第3話 人間の寿命

「なんでぇぇ? どうしてぇええ?」


 混乱、困惑、動揺――頭を抱え、身を捩っても、現実は変わらない。


 トッドの菓子店の二階にある居室。

 私はかつて二人で選んだ革張りのソファに座っていた。テーブル上にはエターナの花が飾られ、オーウェンが淹れた新茶が豊かに香っていたが、楽しむ余裕など微塵もない。


「わかんないぃ……っ! 三日で帰るつもりだったのに……五十年も時間が経っているなんて!」

「落ち着くんじゃ、リリアナ。経ってしまったものは仕方なかろう」

「うわぁあああん!! 口調まで変わってる――!!」


 涙が止まらないし、叫ばずにいられない。

 お爺ちゃんは確かにオーウェンだった。私の好みも、二人の思い出も、秘密のホクロの位置も知っていた。彼が箱から大切そうに取り出した恋文の束は、経年によりすっかり黄ばんでいたけれど、どれも見覚えのものだった。


 狼狽する私を横目に、オーウェンはどこ吹く風みたいな顔をして、紅茶に続いて焼き立てスコーンとジャム、クロテッドクリームをテーブルに並べた。

 頭を一撫でされて、カップを持たされる。彼の手は皺皺で、指は松の小枝によく似ていた。


「リリアナ、ほれ、飲みなさい」


 命令口調で促され、私はようやく紅茶に口をつけた。

 

「ムーンリバー農園の春摘み……」

「そう。五十年経っても、変わらずに美味しいじゃろう?」


 恋人が、皺を深くし、豊かな白髭を撫でながらニコニコ笑う。


(たしかに美味しいけどぉお……)


 目元の涙を拭って、こくりと頷いてまた紅茶のカップを傾ける。……どうして、こんなことになったのか。

 オーウェンは向かいに座って、暫し私の様子を笑顔で眺めたあと、「よいせ」と呟きながら立ち上がった。ソファ裏に回り、私の頸に触れる。

 

「――リリアナ、ここ、かぶれておるぞ」

「え」

「お前、道中で毒にでもやられたんじゃないか?」

「え、えっ……」


(毒……?)


 紅茶を飲みつつ必死に頭を巡らせる。

 朧げに霞む魔界での記憶を、出立から一つ一つ辿っていけば、だんだんと浮かんでくるものがあった。

 近道をしようと入った鍾乳洞で、飢えた一ツ目ヤモリの群れに襲撃されたこと。

 苦渋の決断でポケットのお菓子をバラまき、なんとか気を逸らして脱出したこと。

 ぜえはあしながら魔界樹の根元に辿り着き、ここなら安心だと寝転んだこと。

 そして何かが項にチクリと――――


「眠り、草……?」


 そうだ――うっかり失念していた。

 魔界樹の周辺は基本的には安全だが、極稀に特殊な草が生える事があるのだ。

 確か、その草の棘は、他の生き物を深い眠りに誘う毒を持つという――


「きゃあぁああ――――!」

「おお……。何か思い出したか」


 事態を理解して悲鳴が溢れた。

 束の間の休憩のつもりで五十年も寝入ってしまった原因が、まさか眠り草だったとは。うかつにもほどがある。

 私の話を聴いたオーウェンは、腕組みをしてふむふむと何度も頷いた。


「……なるほど。サキュバスは数十年の眠りで土に還るほどヤワでもないしのう……養分を得られなかった眠り草が枯れ、そのうちに毒も解けたのか」

「私の馬鹿っ、ばかっ、ばかぁぁー!」

「ははは、おっと」


 またしても頭を抱え、身を捩って暴れようとした私の両手を、オーウェンが後ろから掴む。


(――!!)


