第26話

 御神乱に包囲された香港は、静まり返っていた。もはや、そこは自由とは程遠い都市と化し、市民はテロリストにまるごと人質に取られているのも同然だった。

「出して―! ここから出して―!」「飢え死にしちゃうわよー!」「助けて―!」「誰か救いに来て―!」

 静まり返った香港の街に、あちこちの高層アパートから悲鳴にも似た叫び声が聞こえていた。

 それでも、たまりかねた一部の市民は、外に出て大騒ぎをしたり、バイクを盗んで暴走行為を行ったり、店舗を破壊したりして略奪行為をし始めていた。

 すると、そこへテロリストの集団がやって来て、躊躇なしに銃で暴徒を排除した。路上に横たわる市民を踏みつけて店に入り、手当たり次第に商品を持ち出すテロリストたち。このような光景は、香港のあちこちで起き始めた。


 和磨とチェンによる互いの情報共有と会談は、ひとまず答えにたどり着いていた。

「では、テロリストへの共闘。そのための人民解放軍と自衛隊の共同による突入部隊の編制。次に中国の日本による復興支援。それから、テロリスト掃討の為の突入部隊、人質救出の為の部隊、および被災地への支援部隊の行き来の為に自衛隊の中国領空への侵入許可。まずはこんなところでよろしいですか?」和磨がチェンに確認した。

「ええ、よろしくお願いします。軍部および諜報部の方には、あらかじめ根回しをしておきます」

「一つ確認し置きたいのだが、良いですか?」和磨が言った。

「何です?」

「先ほども説明しましたが、香港に入っている諜報部員の中には、日系アメリカ人のCIA部員がいます。当然、この作戦には少なからずアメリカも関係することになりますが、それでもよろしいですね?」

「ええ、構いません。こちらからもネオ・クーロンに諜報部員を潜入させますので……。日中米の共同作戦ということになりますね」チェンは、リアンとリウを見ながらそう言った。

「総理も、そういうことでよろしいですね」和磨が松倉に念を押した。

「ああ、時期を見計らって、私とチェン国家主席との共同声明として発表しましょう」

「では、ゲイル大統領には私の方から伝えておきますね」鹿島が言った。

「ああ、お願いします」


「希望ちゃん! 一体どうして……」真太が望みに言った。

「おそらくは、ストックホルム症候群ね」真理亜が言った。

「ストックホルム症候群?」真太が聞き返した。

「ええ、誘拐された少女によく見られることだけど、誘拐された男性に対して、人生で最初の恋に落ちる……」

「ええっ! そんな……」

「そして、おそらくは、ここの本当のボスは、芹澤希望ちゃん……」真理亜が静かにそう言いきった。

「えっ!」

「真太、スマホのビデオをオンにしておいて」

「さっきからずっと、オンの状態だよ」


 テロリストたちは、巡回警備と称して車やバイクで香港の街を暴れまわった。小銃やマシンガンを撃ちまくり、家に籠っている香港市民を威嚇した。耐えかねて外に飛び出した者は、見つかり次第射殺された。市民たちは、飢餓と死におびえながら沈黙するしか術が無かった。


 北京にいる俊作の元に、和磨経由の香港情報が入ってきた。

「和磨さんから香港の情報が来てます」リウがスマホを見て言った。

「香港のテロリストの主犯は……。えっ! そんなバカな!」

「どうしたんです?」俊作が聞いた。

「芹澤希望……、とのことです」

「は……?」


 ネオ・クーロン内の指令室、真理亜が希望に確かめた。

「あなた、芹澤希望さんよね」

「ああ、私は芹澤希望。芹澤昭彦の娘よ。今や世界でたった一人、光らぬ子。……そして、今はこの組織の総統」

「どうしてまた、そんなことに……」真太が聞いた。

「どうして……? 私のこれまでの短い人生をあなたたちに教えておきましょう」

希望は自身のこれまでの人生について語り始めた。

「私の父、芹澤昭彦は、著名な細菌学者でした。父は、どこから聞いたのかは知りませんが、大戸島の風土病のことを知り、大戸島にやって来たのです。今から二十年以上も前のことです。そして、そこで私の母親である朱里(あかり)と出会い、やがて結婚し生まれたのが、この私でした」

「父は大戸島の島民から採取したウイルスから、御神乱ワクチンを作ることに成功しました。そして、生まれたばかりの私にそれを摂取しようとしたんです。それは、私でなければならなかったのです。なぜなら、大戸島に来てまだ数年しか経っていない父は、まだウイルスに罹患していませんでした。母は既にキャリアーとなっていましたが、生まれた私は、父がキャリアーではなかったため、結果として、私も生まれたときには罹患していなかったみたいなのです。そこで、私にワクチンが投与されました。私がウイルスに罹患してしまう前に、なるべく新生児のうちにワクチンを投与しなければならなかったみたいです。父は、島の人たちを救うための研究だと言っていましたが、何のことはない、娘の私が実験台にされたのです。その後、やがて父も罹患していきました」

「ちょっと、待って。でも、それで希望ちゃんだって罹患しなくて済んだわけでしょう? 良かったじゃないの。お父さんに感謝しなくちゃ。あなたのその希望って名前は、島民の人たちの希望になるように名付けられたものじゃないの?」真理亜が言った。

「あなたには、何も分かっちゃいない!」

「え?」

「そのことによって、私がいかにひどい仕打ちを受けることになったか……。それが分かるか!」

「どういうこと?」


 中国国内では、各地で無政府状態が拡がりつつあった。中小企業ではデモが行われ、暴徒と化した民衆は町を破壊し、略奪行為を繰り返した。また、暴徒の鎮圧に出て来た警察隊と民衆による衝突が始め、都市によっては、それは数十万人単位の騒動になっていた。

