」
袁紹の号令の下、井欄が押し出される。盾を構えた兵が城壁から降り注ぐ矢を防ぎ徐々に矢倉が進んで行く。
「撃て!」
矢倉の上から放たれる弩は城壁上の兵を射抜き、反撃の矢を受けた兵が矢倉から転げ落ちていく。
「火矢を放て!」
劉曄の指示で備蓄されていた油を用いて火矢が放たれた。火避けに泥を塗り込んでいるがそれでも全ての矢を防ぐことはできず、矢倉が燃え上がる。
「うわあああああああああああ!」
兵の断末魔と共に井欄は崩れ落ちるが、次々と井欄が押し出され攻勢はやむことがない。
袁家の地盤である汝南を制した影響は大きく、住民がこぞって協力しているようだった。巨大な矢倉をいくつも建造し、止むことなく雨あられと降り注ぐ矢は軍事力の強大さを示している。
「出る! 続け!」
西門を開き曹仁が一手を率いて討って出た。
「顔良、いけい!」
「おう!」
袁紹配下の二枚看板と呼ばれる一人、猛将顔良が迎撃にきた。
「我が名は曹仁、曹孟徳が族子なり。尋常に勝負せよ!」
「がははははは、若造が。我が刀の錆にしてくれよう」
曹仁と顔良は激しく打ち合うが勝負はつかない。ただ武術の腕は顔良が上回っているようで、曹仁が押され始めた。
「くっ、勝負は預けた」
「逃がさぬ!」
曹仁は砦に引き返そうとして顔良が追いかけてきた。
「いかん。顔良を引き上げさせよ」
袁紹の指示で退き鐘が鳴らされ、その音を聞いた顔良は追撃を取りやめた。
「ふむ、なかなか引っかからんのう」
曹仁の撤退は演技で、もう少しで顔良を伏兵の居る地点に引き込めた。だがすんでのところで撤退され、曹仁は独りぼやいた。
「敵もなかなか鋭いようですな」
「郭図という知恵者が付いておるからな。その入れ知恵かも知れぬ」
「部下の言葉を聞き入れるには上に度量が無いとできませぬ。呂布を受け入れたことと言い、袁紹もなかなか油断ならぬ相手かも知れませぬ」
「まあ、ただのぼんくらにあれだけの兵が集まるわけはないからのう」
「子孝殿、井欄がまたやってくるぞ」
「文烈。霹靂車を出すのだ」
「おう!」
この戦いが初陣と言う曹休は勇み立って城壁の内側に駆け下りた。中央の広場には霹靂車が五台並んで発射の時を待っている。
「劉曄殿、霹靂車の指揮はお任せしてもよいか?」
「お任せあれ。曹仁殿もご武運を」
「ふん、主公の天下で孟徳殿が縦横にその腕を振るうところを見るまで死ねぬわ」
「治世の能臣にござるか、確かに。孟徳殿はこうした策謀よりも治世で民のために働くことが合っていそうですからな」
「うむ、才ならば韓信にも引けは取るまい。ただ本人の望みは蕭何であるようだからなあ」
「困ったことにその蕭何に匹敵する才をお持ちですからなあ。実に困った方です」
「困ったと二度も言われるのはどうかと思うぞ」
猛攻を受ける官渡の城内に唐突に曹操が現れていた。
「孟徳!?」
「なんだ子孝」
「なんだからってこんな一番の激戦地に来てるんだ!」
「そりゃあ、可愛い弟分が苦戦してるってことは助けに来なきゃ嘘だろう?」
「それにだ。ここで袁紹に一発食らわせれば背後で袁術の阿呆が蠢動するだろう。そうなったらすぐに宛を制圧して武関経由で長安を衝く」
「おいおいおい……」
曹仁はあきれたようにつぶやいた。この寡兵で十倍の袁紹軍から勝ち筋を乱そうとしている曹操を目の当たりにして曹仁の眼がぎらぎらと光を放つ。
「よっしゃ、その悪だくみを聞こうじゃねえか」
「ふん、らしくなってきたな。まずはな……」
一方そのころ、尉氏の戦いは一進一退を繰り返していた。
「やっぱ数が多すぎるな」
「ぼやいてる暇があったら一本でも多く矢を放て!」
「妙才、お前は固すぎるんだよ」
「何を!? 我が変幻自在の用兵をお前も知ってるだろうが」
尉氏の府に立てこもった夏侯惇と夏侯淵は一万の兵を率いて奮戦していた。
「孟徳が半分連れて行っちまったからなあ。何とか防がんと」
「なに、孟徳のことだ。手は考えているだろうっと、あれか!」
「遼来来! 遼来来!」
張遼率いる騎兵が恐ろしい勢いで敵兵を蹴散らして行く。先頭を駆ける将は張遼であった。
その勢いを食い止めようと何人かの将が挑むが武器を打ち合わせる暇もなく突き落とされて行く。
「妙才、呼応して敵を叩くべきだと思うが如何?」
「元譲、留守は任せた」
「あ! ずるいぞ!」
「ふん。お前の部下が歩兵ばかりなのをもう少しよく考えるべきだったな」
「あああああああああああ!」
攻勢は緩んだとはいえ、張遼の騎兵もいつか息が切れて足を止める時が来る。そうなったら騎兵はただの巨大な的で、弓兵に勝てない。
「城壁にくっついてる敵兵を引き留めるぞ。騎兵の援護だ!」
夏侯惇は自ら弓を手にすると、夏侯淵に負けず劣らずの見事な腕の冴えを見せ、幾人もの指揮官と思われる兵を打ち落として行った。
「夏侯淵が来たぞ! 首おいて行けえええええええええええ!」
騎射に巧みな夏侯淵の騎兵が張遼の騎兵の援護に回る。包囲の足を止められた袁紹軍は結局多くの戦死者を出し、尉氏の府の包囲を解いて引き下がるのだった。
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