 きゃあきゃあ騒ぐ私をオーウェンが腕づくで落ち着かせようとするのは、これまでに何度もあったことだ。しかし、今感じる彼の握力は、若い頃と比べて明らかに弱い。

 胸が苦しくなって動きが止まる。

 オーウェンは飄々とした様子で手を開くと、今度はスコーンとジャムを塗るためのスプーンを私に握らせた。


「食べなさい」

「……はい」


 再び命令されてしまい、涙目でモグモグと頬を動かす。


「儂の手製のスコーンも、五十年前経っても、変わらずに美味しいじゃろう?」

「……変わってる……」

「ええ?」

「……すっ、すっごくぅ……ぉっ、おいしくなってるぅうう……! あぁああぁあ……!」

「あっはっはっはっは。なるほど、毎日作ってると気付かんものじゃな」


 外はサクサク、中はふんわりホロホロで軽い口当たり。ジャムはラズベリーと薔薇だろう。とろりと滑らかで芳しい。クロテッドクリームには金色をした乳脂肪の膜が生じており、ジャムと共にスコーンに塗りつけると更に美味しかった。

 もともとオーウェンの作るお菓子は絶品だったけれど、五十年の月日で、その腕前は驚嘆の域に達している。

 声高らかに笑うオーウェンは誇らしげだ。

 

(あと……、優しくなってる……)


 ――若い頃は、私のやらかしに怒気を露にすることもあったのにな。お爺さんになったオーウェンはずっと皺くちゃの顔でニコニコしている。

 胸がちくちくして、鼻の奥が軋む。

 それでも、紅茶を飲んで、甘いスコーンを齧るうちに、涙は少しずつ収まっていった。

 

「今更効くかどうかわからんが――一応、塗り薬を塗っておくかのう」


 棚から瓶を持ってきた彼が、かぶれ痕にぺたぺたと薬を塗ってくれた。


「むぐ……うぐ……」

「止まった涙がまた溢れそうじゃぞ。落ち着いて食べなさい、リリアナ」

「うう……」

「――――本当に心配したぞ。この五十年間、儂も色んなことをしたものじゃ」

「んっ」

「お前を探しに、アネリと共に魔界まで行ったこともあったわい」

「っ、ぐ」


 喉が詰まりかけた。慌ててスコーンを嚥下し、紅茶を一口飲んでから問う。


「人間っ、なのに……?」

「ああ。じゃが、第一層で引き返した。二層以降は魔素が濃すぎて、人間には耐えられん。……まあ、強行は試みたんじゃが。アネリに、死んだらそれこそ二度とリリアナに会えないぞ、と止められてのう。……思い直した」

「……そっか」

「そのうち、寂しい思いをして待つ事も――お前を想う事ではあるから悪くない……と、やさぐれ、もとい、開き直ってのう」

「うう」

「まあ、そうなるまでに、三十年くらい足掻いたわい」

「うううう」


 本当に申し訳なくなって縮こまる。

 するとオーウェンの腕が、後ろから私の体に回った。ぎゅっと抱き締められる。

 

「会いたかった。――――ずっと、こうしたかった」

「オーウェン……」


 白髭を蓄えた彼の頬が、私の頬にひたりと触れた。


(しわしわで、もじゃもじゃで、ひんやりしてる……)


 体感ではたった三日――本当は五十年の月日が、肌の心地も変えていた。それでも、ゆっくりと頬擦りをしあい、キスを交わす。

 唇伝いに感じる彼の生気は、すっかり老いて枯れた味わいだったけれど、間違いなく愛しのオーウェンのものだった。


(すき……)


 私はやっぱり、オーウェンが大好きだ。

 皺くちゃのお爺ちゃんになっても、格好いい。触れ合ってると胸がどきどきして、甘酸っぱい。大好きだって、全身に淡い電気がぱちぱち走る。

 精気をチロリと舐める程度に味わって、束の間、互いの体温を慈しみ合う時間を過ごした。


「……愛してる」

「儂もじゃ」

「……ねえ、人間の寿命って、正確にはどれくらいだっけ」

「平均して60年、長くても80年くらいかのう」

「――――」


 暢気な物言いに、心臓がひゅんと縮まる。

 私がエターナを摘みに旅立ったその日、オーウェンはまだ二十六歳だった。それから五十年が経過し、彼は今や七十六歳。


(人間の平均寿命、とっくに超えている……)


 オーウェンは足腰がピンピンしている。お店も元気に切り盛りしているのだろう。

 多分、他のお爺さんたちと比べたら、若々しい方なのだと思う。でも、それでも。


(いつ、死んでもおかしくない年齢……)


 現実を思い知り、悲しくて堪らなくなる。私はこの寂しさを、とても受け入れられない。

 目から大粒の涙がボロボロこぼれ落ちた。

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