蒼天は死せず

 劉玄徳が義勇軍を率いて黄巾の大群を破った。この情報は中原を瞬く間に駆け巡った。


 官渡の砦を包囲していた黄巾軍は波才が討たれたことで霧散していた。本来は追撃して徹底的に滅ぼすべきだが、先の野戦で精魂尽き果てたわが軍にそこまでの余力はない。


「劉玄徳殿に相違ありませぬか?」

「はっ、劉備、字を玄徳と申します。朱儁将軍に置かれましてはご無事で何よりと存じます」

「頭を上げられい。そもそも吾輩は貴殿に命を救ってもらった立場であるからの」

「はっ」

「おう、孟徳か。おぬしも相も変わらずの無茶をしでかす」

「都雀どもは口先で勇ましいことを述べますが、誰一人虎牢関より先へ行こうとしませんのでな。範を示すは武人の務めにござる」

「相も変わらず手厳しいのう。まあ、命を救われた吾輩からすれば大きな借りができたということだ。見返りは期待せよ」

「はっ、ありがたきことにございます」


 朱儁将軍の救援に成功したとの情報は周辺に広まっている。というか曹操のやつがどこからともなく手配した密偵がすげえ勢いで噂を広めていた。

 しかもそこで名を広めたのは劉玄徳のみだ。自身の功績を隠してまで俺を持ち上げやがった。

 今はまだ世に潜むべき時とでも思っているのだろう。だがそうはいかん。


「将軍は良き部下を持たれましたな。寡兵にて出撃し、勇戦して敵を破る。曹孟徳殿こそ真の武人。波才を討ち取ったのも孟徳殿の麾下の者にございますぞ」

「ほう。くくく、これは良いことを聞いた。孟徳よ、このいくさが終わったらおぬしの才にふさわしき立場を与える。さぼることは許さぬぞ」


 曹操は恐ろしいほど殺気がこもった目つきで俺を見ていた。

「玄徳殿、謀りましたな?」

「はて、何のことでしょうな? 功ある者がそれにふさわしい褒賞を受ける。これがあるべき世の姿でしょうな。小人どもが跋扈しあるべき世の姿がゆがめられたが故の乱でありましょう」

「玄徳殿、その言はちと耳に痛い。だがそうであるな、このようなことが二度と起きぬよう戒めは要るであろうな」


 一度陳留に戻り兵を立て直すことにして、朱儁将軍にその旨を伝えて暇乞いをした。


「おう、玄徳殿。一度陳留に戻られるか。されば遠からず都より兵を発して豫州の黄巾を討ち滅ぼす故、貴殿の参陣を楽しみにしておるぞ」

「ははっ、将軍もご壮健にあらんことを」


 曹操の奴は酸棗の城に入り、物資の調達を命じられたようだ。地味な仕事ではあるが商人とのつなぎも付けられるし、いわゆる役得も多い仕事であった。

 しかしあいつはそこでもやらかした。袖の下を渡してきた商人を摘発したのだ。

 罪に問うた商人の資産を没収し、それをさらに放出して物資を買い付けるという離れ業で極めて短期間で命令されただけの量を確保した。


「鬼北部尉殿に袖の下とは阿呆がおったもんじゃ」

 兗州で名を知られた智者である程立殿が俺のもとを訪れていた。

「そりゃあ、なんなんです? 先生」

「ああ、曹孟徳殿は都の北門を守る役人になっての。十常時の一族である宦官を処刑したのじゃ」

 なんつう無茶苦茶をしでかすんだあの野郎。というか曹操は若いころから曹操だったということか。


「なるほど、法を厳格に守ることを示したのですな」

「うむ、そのあとで頓丘の県令に栄転したのだが、そこでも法を犯し賄賂が横行していた腐敗役人と商人を一掃したと聞いておる」

「ははあ、あ奴らしいというかなんというか」

「まあ、彼のうわさも確かめずに行った商人が間抜けだったということじゃの」

「いやあ、あいつのことだから事前に噂でも広めていそうですよ。例えば腐った役人の名前を出してそいつに命令を出させるとか」

「ふむ、貴殿も人のよさそうな外面をしてなかなかに腹黒いことを申すのじゃな」

「清廉潔白だけで生きて行けりゃあこの世は幸せですよね」

「フフフ、まことそうであるな」


 こうして都から軍が出てくると情報が出回ると、俺のところに来客がひっきりなしに来ることになった。


「玄徳殿、次の戦いでは儂を貴殿と共に戦わせてくだされ」

「うむ、貴殿の武勲にあやかりたいものじゃ」


 前に陳留から出撃するとき、申し訳程度に物資を送ってきたような連中が俺い向かってへいこらしている。

 ただここでこいつらを言いこめても仕方がない。君子の仮面をかぶって対応する。


「おお、貴公らの国を思う志に玄徳感服いたしましたぞ。共に戦おうではありませぬか」

 こうやっておだて挙げてうちの兵の損害を減らす、言い方はあれだが盾にする。ちょいと厳しい持ち場か、囮にするかもしれんけど悪く思うなよ。


 こうして陳留に駐屯していた諸侯の兵をなぜか無位無官の俺が率いるというよくわからない状況で出撃することになった。

 とはいえいろんな思惑が入り混じる寄せ集め軍ほど脆いものは無い。


「周りにいる連中はうちの軍が苦境に陥れば即手のひらを返して見捨てて逃げるってくらいに思っとけ」

「うむ、まあ、そうでしょうなあ」

「兄貴が勝ったらすり寄ってきやがって、調子の良い連中だぜ」

「まあ、そう言うな。使えるうちは使ってやるさ」

「兄者が油断していないのであればよいのです」

「そりゃあ、もう、な」


 尉氏の府で都から出撃してきた朱儁将軍の兵と合流した。陳留の諸侯軍で数だけは2万を数えるが、義勇兵であるうちの方がまともに行軍しているというのはどういうことだろうか。


 軍の最上位者は朱儁将軍だ。俺はそこに陣借りしているという体になる。


「おう、玄徳殿。聞いたか?」

「先ほどこちらに着陣したばかりにございましてな。よき知らせでございますか?」

「ああ、皇甫嵩の軍が宛を落とした。張曼成を討ち取ったそうだ」

 黄巾の将領の中でも特別な大物だった。荊北の反乱はほぼこいつ一人の策謀だと言われている。

 ただ官軍の攻勢を受け、徐々に支配領域が削られ宛に籠城していたと聞いていた。


「なるほど、これで奴らは追い詰められますな」

「うむ、豫州、潁川の賊を討ち果たせば乱の終結と言えるであろう」

「されば……」

 先の戦いで賊を追い詰めた一言があった。


 俺の提案に朱儁将軍は大いに頷き、曹操に命じて噂をばらまかせた。曰く「蒼天いまだ死なず、黄天いまだ来たらず」だ。

 黄巾の宣伝文句を真っ向から叩き斬る内容で、これで激発して出てきてくれりゃあ儲けものくらいの意味だった。


「出発!」

 曹操の声はよくとおる。騎兵を率いて先陣に立ち、偵察も同時に行う。これで奇襲を避けられ、先日の轍は踏まないと内外に示す意味もあった。


「伝令、長社にて黄巾軍が布陣しております。数は五万!」


 官軍とほぼ同数の大群を前にして朱儁将軍が固唾を呑む音が陣幕の中でも聞こえた気がした。

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