第70話 提案
アイネとトッドが2人きりで向き合ったのは、恐らく1年振りくらいになる。
メリーを遠征に連れて行かないよう懇願した日以降、親子の溝は底が見えない程に深まってしまった。
会話がなく、ご飯は各自で食べる。食器や椅子、消耗品に至る全てのものを、個人で管理するようになった。
そんな日々は、さながら同じ家に住んだ赤の他人のようであった。
「御免なさい、お父さん。御免なさい、御免なさい。だから、叩くのは止めて」
しかし、幾ら嫌悪しようと親子である事実は変わらない。彼を「お父さん」と呼ぶのは、それを受け入れているからだ。
1人で生きて行けないことをアイネは知っている。今でも彼を頼るしかなかった。
丸太に腰を落としたトッドは、裏に隠していた訓練用の剣──木刀を手に持っていた。膝を小刻みに揺らして苛立ちを露わに、アイネを見ている。
まるで仇を見るかのような眼だ。
彼は立ち上がると、先ずは一振り──アイネの右腕に木刀をぶつける。
躊躇はなかった。
「お前はいつもいつも、楯突いて!!」
そう怒鳴って、また一振り。
アイネは魔力で身体を覆うことはしなかった。
これ以上彼を怒らせれば、もっと酷い目に遭う。そんなアイネの経験が、彼女をそうさせていた。
呪いのような雲が渦を巻いて、真っ白な月を覆い尽くす。一本の松明の火が、木刀の風圧で何度も何度も揺れ動いていた。
御免なさい御免なさい、と小さな叫びは、やがて聴こえなくなっていく。
涙はそもそも誰の眼にも映らない。
最後のひと突きは、アイネの溝落ちに深く食い込んだ。
吐き出すような嗚咽をしたアイネに向かい、トッドは言う。
「お前を生ませるべきじゃなかった。お前の母さんが死んだ理由、そういえばちゃんと言ってなかったな──」
「お前を生んだ所為で、血を失い過ぎたんだ。お前が母さんを殺したんだ」
トッドは木刀を捨て、松明の灯りを消す。
「帰ったら奴隷商に売り飛ばしてやる」
暗闇にアイネを取り残して、彼は去って行った。
「ゲホッ、ゲホッ──」
アイネは立ち上がると、そこにはキャビーが立っていた。
幻覚なのかも知れない。
そう思ったが、彼女の身体は勝手に動いていた。
疲れた身体を全て彼に預ける。
それを彼は受け止めた。
──幻覚では無かった。
頭を撫で「良く頑張った」とキャビーが言う。
終始様子を伺っていた彼が手を出さなかったのは、オエジェットに止められたからだ。
「親子の確執はいずれ取り除かねばならない。私の見立てでは、これが最後になるのではないかな」
と、キャビーには理解出来なかったが、オエジェットは言っていた。
「アイネ、安心しろ。メリーは必ず私が守る。それが私の使命だからな」
「有難う、キャビー……有難う──」
アイネはカラカラに乾いた喉で、礼を伝える。
それから鼻を啜った。
「アタシのお母さん。アタシを生んだ直後に死んだんだけど──アタシの所為だって、お父さんが言ってた」
「アタシ、生まれない方が良かったのかな」
アイネは涙ながらに、それでも笑っていた。
もう今更取り返しの付かないことだ。そんな事を言われても、どうしようもない。
笑うしかなかった。
「人間は大嫌いだ。しかし、お前は生きていてもいい人間だ」
「……ふ、ふふっ。何よそれ」
死んでいい人間は、これでまたはっきりとした。
──お父さんが死ねば良かったのに。
闇が彼らを隠し、その殺意は誰に気付かれることもなく、静かに肥大していった。
「でも、有難うね」
キャビー、有難うね。
★
朝。
キャビーはひと足先に眼を覚ました。
アイネとクィエはメリーに寄り添うようにして寝ている。
不思議と嫌悪感を抱かない。
魔族として、これはどうしたものだろう。
キャビーはグッと伸びをしてから、医務室から出て行った。
早朝の森は自然発生した霧に包まれている。枝葉の少ない木々達だが、目視で先を見通すことは難しい。
ふと、黒いものが見えた。
やや大きめなそれはキャビーの視界に入った途端、すぅっと霧に消えてしまう。
見間違いにも思えたが、それにしては輪郭がはっきりしていた。
首を傾げていると、
「おや。キャビネット君。早いね」
肩を回し胸を張り上げ、そんな仕草をするオエジェットが話し掛けてきた。
既に彼の存在は探知していたが、謎の仕草についてキャビーは尋ねてみる。
「何をしているんです」
「ああ、これかい? 最近朝になると身体が痛くてね。準備体操だよ」
そう言いつつ、彼は屈伸を始める。
「ふーん……準備って何のですか」
「ランニングかな。あ、そうだ。キャビネット君もどうだい? お咎め様の森を走るのは、貴重な経験だよ」
「まぁ。別に構いませんが……」
何か企んでいるのだろうか。オエジェットは何処かわざとらしく提案してきたように見えた。
彼は準備体操を終え、「よし」と気合いを入れる。
「君はもう走れるよね。若いのだから」
「若さって関係あるのですか?」
率直な問いにオエジェットは眼を丸くして、笑い始める。
「どうして笑うのですか。普通歳を重ねれば強くなる筈です」
「ああ、すまない。確かにそうだね──」
彼は続けて、
「魔族の『普通』では、そうだろうね」
と、含みのある言い方をする。
「何が言いたいんですか」
オエジェットの見透かしたような双眸に、苛立ちを覚える。
キャビーは負けじと睨み付けても、オエジェットが引くことは無かった。
