第35話 出発

 頬に何かが触れた。



 キャビーの目蓋が持ち上がると、黒い蝶は闇の中に溶けていく。



 いつの間に眠っていたのか──もう時間が来てしまったらしい。



 額の先には母の顔があった。

 温もりは彼女の体温から来たものだ。

 キャビーは寄り添うように眠っていた。



 腰に当てられた母の腕を退かし、彼は布団から抜け出す。彼女の穏やかな寝顔を一瞥する。



 今ならまだ、母を殺害することが出来る。先程は会話をしてしまったが為に、情が湧いたのだ。



 異空間からナイフを取り出そうとするが、それは現れなかった。



 そういえば、ナイフを閉まった記憶がない。彼は冷え上がるような感覚を覚える。



 ナイフを落としてしまったきり、回収し忘れていた。



 ──マズイ。



 辺りを懸命に探してみても、ナイフは見つからなかった。



 焦りが脚の先から膨れ上がってくる。喉から溢れ出てしまいそうだ。



 ナイフを最も見られたくない存在──それは当然、母だ。



 死ぬのが怖いと言っていた母が、まさか息子に殺害を企てられているなんて。



 知られた暁には、慄き、見放され、罵られる。



 魔族として生まれた瞬間──両親から見放された彼は、本能的に思ってしまう。



 それがどうしようもなく怖い、と。



 ──いや、まだナイフは彼女にバレていない。



 バレていたならば、先のようにキャビーを受け入れて眠っている筈がない。



 やはり、まだナイフは彼女に見つかっていない。



 眠っている彼女らを起こさないよう、慎重に探して回る。しかし、見つからなかった。



 キャビーは諦めて寝室を出ることにする。

 扉をゆっくりと締め、彼女らに別れを告げた。





 自宅から出れば、



 「コツンッ」と独特な鳴き声をしたスズムシの一種が出迎えてくれる。それはまるで星が落っこちたような音を鳴らし、「夜の泣き声」と呼ばれていることを母から教えてもらった。



 そんな夜は雲ひとつない満開の星空だ。時々流星が瞬いて、本当に泣いているように見えた。



 キャビーは、ランタンを持った見回りを掻い潜り、所定の馬車を目指す。



 5台の馬車がカタリナ村の門の開放を待っている。彼は最後尾の荷台に乗り込んだ。



 そこは沢山の荷物が積まれ、彼はよじ登って奥へ進んでいく。


 

