第34話 殺害
「二人きりになるの、久しぶりだね」
滴るような月明かりに満たされた寝室。
そこはまるで水中に居るようだった。
泳ぐ魚は居らず、波もたたない。しかし、この静けさは今日に限って何処か居心地が悪い。
キャビーはぎこちなく、母の言葉に返した。
「は、はい……」
そんなキャビーに眼を落とす。左隣で座る彼の柔らかそうな丸い頬から、少し緊張が伝わってきた。
「今ならお母さんを一人占め出来るね」
なんて、ファイは言ってみせる。
クィエが生まれて、構ってあげられる時間が減ってしまい、申し訳なく思っている。寂しくないか、不満がないか、ファイは彼の望みを僅かでも知りたかった。
「えっ、と……?」
母の言葉に困惑を隠せない。キャビーは手持ち無沙汰な左手で、首を掻いた。
「キャビーちゃん」
「……なんでしょうか」
「誰も見ていないよぉ……?」
「だから何ですか」
「……何して遊ぼっか! またお話聞かせてあげよっか?」
「いえ、別に──」
「そ、そう……じゃあ、どうしよっかなぁ」
ファイは考える。
すると、キャビーがそっと頭を倒してきた。二の腕に頭がぶつかり、息子の重さを感じる。
「これだけで十分ですから……もぅ」
「う、うん。分かった」
キャビーの右手が直ぐ近くにある。ファイは、彼のことを確かめるように触ってみる。柔らかくて、細い。でも、少しずつ力強い身体になってきているのは確かだ。
それが嬉しくもあり、寂しくもある。
「筋肉、付いたね。いつの間に立派になっちゃって」
「はい、まぁ」
「アイネちゃんも──」
ファイは言い掛けて、言葉を遮った。
ファイは、キャビーとはまた違った居心地の悪さを感じていた。
この場に潜む奇妙なそれの正体──
心も身体も気付かぬ内に成長している。
息子の殆どを母は知らない。
その無知こそが、ファイに不安と焦りを与えているのだ。
思わずアイネの話題を出してしまったのは、キャビーから逃げてしまっている結果だった。
ファイはひと息吐いて、彼に尋ねる。
「キャビーちゃんは最近、兵士さんのところで凄く頑張ってるね。どう? 強くなった?」
「はい」
「どんなふうに強くなったの?」
「え、えっと……最近は、そうですね。課題だった攻撃位置の低さを、立体的な動きをすることで解決しました」
聞いて、ファイは大袈裟に笑う。
「まあ! 凄いわねぇ、キャビーちゃん。じゃあ、いつかお母さんにも見せてくれる?」
「えっ?」
「駄目なの……?」
「い、いえ、別に……いつでも見ればいいじゃないですか」
「ふふっ」
キャビーの戸惑いが分かって、ファイはクスリと笑う。そんな彼女に、ムッと顔を背けた。
彼の左手には、母を殺害する為のナイフが隠してあった。グリップに力が込められる。
「なに恥ずかしがってるの? 可愛いなぁ、もう」
「か、可愛い……っ? やめて下さい、可愛いは」
「どうしてぇ? お手手も小さくて、とっても可愛いよ?」
ファイの手が、また右手に触れようとしている。彼は直ぐに手を引っ込めた。
「可愛くありません。これでも悩んでいるんです」
「そ、そうなの……? ごめんなさい……」
「別にいいですけど」
ボソッと彼は言った。
「ねぇ、キャビーちゃん。じゃあ、お顔見せて?」
キャビーは倒した頭を元に戻し、顔を背けた。
「ちょっと何で逃げるの? 見せてよぉ」
「な、何ですか、さっきから。もぅ」
「キャビーちゃんのお顔が見たいの」
「そんなの、いつも見ているじゃないですか」
「今も見たいの!」
「むぅ」
キャビーはぶつぶつと文句を垂れつつ、ファイに顔を向ける。月光が湿った母の顔は、星空のように輝いている。
「リトが言ってたの。私とキャビーちゃんは、凄い顔が似てるって。キャビーちゃんはどう思う?」
「わ、分かりません。鏡を見ないと」
「ふふっ、確かにそうだね」
「もういいでしょ」
と、キャビーは母から眼を離した。
「えーいけず。じゃあ、頭こっち。戻ってきて」
ファイは手招きする。キャビーは溜息を吐いて、彼女の腕に頭を倒した。
そうやって、暫く談笑する。
すると不意に、
「──いつまでも、こうしていたいね」
そう呟かれた。
彼女は知ってか知らずか、未来のことばかりを話してくる。キャビーにとって、彼女という存在は、過去のものにしたいのだ。
「いつまでも、というのは流石に嫌です」
「……そ、そうなのかぁ」
分かりやすく、ファイは肩を落とす。
「だって、私は大人になりたいのです」
「ええ〜、いいよぉ。キャビーちゃんは、子供のままで」
「悩んでいると言ったではありませんか。もぅ、早く大人になりたい」
「そ、そっかそっか。ごめんね」
ファイはやや寂しそうに言うのだった。
「でも、そうねよ。このままがいいって言うのは、親の我儘よね。私もキャビーちゃんの大きくなった姿は、見てみたいなぁ」
キャビーは何も言わず、ファイに頭を寄せている。
「きっと、カッコいいだろうなぁ」
そう言って、息子の未来の姿に想いを馳せている母。そんな彼女の嬉しそうな顔を横眼に見て、遂にキャビーはズキンッと、胸に痛みを覚えた。
そろそろ時間が迫っているというのに、さっきから──
彼は布団の中に潜り込んだ。もぞもぞと動き回る。
「キャビーちゃん……? 眠たくなったの?」
ファイの問いには答えず、布団から現れた彼は、彼女の腿に座っていた。
ナイフを背中に隠し、彼女と向い合う。
「突然な子ねぇ。どうしたのぉ?」
