第33章 終曲

 黒い球体が大きく弾け飛ぶ。

 同時に、夥しい憎悪が黒塵となって四方八方に飛散する。

 鬼は、歓喜の咆哮を上げると黒塵を凝視した。

 が、それは瞬時にして怒りと落胆の唸り声に代わる。

 飛散し薄らぎ始めた黒塵の中に、四方の姿があった。

 鬼は、怒気吐きながら再び気の塊を生み出した。

 それも、一つや二つではない。無数の気塊を生み出すと、一気に四方に投げつけた。

 が、彼女は平静だった。

 鬼の猛攻に動じる素振りは全く見せず、静かに目を閉じる。

 四方は印を結ぶと、落ち着いた口調でに呪詛を紡いだ。

 彼女が発した呪詛は言霊となって、幾重にも時空に目に見えない壁を築いていく。

 四方が、かっと眼を見開く。

 その瞳は金色に変化し、 凄まじい覇気を纏った視線が迫り来る黒い邪気の塊を貫いた。

 刹那、邪気の塊が一斉に四散し、弾け飛ぶ。

 空間を満たす濃厚な黒塵。

 が、禍々しい腐気を孕んだ漆黒の粒子は、四散しても尚且つ四方を包み込み、回避はおろか退却すら許さない。

 鬼はにやりと笑うと、唸るような低い声で禍々しい言霊を綴った。

 その旋律とともに、四方を取り巻く邪悪な気塊は、更に濃厚な漆黒を重ねていく。

 鬼の狙いはこれだった。

 四方に邪気と対戦させておきながら、最終的にはその中に取り込む――それが、鬼の目的だっだ。邪気を一掃したと油断させておいて、実は邪気が成す結界の中に封じ込めるつもりだったのだ。

 四方は己の力を駆使し、邪気を消し去ろうとした事が、反対に自身を窮地に追い込む結果となっていた。

 邪気は徐々にその規模を縮小し始めた。

 決して矮小化しているのではない。

 禍々しい鬼気が凝縮されているのだ。

 より邪悪で忌まわしき鬼の念が高密度化した、濃厚な凶魂の塊として。

 やがて、邪気の塊は鬼の拳ほどの大きさにまで収縮した。

 だが、其の塊から放出される禍々しい邪気は、今までのものよりも何倍もの殺気と憎悪を孕んでいた。恐らく常人なら肉眼で捉えるだけで生気を失い、魂を刈り取られてしまうだろう。