 幻影魔法対策なのか、二箇所設けられている小窓すら外側から閉ざしており、中はとても暗い。



 唯一の明かりは、荷台の入り口から入る僅かな月光だけだった。



 キャビーは最奥に到達すると、小さな隙間に潜り込む。すると、悲鳴が聞こえた。



「アイネか?」



「キャビー!? あーもう、びっくりさせないでよ」



 アイネが眼と鼻の先に居た。彼女は物陰に隠れて、ひっそりと座っている。



「ちょっと何処触ってんの。変態」



「狭いんだ。もっとそっちに寄れ」



「もう無理だって、リュックもあるし──って、ちょっと引っ付かないでよ」



「煩い人間」



「アンタだって人間でしょうが!!」



 キャビーとアイネは肩を寄せ合い、座ることになった。木箱に掛かっている布を布団代わりに温まる。木屑の匂いが鼻をついた。



「寒い」



 少しだけ、そう感じた。



「だ、だったら、もっとこっち来なさいよ……温め合えばいいじゃない」



「いい」



 キャビーは即答で拒否し、膝を抱えて一人丸くなった。



「な、なんなのよ……」



 アイネも同じように膝を抱える。眼を閉じてみるが、眠れそうになかった。



「──アンタさ、眠れた?」



「少しだけ」



「いいなぁ、アタシなんか全然。お父さんともまた喧嘩したし……ほんっと最悪」



「そうか」



「ねぇ聞いてよ──」



 と、眼が冴えているアイネは、溜まりに溜まった父の愚痴をキャビーに聞かせる。



 メリーが解雇されてから、そしてトッドがファイに暴力を振るってから、アイネは父との折り合いが悪くなった。



 特にここ最近は口も聞いていない。



 昨晩は、父と分けて管理していたアイネ用の食器を、彼が故意に使用してしまったのだ。



 2人の口論は長引き、決着が付かないまま現在に至る。



 キャビーはアイネの愚痴を、ウンザリしながら聞いている。聞けば聞くほど、元々低かったトッドへの好感度が下がっていく。



「父親という存在は、どいつもそんな奴なのか?」



 王都に居るらしい父と、トッドを重ねる。もし父という存在が、皆トッドのような人間だとすれば、直ぐに殺してしまうかも知れない。



「さぁね。アンタのところはどうなのさ」



「私は父上に会ったことない」



「えっ、あ、そっか。ごめん……」



「なんで謝る」



「いやだってほら……はぁ。アタシもお母さん居ないから、そりゃ分かるよ」



 アイネはキャビーの肩に手を回す。しかし、その手は彼によって弾かれてしまった。



「なっ──!」



「気安く触れるな」



「ア、アンタねぇっ!?」



 すると、荷台の入り口付近で物音がした。



 キャビーは咄嗟に、アイネの口を抑えた。



「うぐぅ──」



「静かにしろ。何か居る」



 「空間」を司る闇魔法。キャビーは触れてさえいれば、障害物の先の空間を感知することが出来る。



 あらゆるところに手を触れてみて、外の気配を探ろうとする。



 だが、先程の物音の犯人を見失ってしまった。



「消えた……?」



 言った途端、図上から物音がした。



 2人は咄嗟に見上げる。



 木箱に掛けられた布のカバーから、振動として、それの動きが伝わってくる。



 やはり何かが居る。



「キャビーぃ」



 アイネは息を殺し、キャビーに身を寄せた。



 それが真上まで来ると、ドサッと落ちてきた。



 思わずアイネが叫ぶ。



「──きゃあっ!!」



 キャビーは、膝の上に落ちてきた物体を確認する為、手を触れてみた。



「お兄様ぁ!!」



「クィエかっ??」



 正体は、やや身長の高い3歳の少女──クィエだった。彼女は兄の名を呼び、狭い空間にも関わらず、飛び付く。



「お兄様ぁっ!!」



「……え、クィエちゃん?」



「クィエ、お前どうしてここに──」



 クィエは兄に頭突きを繰り出しながら、問いに答える。



 彼女曰く、兄が荷台に乗り込んだ姿を遠目から見ていた。



「それでお兄様に言われた通り、クィエ水用意してきた」



 銀色の小さな水筒が、彼女の首にぶら下がっている。水筒の中身には、彼女の魔力で生成された水が入っており、いつでも氷の防御壁を作ることが可能だ。



 無から氷を生成する際に、彼女は霧の展開を必要とする。そのの応急的な対策を、キャビーは教えていたのだ。



 要約すると、一旦家に戻り水筒を用意してから、ここまで来たとのこと。



 それで、兄を追って来た理由を問うてみると、彼女は当たり前のように言う。



「お兄様が居たから、だよ? ──お兄様はこれから冒険に行くのぉ?」



「ま、まぁそんなところだが……」



「ク、クィエちゃん……貴方が来たらファイさんはどうするの!?」



 アイネの言葉は、クィエの機嫌を損ねるだけだった。



「お前の質問にはクィエ答えない」



「えっ、嫌われ方が凄いんだけど。なんでぇ?!」



 本来、母を殺害していれば、クィエも作戦に連れて来る予定だった。しかし、それは失敗に終わった。



 だとすれば、今自宅に居るのは母1人だけだ。



「クィエ、お前は帰れ」



「いやっ!」



「私の言うことが聞けないのかっ!」



 語気を強めて言う。しかし、クィエは兄にしがみ付き、頑なに離れようとしない。



「んんんぃやっ!!」



「このっ──」



「ちょっとっ、キャビー!」



 キャビーは手を振り上げていた。アイネはそれを直感的に察知し、彼の腕を掴む。



「暴力はやめよ? ──ね?」



 アイネの手を払い、キャビーは腕を下ろした。舌打ちが飛ばされる。



「ねぇクィエちゃん。聞いてくれる?」



 アイネは言う。たとえ聞いてくれなくとも、彼女は伝えたい。



「アタシたちはね、今から本のちょっとだけお出掛けするの。直ぐに戻って来るからさ。クィエちゃんはお家で待ってよ?」



 アイネの問いには、やはり答えてくれない。



「クィエ。アイネの質問に答えろ」



 そこで兄に言われて、クィエはやっと口を開いた。



「クィエも行くもん」



「駄目よ。ファイさんを1人にしちゃ可哀想でしょ?」


 

 それについては、万が一のことも含まれているのだ。



 キャビーも続けて言う。



「そうだ。母上は私を探そうとする。お前も居なければ尚更だ。だから、お前は母上の相手をしてやれ──さ、寂しがるだろ……」



 最後はボソリと付け足した。



 クィエは兄から諭されても、強情だった。何度も何度もグリグリと、頭をドリルのようにし彼女は拒否の意を示す。



 キャビーとアイネは、見えないながらも顔を見合わせ、溜息を吐いた。



「──クィエ、分かった。お前が来ることを許す」



「えっ、キャビー!?」



 クィエは頭のグリグリを止める。



「帰さなくていいの?」



「コイツは私よりも強い。力が必要になるかも知れない」



「で、でもファイさんは……」



「私の知ったことではない」



 良く考えれば、クィエは魔族として育て上げた。誰が何と言おうと、彼女はキャビーのモノだ。



 ここまで来て母に惑わされるのは、魔族としてのプライドが許さない。



 彼女を殺せなかったからといって、決して人間の味方になった訳ではないのだ。



「キャビー、さっきと言ってることが──そんな、ファイさんを1人に……?」



「ああ。何か問題があるのか?」



「お、大アリよぉ。だって、そんな……ファイさん」



 狼狽えるアイネはさて置き、キャビーはクィエの頭を鷲掴みにした。



「おい、クィエ。着いて来るなら、今から言うことを良く聞け」



「あい」



「私の言うことは絶対に聞くこと。自分の身は自分で守ること。私は絶対に手を貸さないからな──最後に、アイネを守ってやれ。こいつの生存は、任務の達成条件に含まれている。いいな?」