魔族の力になりたい。
魔族として生きたい。
魔王からの任務を遂行したい。
人間は嫌いだ。殺してやりたい。
これらは今も昔も、本心で間違いなかった。
ファイの胸に、キャビーの指先が触れる。
「キャビーちゃんのエッチ」
彼は順に、柔らかな膨らみを辿っていく。
やがて、心臓に訪れた。
触れた3本の指先から、激しい鼓動が伝わってくる。しかし、ファイの顔を確かめてみても、至って平然としていた。
キャビーは、彼女の心臓に手のひらを乗せた。
母のそれは、水面に立った波紋のように静かな鼓動を繰り返しているだけだった。
心臓を荒げているのは、自分自身だ。
「──どうして。緊張しているの……?」
ファイは、息子の胸に触れ返していた。
キャビーは眼を泳がせると、ミャーファイナルから教わった言葉を言ってみる。
「……エ、エッチな気分になってきました」
「──ぶふぉっ」
唐突な発言に、ファイはつい吹き出してしまう。
「ふふっ、キャビーちゃん。それ絶対使いどころ、間違ってるよ?」
「でも、ドキドキしています。みゃーさんから教わりました」
「な、何を教わっているの!? ──でも、実は私もドキドキしてるんだ」
「いえ、母上は静かです」
「そんなことないよ。キャビーちゃんが凄いから、そう感じるだけ」
「そ、そうなんですか……?」
「うん。ほらもっと近くにおいで。私を感じてみて──」
ファイは、自らの腿に座る彼を抱き寄せる。キャビーは腕をダラっと下げて、身体を預けた。
「今日は何か変だよ? 悩み事でもある? もっと甘えたかったり?」
母の呼吸、鼓動、音、匂い、感触──
その全てが自身と同調する。
最初からひとつだった気さえしてくる。
どうしてこれ程までに、心地良いのだろう。
キャビーは自分自身を否定するように、ファイから離れようとする。
「駄ぁ目っ!」
しかし、彼女は離さない。
キャビーは諦めて、母の首元に顔を収めた。暖かな体温がまた、冷たい殺意を惑わしてくる。
「母上、聞いてみてもいいですか?」
「良いよぉ」
一言一句を聞き逃さないよう、ファイは視覚をシャットアウトして、耳を傾ける。
キャビーは、静かに言う。
「死ぬのは怖いですか?」
それは唐突な問いだった。思わず聞き返す。
「……えっ?」
「どうですか?」
「えっと……どうしてそんなことを?」
「いいから答えて下さい」
「……そ、そりゃ、凄く怖いよ。誰だってそうじゃない? ──特にキャビーちゃん達に会えなくるのが一番怖いな、私は」
「死ぬと、もう会えないのですか……?」
「うーん、天国で会えたりって場合もあるのかなぁ」
「天国って、何ですか?」
「死後に行く楽園のことよ。そこは楽しいことばかりで、誰とでも会える。人間はそうやって死を受け入れるのね」
「なるほど──でも大丈夫です、母上。魂はもう一度、現世に返ってきますから」
「そうなの? ──じゃあ、また巡り逢えるのね」
ふふっ、ファイが笑う。そんな微笑が、キャビーからも放たれた。
彼女の脇腹には、既にナイフが突き立てられている。鋭く尖ったそれは、容易に皮膚を突き破り、内臓を傷付け、殺すことが出来るだろう。
キャビーの決心は、今固まった──
ファイという人間は、転生した8年間で特別な存在になった。これは認めざるを得ないだろう。
しかし、仕様がないのだ。
彼女さえ居なければ、これからは魔族としての人生を送れる。魔族の為に、人間を滅亡させられる。
彼女を受け入れてしまえば、人間としての人生を強いられるのだ。
やはり殺す以外の選択肢はない。
全てを達成すれば、またいつか会えばいい。彼女も今、そう言ったではないか。
また巡り逢えるね、と。
人間を滅亡させた後、ゆっくりとファイの魂を探せばいい。魂を感じ取ることの出来る闇魔法には、その力があるのだ。
「また何処かで」
キャビーの囁いた言葉は、夜の静けさが攫っていった。
キャビーはナイフに魔力を込め──突き刺そうとした。
しかしその瞬間、彼女が言う。
「やっぱり怖い」
「──母上?」
「私は、いつか、なんて要らない。もう一度巡り会わなくたっていい──私は今この瞬間を、貴方達と生きたいよ」
ファイは力強く、言ってみせた。
ドクンッと心が跳ねて、突き立てたナイフが落とされる。
「もう、そんなこと言わないで欲しい」
それはまるで、命乞いに似た何かだ。
キャビーは両膝で立ち、母の首に腕を回した。ファイにもたれ掛かるようにして、身体を預ける。頬が掠れ合い、彼女の冷たい耳元で顔を落ち着かせる。
「キャビーちゃん……?」
「少しだけ──」
「……うん。貴方が満足するまで、いつまでも──」
心臓の鼓動は、すっかり止んでいる。
彼女の言った通り、今は誰も見ていない。だから今日のところは、眼を瞑ろうと思う。
この失態は、無かったことにしよう。
なんせ、誰も見ていないのだから。
キャビーは母に身体を委ねたまま、眼を固く閉じた。
ファイは、ふと何かに触れた──それは月光に煌めくナイフだった。
『作者メモ』
この話は殆ど完成していたんですが、上手く纏まらず、今日一日ずっと考えてました。にも関わらず、出来はイマイチです。
もう少し明確にキャビーの殺意や迷いを描写したかったんですが、取り敢えずこれで投稿します。
次回冒頭でさっさと出発してもらいます。
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