 共産党の地方支部にいた役人たちは民衆によって引き出されて、彼らによる暴力を受けた。身の危険を感じた一部の役人は、いち早く国外へ逃亡し始めていた。

もちろん、怒りの頂点に達した人間は、いまだに御神乱になって人を襲うこともあり、これに対しても、警察隊や軍隊は対処しなければならなかった。


 希望の説明は続いた。

「私は、島で唯一光らない子になった。どんなに怒っても御神乱になることはない。小学校に上がったとき、まわりの子どもは、私に対してちょっかいを出したり、いじめたりして私を怒らせようとした。でも、他の子供たちは、なるべく怒らないようにしつけられていた。あの島では、皆が互いを怒らせないよう、同時に自らも起こらないように、うすら笑いを浮かべて生きていた。そこでは、自分を押し殺し、他人をなるべく傷つけないようとする抑止力が働いていたんだ。ところが、島にたった一人だけ、どんなことをしても光らない人間が出現した。どんなことをしても、どんなに怒らせても光らない人間が……。抑圧した周囲の怒りは、全て私に向けられた。私は……、島で唯一抑止力を持っていない弱き者であったのだ。私だけが抑止力を持っていないということが、どれほどの恐怖か、お前たちに分かるか?」

「何てこと……!」真太が言った。

「島で唯一光らない子は、島で唯一笑わない子になっていった。島で唯一、怒りを露わにする子でもあった。私は、毎日、壮絶ないじめにあっていた。いじめても光らないから、どれだけでもいじめられて怒らされていた。彼らにとっては、怒っている人間の姿を見るのが物珍しかったのだ。」

「同世代の島の親たちは、こう言った。『笑わない子とは遊ぶな。光らぬ人間はこの島の人間ではない。御神乱様に見放された子』なんだと……」

「まさしく私はやられ放題だった。朝、学校に投稿すれば、私の机はひっくり返されていた。そして、目を話せば、教科書やプリント類は、全て破り捨てられていた。トイレに呼ばれ、便器に顔を突っ込まれ、プールに沈められ、給食の中には唐辛子を入れられたしした」

「私に対する差別やいじめは、小学校を卒業してからもずっと続いた。私は、自分の身を守るため、怒りをぶちまけた、平気で言い返した。口げんかも暴力沙汰も絶えなかったが、学校は見て見ぬふりをしていた。まるで、腫れ物にでも触るように……。中学三年生のとき、川の堤に呼び出された私は、男子高校生からレイプされそうになった。しかし、帰宅しない私を不審に思った父がやって来て、ことなきを得た。父は、私を襲おうとしてきた男たちに対して、身を挺して守ったんだが、父が棒きれで高校生とやりあったとき、父は右目を負傷してしまった。彼らの持っていたナイフが目に刺さってしまったのだ。父のあの右目の負傷は、島民から私をかばってのものだ」

「そうだったのか……」真太がつぶやいた。

「あの島では、島民の全てが私の敵だったのだ。それでも、まあ、父母は私をかばってくれてはいたのだが……」

「……」声を失う真太たち。

「しかし、そんな両親をもってしても、私の島民との関係はどうすることもできなかった。父も母も、私にとって抑止力にはならなかったのだ。親は抑止力にはならないのだ!」「……まあ、もはや、今の私にとって、親に守ってもらおうなどとは思ってもいないし、守って欲しいとさえ思わないがな……」「さて、父とて、もともと大戸島の人間はない。異邦人だ。そこで、私が高校を卒業する歳になったとき、両親は、私を東京へ出そうという計画を持ち出した。そして、私を守るために、特別に三島須磨子に島へ出る許しをもらっていたんだ。あの島の人間は、島を出ることは許されていなかったが、抗体を持っている私は罹患してはいなかったからな」

「そうだったのか」

「いよいよ、あと何日かで島を出れるというときだった。あの事件が起きた」

「あの事件?」真理亜が言った。

「もしかして、核物質処理施設の事故か?」

「ああ。台風の為に出港が見送られていたのだが、あの事件のせいで、私が東京へ行く可能性は消えた。島が封鎖されてしまったからな。まあ、どっちにしろ、その後、東京は消えてしまったわけだがな……」


「このシェルターは、私の静脈認証でないと入れないけど、サオが再びここに来るといけないので、念の為、ここはさっさと引き上げましょうね。そろそろ、ルークさんの治療も終わってるかもしれないしね」中南海のシェルターの中、チェンが言った。

「クルムさんとルークさんはどうする?」

「とりあえず、夫の身体のこともありますので、日本まで帰らせてください」クルムが応えた。

「分かったわ。井上大臣に頼んで、自衛隊にここまで来させましょう」

「ありがとうございます」

「アディルとその部下……。あなたたちは?」

「カシュガルに戻ります。妻のことも心配ですし……、何よりもウイグルのことが……」アディルが言った。

「そうよね。あの軍用ヘリで帰る?」

「そうします」

「じゃあ、私もそれに乗っていっしょにウイグルに行くわ」チェンが言った。「そこの諜報員は操縦できるのよね?」

「はい」リアンが答えた。「しかし、一度上司に連絡しないと……」

「ズー・シン・イェン公安当局部長ね。私の方から連絡しといてあげるわよ」

「そうですか。ありがとうございます」

「じゃあ、残りはあなたたちね。どこに行く? 日本に戻る?」チェンは、リウと俊作に言った。

「香港に行きたいんですが……」

「ああ、そうね。あなたたちの仲間がまだ中にいるんだもんね。分かったわ。手配してあげる」

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