 鬼はほくそ笑むと、節くれだった指で無造作に邪気の塊を握りしめた。

 大きく口を開き、それを口に放り込む。

 鬼は喉を大きく鳴らすとそれを嚥下した。

「四方っ! 」

 つぐみが絶叫と共に大きく跳躍。

 鋭く伸びた爪と牙で、鬼の喉元に喰らい付く。

 が、鬼は憮然とした表情で、面倒臭そうに右手でつぐみを払い落とす。

 つぐみの身体が、大きな弧を書いて宙を舞う。

 地面に叩きつけられる寸前、一陣の疾風の如く滑り込んだ影が、彼女を抱き停めた。

 石動だ。

「まずいっ!」

 紗代が印を結び、呪詛紡ぐ。

 彼女を白銀色の気の波動が包み込み、やがてそれは巨大な渦となって鬼に襲いかかる。

 神気に満ちた荘厳な波動と共に迫り来る渦は、巨大化した鬼すらすっぽりと包み込むほどにまで増幅。

 が、鬼は動じない。

 面倒臭そうに眉を顰めると、右拳を迫り来る渦目掛けて打ち放つ。

 同時に、漆黒の鬼気が拳から迸り、巨大な塊となって神気の渦と激突。

 空気がびりびりと震え、閃光が四方に走る。

 神気の渦が四方八方に四散。

 が、鬼の放った鬼気の塊も同じく砕け散る。

 四散した鬼気の片が天空を舞い、空間を覆う結界に次々と突き刺さる。

 刹那、硝子が砕け散るような乾いた粉砕音が大気を震わせた。

 結界が解けたのだ。

 紗代が防御から攻撃に力の配分を削いだためにバランスが狂い、結界の強度が落ちたのが原因だった。

 鬼は歓喜の咆哮を上げると、大きく地を蹴った。

 こうなれば、奴の思うつぼだ。

 この地から立ち去り、奴は好き放題に大暴れできるのだ。

 が、鬼は動かなかった。

 動けなかったのだ。

 奴の身体と足に手足が絡みついていた。

 肌色のそれは、鬼のものではない。

 人だ。

 四本の足が、鬼の足に絡みつき、四本の腕が鬼の手を抑え込んでいる。

 その鬼の上空に、一人の僧の姿があった。

 金色の光に包まれた僧は若く、恐らく二十代に見える。

 だが、その姿には誰もが息を呑んだ。

 黒い衣から覗く四肢はそれぞれ四本。

 四本の手で器用にそれぞれ印を結びながら、眼下の鬼を見下ろしてる。

 その表情に不思議と憎しみは無い。

 ただ、鬼に注がれる目線には、底知れぬ哀れみだけが感じられた。

「阿鼻・・・」

 玄信が静かに呟いた。

 これが、この地に伝わる伝説の妖、『阿鼻』の真の姿だった。

 鬼は、全身の筋肉を膨らませながら、四肢を捉えた阿鼻の拘束を解除すべく激しく動いた。

 が、鬼を捉えた阿鼻の四肢は、全く動じることなく奴の動きを完全に封鎖していた。

 不意に、鬼が、かっと目を見開く。血走った眼球が眼窩から零れ落ちる寸前まで突出する。

 何が起きたのか。

 決して歓喜に震えている訳ではない。

 むしろ、その反対だった。

 鬼は牙をむくと苦悶に顔を歪め、悍ましい唸り声を絞り出した。

 突然、むき出しになった牙の間から白煙が立ち上る。

 それは、口からだけではなかった。

 鼻から、耳から、眼から――しまいには、体中の毛穴と言う毛穴から、白い煙が立ち上り、鬼を包み込んでいく。

 阿鼻は、結んでいた印を解いた。

 鬼を拘束していた阿鼻の腕や足が、その戒めを解くと掻き消すように消える。

 刹那。

 鬼の身体が白い炎に包まれる。

 炎は外部からのものではない。明らかに、鬼の体内から発火したものだった。

 鬼は動かなかった。

 動けなかったのだ。

 鬼は、絶命していた。

 恐らくは、先程の唸り声が、今際の際の怒号だったに違いない。

 白い炎に包まれた鬼は、膝から崩れ落ち、そのまま俯せの格好で地に伏した。

 凄まじい高温度の炎なのだろう。本来飛び散るはずの灰までも燃え尽き、鬼の身体は徐々に崩れ落ちていく。

 誰も、声を上げる者はいなかった。

 ただ茫然と、燃え尽きていく鬼の姿を見つめ続けていた。

「きみちゃん、あなたは自分自身の身を・・・」

 紗代の瞳から、涙がこぼれ落ちる。

 もっと早い段階で防御から反撃に転じてれば、尊い犠牲を出さなくとも済んだのかもしれない――そんな思いが、彼女の脳裏を過ぎる。

 結界の維持に努めたのは、四方の意志を尊重した紗代の気概の強さだった。

『自分の身に何が起きようと、結界は解かないで欲しい。最悪の事態になったら、私と一緒に鬼を結界の中に未来永劫封じ込めて欲しい』

 それが、風の祀りの前に四方が紗代に伝えた言葉だった。

 山村の神社を守る神代巫女として、古くから親交のある四方の意志を背くことは出来ない――それが、彼女の意識を叱咤し、折れそうになる意志を奮い立たせていたのだ。

 それでも、とうとう我慢出来ずに一度は反撃に転じた。だがその結果、結界に緩みが生じ、阿鼻の助けが無ければ、危うく鬼を世に放つ羽目になっていたのだ。

 結界の外に出れば、鬼の力は今まで以上に強力になるのは眼に見えている。

 そうなれば、四方の最後の切り札も押さえ込まれる可能性があったのだ。

 鬼の身体は、もう原型をとどめていなかった。

 だが、忌まわしき骸を昇華する白い炎の勢いに、弱まる素振りは無い。

 四肢の判別が不可能なほどにまで燃えつき、小高い山と化した躯だが、炎は鬼の存在そのものを完全に消し去るかのように、衰えぬ火力で更に燃え続けている。

 その上空では、阿鼻が合掌し、静かに呪詛を唱えていた。

 鬼の躯は見る見る間に燃え尽き、小高い山程あったシルエットは小さな丘となり、やがて盛り土程にまでとなった。

 白い炎が消えた。

 未だくすぶり続ける鬼のなれの果ては、白い灰が積もった小さな盛り土だった。

「四方っ! 」

 つぐみが、いち早く鬼の残渣に駆け寄る。

「四方っ! 返事しろおおおっ! 」

 つぐみの悲痛な叫びが、大きく丘に響き渡った。

 刹那、金色の光に積まれた巨大な珠が灰を突き破って飛び出すと、つぐみのそばに静かに降り立った。

 光が消え、そこに見覚えのあるシルエットが浮かび上がる。

 四方だった。

 彼女は、両腕に衣川詩音を抱えたまま、上空の阿鼻を見つめると、深々と一礼した。

 阿鼻は、四方に優しく微笑み掛けると、空に溶け込むかの様に、ゆっくりと姿を消した。

 次の瞬間、鬼の燃え尽きた灰が、大地に吸い込まれるようにして、跡形も無く消え去った。

「四方おおおおおっ! 」

 つぐみが四方の首にしがみつく。

「つぐみ、ごめん。心配かけたね」

 四方が、つぐみに優しく語り掛けた。

「うおおおおん」

 つぐみは号泣していた。感極まるものがあったのだろう、常にポーカーフェイスの彼女が、ここまで感情を露にするのは珍しい事だった。

「きみちゃあああん! 」

「四方さあああん! 」

 紗代達が一斉に四方の元に駆け寄って来る。

「皆さん、ごめんなさい。心配をお掛けして。あ、男性陣それ以上近付かないでっ! 」 

 四方の一声で、彼女との距離約十メートルの所で男性陣は足止めを喰らい、女性陣だけが駆け寄った。

「四方さん、無事でよかった」

 紗代が涙を流しながら四方を見つめた。

「無事で良かったよおおおっ! もし死んだら家賃払わないかんね」

 陽花里が涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、意味不明の事を口走る。

「阿鼻の助けが無かったら、危なかったです」

 四方は微笑むと、涼しげな表情で上空を見上げた。

「衣川さんも無事だったの」

 紗代が四方の腕に抱きかかえられた衣川を見つめた。

「ええ。まあ身体は・・・流石に魂は救えませんでした」

 四方が悲しそうに、身動ぎ一つしない衣川の身体に目を落す。

 衣川は全裸だった。よもが男性陣を足止めにした理由が其れだった。鬼に変化した際、身体そのものが鬼になったのではなく、それが憑代になって鬼の中に取り込まれていたのだろう。但し、鬼と契りを交わした魂の行く末は・・・恐らく。