「分かった!」



 クィエはニンマリして、即答する。



「ほ、本当に分かっているのか?」



 そうして、クィエの同行が確定した。



 だが、アイネはやはり気が進まないでいた。



 同意の上とはいえ、アイネ自身が彼を連れ出したに他ならないのだ。その上、クィエまで来ることになった。



 ファイに対しての罪悪感が特に膨らんでいく。


 

 彼ら兄妹を命に変えても守らないと──そんな責任感も押し寄せてくる。たとえこの中で一番足手纏いだとしても、この中で森の怖さを一番良く知っているのは、彼女なのだ。



「ねぇキャビー……?」



「クィエ。さっきから主人の上に乗って、良い度胸をしているな、お前」



 クィエが上から落ちた先は、キャビーの膝の上だ。その場所が気に入ったのか、遠慮なく彼の上で甘えている。


 

 キャビーからそんな叱責を受けても尚、退く素振りは見せない。とはいっても、兄の存在は怖いので──



「お兄様、好き。クィエ、お兄様が好き。すぅきっ」



 そう言って、兄の機嫌を取ろうと画策するのだ。



「ねぇ、キャビーってばっ」


  

 アイネは彼の肩を叩いて呼ぶ。



 どうしてももう一度、尋ねておきたいことがあった。



 キャビーは面倒くさそうに返事を返す。



「何だ、煩いな」



「あの……っ。ほ、本当にいいのかなって」



「何がぁ」



「何がって……この作戦を、キャビーが手伝ってくれることよ」



 対し「別に」と彼は簡単に返してくる。それがまた、アイネの不安を煽るのだ。



「ファイさんは……だ、大丈夫なのかな」



「母上なんて知らないし──」



「ど、どうして? 喧嘩でもした……?」



「してない。もう放っておけ」



 母のことを忘れようとしている──そんなふうにアイネからは見えた。



 それは言い換えてしまえば、母に対して何か思うところがあるということ。決して母が嫌いな訳ではない。



「キャビー……無事に帰って、一緒に謝ろうね」



「煩い奴め。お前こそ、トッドはいいのか?」



「えっ……? どうせアタシが居ないことに、昼まで気付かないし──探そうとしないだろうし……」



「あっそう…………そうだ。おい、これが終われば、お前は私のモノだからな。忘れるなよ」



「わ、分かってるわよ」



「お前には、私の子を生んで貰う」



「わ、分かったって! もう態々口に出さないでよ、エッチ!」



 すると、クィエも兄の子を成したいと言い始めてしまい、アイネによる教育が静かに行われるのだった。





 出発時刻間近になると、徐々に人の気配が増えてきた。兵士達の雑談に時折笑い声が含まれ、和やかな雰囲気が感じられる。



 アイネとクィエは、耐え切れず眠ってしまっていた。そんな2人の体重が重なる。



 外の状況を、闇魔法で確認してみる。



 外に20人程度の兵士。そして、40人程度の奴隷が並んでいる。点呼を取っているようだ。



 兵士にとっての奴隷は消耗品と同じだ。奴隷は、まるで家畜のように鎖で繋がれていた。



 和やかな兵士に比べ、奴隷は不安気な様子を漏らしている。だが、彼らの恐怖に耳を傾ける者は居ない。



 その奴隷の中にメリーが居る。



 流石に見分けは付かないが、順に馬車へ積み込まれていってしまった。



 既定時刻となり、カタリナ村の門が開けられた。



 本作戦の指揮を取るオエジェットの合図で馬車が動き出す。馬に乗った兵士が周囲の警戒を担当している。



 どうやって幻影魔法を突破するのか。



 キャビーは外の様子を逐一確認した。

 


 しかし、馬車は至って普通に直進している。



 予め顕現魔法で生み出しておいた鷹は、幻影魔法の影響を現在も受けている。



「やっぱり馬に秘密がありそうだ」



 既に幻影魔法の渦中に居るにも関わらず、馬車は問題なく直進を続けている。



 それからというもの、止まることなく移動が続いた。キャビーは途中まで起きていたのだが、子供の身体に訪れる睡魔にはやはり勝てず、とうとう眠ってしまうのだった。



 眼が覚めた時──



 馬車は何者かに襲われた後だった。



『作者メモ』


 御免なさい。冒頭で出発しませんでした。


 最近句点の数を減らしています。前は読み易いかなって思って多く付けていたんですが、不必要な箇所にまで入っていると気付きました。他者さんの作品を見ても、割と句点少ないですし。


 13万字にして、やっとお咎め様の森に出て行きました。ここからは想像力との勝負になるので、頑張ります。


 改稿作業は進んでますが、若干話の順序を変えている為、悩み中です。

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