仕方なく眼を離して、さっさとランニングをするよう提案する。
「そうだね。皆んなが起きる前にひとっ走りと行こう」
そうして、オエジェットに並走する形でランニングが開始された。
先ずは川に沿って走る。流れの緩やかなそれは、水面に対岸の景色を映している。
ポチャンッと魚が跳ね、川を登っていく。
当時は見ている余裕がなかったが、川の底には綺麗な水草が生えていた。そこに潜む生物や、上から狙う生物──まるでミニチュアの森だ。
こんな所にも生態系が成り立っているとは、驚きだった。
川底に集中していると、唐突にオエジェットが語り始める。
「私はね、この森が案外好きなんだよ」
彼は大きく腕を振り、脚もまた大きく上げていた。
隣で異様な走り方をする大人が居るのはさて置き、キャビーは話を広げないよう適当に返事をする。
「そうですか」
「何故だか分かるかい?」
「興味ありません」
「ここが危険な場所だからだよ」
頑なに彼は喋り続ける。
「私はファントムロンド隊の3代目の隊長でね。それまでは王都で、訓練兵を育成していたんだ」
「それはもう暇でね。私はこう見えて戦いに飢えているんだよ。勿論、立場は弁えているつもりだがね」
「私は隊長よりも──」
話が長引きそうなのを察し、キャビーは口を挟む。
「一体何の話ですか。もう、うるさいですねぇ」
「はっはっは。自語りは黙ってさせておくものだよ。それが世渡りのコツさ」
「意味が分かりません。要約して下さい」
「ふぅむ。では、本題を話そうか──」
オエジェットは大袈裟に上げていた手脚を下ろし、ややスピードを落とした。キャビーもそれに合わせて脚を落とす。
「メリーをどうしたい?」
昨夜、キャビーがメリーに対して言及することは無かった。
オエジェットは彼の願望を知りたいのだ。
「連れて帰りたいです」
「まぁそうだろうね。レイスから聞いたよ。それが君の任務だったかな?」
「はい。邪魔するなら殺しますよ」
「それは怖い。だが、村の安全を任された身だからね。看過出来ないんだ」
「先程、危険が好きと言っていたじゃないですか」
「おっと君は鋭いね。実は危険を承知でメリーを連れて帰るのも一つの手だと思っているんだ。今のやり方──遠征では時間が掛かり過ぎる。奴隷や兵士の浪費も激しいしね」
「だったら良いじゃないですか」
「でも、安全を守る立場だからね。正に板挟みの状態だ」
はっはっは、と彼は高らかに笑った。
「その笑い方、ウザいです」
「つまり、何が言いたいかと言うと。安全を犠牲にしても良い魅力的な提案が欲しいんだ」
「それを私にしろと言うのですか」
「まさか。私から君に提案するよ」
自然と脚が止まり、互いに向かい合う。
「キャビネット君。兵士になる気はないかな?」
「はい?」
「君はかなり危うい存在でね。王国にとってもね」
「だから、監視出来るようにってことですか」
「いやいや、違うよ。さっきも言ったように。私は危険が好きだ。君がいれば、楽しめそうだと思ったんだ」
「……もう、良く分からない」
「王国に仕える気はないか? そうすれば、メリーを連れて帰ろう」
オエジェットは膝を曲げ、キャビーに手を差し伸べる。
「勿論、断ります」
彼はその手を弾いた。
「うーん、そうか。残念だ。しかし、メリーはどうするんだ?」
「ここで貴方を斬り殺せば、後は雑魚しかいません」
キャビーは構える素振りもなく、手を突き出す。その過程で刀を異空間から取り出した。
大した威力は出ないが、無防備な相手であれば致命傷になり得るだろう。
刀はオエジェットの身体を貫通し、彼はボヤけて消えてしまった。
「くそっ──」
オエジェットは幻影だった。
一体いつからだ。
キャビーは即座に周囲を警戒し、オエジェットの姿を探す。
しかし、肩が叩かれた。
「動がないように」
キャビーの首筋に冷たい感触があった。
隠し持っていたナイフだ。
「キャビネット君。今の君では私は倒せないよ」
「うぅぅ」
キャビーは刀を異空間に仕舞い、手を上げる。
「そうですね。痛いのは嫌なので、斬らないで下さい」
「はっはっは。私の提案を受け入れるかい?」
キャビーは奥歯を噛み締める。
オエジェットが居る以上、彼に従うしかなかった。
とはいえ、
「分かりましたよ。但し、私は忙しいので。行かない時もありますからね」
「それで構わないよ。正式に入隊し、王国の危機にさえ手を貸してくれればいい。君の自由は、この私が保証するよ」
兵士になるのも悪くないと思った。
決して王国に仕える為じゃない。
王国を内部から疲弊させるには、兵士という身分は都合が良い。かも知れない。
王国を弱らせた暁には、生きている筈のネィヴィティに託せばいい。
ファイから貰ったこの身体ならば、可能だ。
「それじゃあ、交渉は成立だね」
オエジェットは改めてそう言うと、手を差し伸べる。
彼の得意気な笑みに、キャビーはやはり腹を立てた。差し伸べられた手は、強く払われるのであった。
『作者メモ』
取り敢えず、メリーは連れて帰ることになりましたね。
さて、本当に連れて帰ることが出来るのか。彼らに黒い怪物が迫る。
それはそれとして、もう少しでファイさん登場です。遅すぎるて……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます