第13章 鬼危
ぴしっ
乾いた甲高い響きが沈黙を破る。
ただの家鳴りではなかった。時空そのものが、強力な力に捻じ曲げられて切り裂かれる破断の悲鳴だった。
幸甚の背後の空間が、一気に裂ける。
巨大な黒い影が弾けるように飛び出す。
全身黒色の剛毛に覆われた筋肉質の巨躯は、大柄な幸甚が子供の様に見えてしまう程の圧倒的な存在感を醸していた。
額から反り返る様に伸び天を突く白い角。研ぎ澄まされたナイフの様に伸びた鋭い爪。分厚い唇から顔を覗かせる発達した犬歯。
鬼だ。
憤怒に歪むその表情は、見る者の心から逃げ出す気力すら奪い去ってしまう忌まわしくも禍々しい凶気を孕んでいた。
鬼は、無防備な幸甚の背中に爪を振り下ろす。
が、殺意に満ちた凶器は、彼の背を切り裂く事は無かった。
瞬時に振り向いた幸甚が鬼の手首を鷲掴みにしていたのだ。
怯んだ鬼の腹に、幸甚の右拳がめり込む。
彼の全身から迸る気の覇動が鬼の腹部を突き抜けた。
鬼は体をくの字に折り曲げながら後方に吹っ飛ぶ。
が、両脚で踏みとどまり、膝をつかない。
刹那、鬼の視界を影が過ぎる。
つぐみだ。
彼女は大きく跳躍すると、思いっきり足を振り上げ、鬼の額に踵を落した。
流石にこれはこたえたらしく、鬼は大きく状態を揺らめかせると床に手をつく。
続けざまにつぐみの蹴りが、鬼の鳩尾に食い込む。
幸甚に受けたダメージを更に上塗りした攻撃に、鬼は苦悶ともとれる表情を浮かべると、後方に退こうとする。
だが、鬼の周囲は四方が放った式神が包囲しており、撤退を許さない。
鬼の顔が憤怒に歪み、全身の筋肉が夥しい殺気を放つ。
鬼が動いた。奴は大きく踏み込むと、四方に向かって跳躍した。
術師とは言え、三人の中では最も非力なように見えたのか。
だが、その判断を奴は後悔する事になる。
鬼の太い腕が、四方と影が交差する。。
鋭利な爪が四方の喉元を襲う。
が、それが目的を果たす事は無かった。
四方の指先が、時空に軌跡を描く。
同時に、鬼の手首が中空を待った。
鬼の手首が、ごろりと床に転がる。
鬼は怯まなかった。残ったもう一方の拳を、四方の顔に叩き込む。
四方はそれを止めた。
人差し指一本で。
四方の身体から夥しい気の噴流が迸る。
鬼の腕が膨れ上がり、皮膚が大きく裂ける。
どす黒い血液が、筋肉が飛散し、床に夥しい地獄絵図を描いた。
瞬時にして両腕を失った鬼は、困惑した素振りで四方を見つめた。
四方は間髪を入れずに右手をまっすぐ振り下ろす。
刹那。
鬼の躯が真っ二つに裂け、左右に崩れ落ちた。
「四方さん、凄いな。戸来さんも凄いが、あんたはそれ以上だ」
幸甚は感慨深げに呟いた。
「大したことないです。幸甚さんこそ。普通の方が、いきなり素手で鬼に立ち向かうなんて・・・いや、普通じゃないか」
四方は笑みを浮かべると、式神を回収した。
途端に、時空が大きく口を開き、骸と化した鬼を呑み込んでいく。
「逃げたな」
つぐみが口惜しそうに呟く。
鬼の本体だけではなかった。床に落ちた手首や、飛び散った血液までも、鬼がこの事務所に留まった痕跡の全てを、時空の裂け目は回収していったのだ。
「四方、こいつも本命じゃなさそうだな」
つぐみが淡々と呟く。
「本命じゃない? 」
幸甚が訝し気につぐみを見た。
「ああ。恐らく使い魔だ。魂に呪いの気が込められていない」
つぐみが幸甚にそう答えた。
「じゃあ、呪いを孕んだ本体ってのは・・・」
「恐らく、比べ物にならない位、強敵だと思います」
四方が幸甚に答えた。
「厄介なものを敵に回しちまったな」
幸甚は頬を強張らせると、苦悶の吐息を吐いた。
「しかし、宇古陀も大した奴だな。さっきの斬撃を目の当たりにしても悲鳴一つ上げやしない」
幸甚が、ずっと椅子にふんぞり返っていっる宇古陀を、感心した面持ちで見た。
「残念ですが、そうでもないですね。宇古陀さん、眼を開けたまま失神してます」
四方が苦笑いを浮かべながら宇古陀を見た。
「おい、宇古陀! いつまで寝てるつもりだっ! 」
つぐみの平手打ちが宇古陀の頬に炸裂。結果、彼は更に深い眠りについてしまった。
「つぐみ、早く起こさないと。おぶって帰るのは嫌ですから」
四方は困惑しながら冷ややかな笑みを浮かべると、つぐみにそう声を掛けた。
と、不意に四方の携帯電話が鳴り響く。
「誰だろ・・・あ、紫条さんだ」
四方は電話を吊和にすると、急に表情を曇らせた。
「何かあったのか? 」
つぐみが眉を顰め乍ら四方に声を掛ける。
四方は大きく吐息をつくと、重い口を開いた。
「成沢さんと千歳さんが殺された」
四方が暗い表情で答える。
「成沢と千歳が――何故? 」
幸甚が眉間に皺を寄せながら叫んだ。
「何故だかわかりませんんが、事故物件の現場に三人で居合わせたそうです」
「訳が分からん」
幸甚が苦悶に表情を歪めながら首を横に振った。
彼には合点の行かぬ話だった。幸甚と喧嘩別れした成沢が、彼の関係者と接触していたのは不自然であり、意外な話だった。
「閏間は、無事なのか? 」
幸甚が心配そうに四方を覗き込む。
「閏間さんは無事の様です。ただ・・・」
四方が言葉を閉ざした。
「ただ? 」
幸甚が、緊迫した顔つきで四方を凝視する。
「現場検証している知り合いの刑事さんから極秘の依頼が入ったんです。大至急、彼女の着替えを持って来るようにと」
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