「鬼に落ちた魂を救うのは難しいですからね。特に今回の場合は・・・」

 紗代はゆっくりと衣川の額に手を当て、呪詛を唱えながら、顔、首筋、乳房、腹部、そして彼女の秘部へと手を滑らせていく。

「四方ちゃああああん! つぐみちゃああああん! 何があったのおおおおっ! 」

 丘のふもとから宇古陀が駆け寄って来る。

 流石の今回の事案は常人の宇古陀を巻き込む訳にはいかず、鯛焼き屋の店で待機すして貰っていたのだ。

 その後ろに、もう一人、人影が見える。上月未央だ。彼女にはイベント終了後にここを離れるよう話していたのだが、残っていたらしい。

 すると、つぐみが宇古陀に向かって駆け出す。

「宇古陀、私の着替えはあるか? 」

 開口一番、つぐみは宇古陀にそう問い掛けた。

「あるけど・・・あれ、服は無事なのね」

 何故か残念そうな表情の宇古陀。

「貸してくれ」

「このリュックの中に――」

 つぐみは、そう言い掛けた宇古陀の手からリュックを奪い取ると、再び四方の元に駆け寄った。

「四方、着替えを持ってきたぞ」

「ありがとう。つぐみ、陽花里さん、申し訳ないけど、彼女にリュックの中の服を着せてもらえませんか? 」

 四方が女性陣に声を掛ける。

「着替え? 宇古陀さんのじゃ男物でしょ? まあ仕方ないか」

 紗代が残念そうに呟く。

「大丈夫。女物だ。私様に宇古陀が用意したものだから 」

 つぐみがすかさず答える。

「え? つぐみさんの着替えを宇古陀さんが? 」

 首を傾げる紗代を横目に、つぐみと陽花里が黙々と衣川に服を着せていく。つぐみはメタモルフォーゼする都度、衣服を破いてしまうので、宇古陀が気をきかして? いつも着替えを用意しているのだ。今回は石動から服を破かなくても済むメタモルフォーゼのこつを教わったので、事なきを得ずだったのだが。

 但し、その服装なのだが、宇古陀が趣味でチョイスするので・・・。

「この服って・・・!? 」

 紗代の眼が点になる。

「今日は、これかあ。宇古陀さんの趣味って・・・」

 前に宇古陀から着替えを借りた事がある祥子が、顔を赤らめながら呟く。

「完了だ。男性陣、来てもいいぞ」

 つぐみの声に、一斉に駆け寄る鴨川達。

「四方さん、無事でよかった――え? 衣川・・・さん? 」

 鴨川は言葉を失った。

 四方の腕の中に抱かれる、セーラー服姿の衣川詩音を見て。 

 鴨川は無言のまま紗代を見つめた。

 紗代は伏目がちに頷いて答える。

 鴨川にも分かったのだ。目の前の衣川の身体に、彼女自身の魂が宿っていない事に。

 四方はそっと衣川を地面に寝かせた。

「皆さん、御無事でしたか」

 丘の向こうから、僧衣を纏った青年が近付いて来る。

 以前、『要』の泉のそばで、四方と言葉を交わした青年僧だった。

「玄祥さん、有難うございました。大変なお役目をお願いして申し訳ございません」

 四方が深々と彼に頭を下げた。

「いえ、とんでもありません。この地を守る事は我が一族の義務ですから。私の方こそ、皆様を巻き込んでしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです。阿鼻様も快く協力してくださいましたから、助かりました」

 玄祥はそう答えると、丘に向かって合掌した。

「阿鼻の裏の伝説、本当だったんですね」

 四方がしみじみと呟いた。

 前に四方達が玄信の寺を訪れた時、阿鼻伝説にはもう一つ裏の話がある事を教わっていた。

 阿鼻は容姿こそ常人とは異なる風貌であったが、極めて知性に富み、正確も温厚な人物だった。幼少期より仏門に入り、多くの僧が彼の下で修業をしたそうである。

 晩年、床に伏した阿鼻弟子達にこう伝えた。

『風の丘は龍線が交わる場所で、決して穢してはならない聖域なのだ。だから、今後幾年月を経ようとも。地を搔き回すようなことはやってはならない。その為に、私がこの丘に住む化け物であったように後世に伝え、この丘の土を動かすと祟りがある広めてくれ』と。

 人の心を統制するには、安楽よりも恐怖――阿鼻はそう考えたのだ。

「玄祥、すまんな。修行中だというのに。阿鼻を呼び出せるだけの力を持つ者は、一族の中でもお前しかおらんからな」

 玄信が表情を綻ばせると、その若き僧を満足げに見つめた。

「父さん大丈夫。私の師匠は事の事情をよく理解して下さっているから」

「え、このお坊さん、玄信さんの息子さんなの? 」

 紗代が驚きの声を上げる。

「はい、今はまだ修行の身なので、いずれはこちらの寺に戻ります」

 玄祥は紗代にそう答えると、地面に横たわる衣川の姿に表情を曇らせた。

「彼女は難しかったか・・・鬼に身も心も蝕まれてしまっていましたからな」

 玄祥は衣川に無言のまま手を合わせた。

「衣川、さん・・・」

 未央は、衣川の傍らにしゃがみ込むと、彼女の頬をそっと撫でた。彼女の瞳から、幾筋もの涙がこぼれ落ちる。

 四方や紗代達の言葉や鴨川の表情から、未央は状況を何となく察し多様だった。

 姉を死に追いやり、己の欲望を叶えるために多くの人々を呪殺した張本人が、魂を鬼に喰われ、今やただの肉塊と化しているのだ。

 だが、不思議と、彼女には衣川に対する憎しみは消え失せていた。

 彼女と同じ世界に飛び込んだのも、身の上を隠して彼女に近付いたのも、元はと言えば復讐の為だった。

 衣川を凌駕し奈落の底へ突き落す――それを生甲斐に、彼女はこれまで生きて来たのだ。

 衣川は自分が死に追いやったクラスメートの妹とは気付かず、彼女に接して来た。

 普通なら気付いてもおかしくないのだが、其の点は唯我独尊的な思考の塊故に、周りは一切気にならない性格故にだろう。

 憎くはあったが、その反面、ピジネス面では学ぶ面が多く、時にはフォローして貰えたこともあった。

 今思えば、今回のイベント開催に向けて、自分のスタッフが引き抜かれたのも、遅れ気味の準備を一気に詰める為にはやむを得なかったのかもしれなかった。多くの企業から協賛を得ており、また、町おこしも兼ねた公私協力の元に企画したイベントだけに、遅滞は許されなかったのだ。其れだ明けに、機動力に飛んだ衣川の会社に優秀なスタッフをそろえる事が先決だった。万が一、スケジュール通りに進まなかった場合、取引先からの多くの信頼を失い、衣川だけでなく、未央の会社も経営が成り立たなくなる可能性が十分にあったのだ。

 それが例え、衣川が私恨を果たすべく企てたものであったとしても。

 それだけに、未央が衣川に抱いていた怨恨の念は、時と共に変貌を遂げていた。

 彼女が衣川に最終的に抱いた感情――それは、哀れだった。

 自分を認めてもらうために心血を注ぐ、哀れな存在――そう感じた瞬間から、未央の心から衣川への憎悪の念が次第に昇華していった。

 未央は衣川の手を握った。

 血の気の失せた彼女の手は、氷の様に冷たく、未央に彼女が落ち果てた現実を伝え掛けていた。

 

 衣川さん、私はあなたを許す


 未央は、心の中で、そう衣川に話し掛けた。

 不意に。

 衣川の瞼が、ゆっくりと開く。

「ここは・・・!? 私、どうして・・・」

 衣川は怯えた仕草で周囲を見まわした。

「大丈夫ですか? 」

 四方がそっと衣川の耳元で囁く。

「はい。あ、有難うございます」

 衣川は、自分の置かれている状況に気付き、四方にそう答えた。

 彼女はゆっくりと上体を起こした。

「無事で良かった」

 未央が、衣川の手を握ったまま、潤んだ眼差しで彼女を見つめた。

「みいちゃん・・・?」

 衣川が驚いた表情で未央を見ると、徐に彼女を抱き締めた。

「ごめんなさいっ! 寂しい思いをさせて、苦労まで掛けて――本当にごめんなさい」

 衣川は嗚咽を漏らしながら、未央の肩に顔を埋めた。

 一瞬、戸惑った未央だったが、ふと我に返ると、大粒の涙を流しながら衣川の身体にしがみ付いた。

 

 おかえり、おねえちゃん


 未央の唇が、衣川の耳元でそう言葉を綴った。

 四方が、さり気なく紗代に目配せをする。

 紗代は眼を細めると黙って頷いた。

 全てを見通しているかのような、そんな仕草だった。


 


 

 

 

 

 

 

 



 


 

 

 

 

 

 

 

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