Act.8 ~狂ったままの歯車。欲望は一羽の小鳥を捉えた~

『桜子さん?すまないが今日、会うことは可能かな』


 新年を迎え、忙しさが抜けた頃。一通りの家事を終え、一息ついている桜子の元に一本の電話が入った。相手は護の父親だった。会話は短く、声色も深刻そうだった。自宅から護の父親がいる横浜まで距離はあるものの、天気は快晴。夕飯時までに戻る事を条件に護の父親の要望に応じ、横浜にある本社に赴いた。受付で名前を告げると既に話が通っており、社長室に案内された。


「突然呼び出して、すまなかった。どうしても桜子さんに頼みたいことがあってね」

「頼み事ですか?」

「簡潔に話そう。桜子さん、妊娠を偽装してもらいたい」

「…え、…何故そのような事を頼まれるのですか。普通に妊娠をすれば良い話なのでは…」

「それは桜子さんが知る必要の無い事だよ。それに君は避妊治療をしているじゃないか。贔屓にしている産婦人科医が話してくれたよ。そんな桜子さんが通常妊娠を希望とは…。どの口が言うのかね…。とても期待していたのに残念だ。これは私たちに対して最大の裏切り行為だとは思わないか?」


 部屋に入るなり、護の父親は畏まった様に話し始める。嫌な予感がする。桜子は咄嗟にそう思ってしまった。そして護の父親の口から放たれる内容に驚きを通り越して唖然とし、耳を疑った。満面の笑顔で護の父親が提示したのは偽装妊娠。しかも桜子に考える権利を与える事をせず、桜子が不妊治療として通っている産婦人科医が作成した書面を提示し、脅し始めた。嫌な勘は見事に命中した。『ああ、私はとんでもない家に嫁いでしまった。偽造妊娠なんて相談出来るはずがない』とほんの一部の本性を見せた護の父親が酷く、恐ろしいと感じた。

 護の父親が桜子に偽造妊娠の話を持ち掛けてから一週間が経った。しかしこの一週間は桜子にとって執行猶予と言っても過言ではない。護の父親が求めている答えはYES以外存在しない。仮にNOと答えた場合、YESと言うまで様々な方法で桜子を精神的にも肉体的にも追い詰める。護の父親はきっと暴力団か何かと関りがあるのだろう。そう考えてしまうのは、その行為を悪と感じない態度やこの数日、気を紛らわす為にYの本を味読していたからだろう。

 一週間とはいえ、食事も睡眠もままならない状態が続けば多少なりとも隈ができ、頬もこける。桜子は鏡に映る自分にため息を吐いた。本来、やるべき家事は護や落合家に仕える使用人に任せている始末。そして、この日は護の父親に回答を出す日。先程、護の父親から本社に来る様にと電話があった。断ろう。桜子は腹を括った。この先、どんな仕打ちが待っていたとしても、今回の提案はやりすぎだ。桜子はなけなしの体力で護の父親の元へ向かった。受付を済ませ、社長室に行く。しかし急な会議が入ったと言われ、社長室で護の父親が戻るのを待った。落ち着かない。当然だ。呼び出しが来るまで二人きりだった部屋の中。威圧的な空気を放つ対象が席を外したとはいえ、耐えられるものではない。その空間に耐えられず、桜子は吐き気をも要した。

 嘔吐まではいかないが念の為とエチケット袋になりそうな物を探す。しかし、ここは社長室。当然、見つかるはずもなく、嘔吐寸前に至ったら、ごみ箱にかぶせられた袋を借りよう。そう思い、ごみ箱の元へ行った。そこで桜子はごみ箱に無造作に放り込まれていた、茶封筒を見つけた。先程の吐き気は不思議と治まり、好奇心が湧いた。見てはいけないと脳内は判断をしているが体が勝手に動いてしまう。

生唾を飲み込み、中身を覗いた。そこに書かれていたのは雨宮遥に関する重要報告書。桜子は聞き覚えのある遥の名前に以前、護が仕事が出来る人と称賛しクリスマスの時、優弥と共にいた人物だった事を思い出した。好奇心は更に膨れ上がり、桜子は文章を読んだ。その内容に驚愕を覚えるも同時に十年前から抱いていた違和感の正体を知った。

 暫くして護の父親が戻ってきた。勿論、桜子は書類を元に戻した。護の父親の言葉は予想通りだった。だがその内容は頭に入ってこない。気づいた時には話が終っていた。自分自身がどんな返答をしたのか、その様な事は関係ない。ただ、護の父親の機嫌はいい様に見受けられた。つまり桜子は偽装妊娠に承諾した事になる。


*◇*◇*◇*


「遥先輩、もう飲みに行きましょ!!吐き出す速度が追い付かなくて溜まる一方です!」

「まだ言ってる…。でも今日は水曜日だから咲の所は定休日だよ…。ん?あれは桜子さん?」

「迂闊でした…って先輩、聞いてます?」

「ごめん、愛梨!一一九番に通報して!」


 昼食を終えた帰り道。未だ鬱憤が減らない愛梨は飲みに行く事を提案するが定休日という言葉に論破される。落ち込む愛梨。そんな愛梨を他所に遥はある人物に目が行く。その人物とは桜子だった。そして一瞬の出来事。桜子は崩れるようにその場に倒れた。遥はすぐに桜子の元へ駆けより、声を掛ける。愛梨に救急車の手配を依頼して、懸命に声をかける。同時に目の下に出来た青い隈を見つける。他所の事情、下手に介入をしてはいけない。頭では理解しているが一日、二日で出来るとは思えない酷い隈に唖然とした。

 暫くして救急車が到着し、第一発見者として救急車に同乗を求められた遥は「急病人の付き添いで早退するのと落合さんが外回りから帰ってきたらこの病院に来るように伝えて」と愛梨に伝言を頼んだ。緊急事態とは言え、愛梨が遥の立場なら、ここまで迅速な対応は出来ないと感心した。今更ながら何故、遥が県外から異動する程に評価を得たのか、その理由を理解した瞬間でもあった。


*◇*◇*◇*


「…ここ、は、まも、るさん?」

「桜子!良かった。知らせを聞いた時は焦ったけど、雨宮さんが近くにいて良かった」

「雨宮、さん?」

「そう、桜子が倒れるところを目撃して、すぐに救急車を呼んでくれたんだ。一先ず医師に目が覚めた事を伝えてくる」


 救急搬送されてから数時間後、桜子は無事、目を覚ました。病室には愛梨から連絡を受けた護がいた。桜子が目覚めた事に一安心をし、医師を呼びに病室を出た。桜子は現状を把握する事が出来ずにいた。混乱する記憶。最後の記憶は社長室。そこからどの様にして社長室を後にしたのか思い出せずにいた。

 医師が訪れ、桜子の容態を見た。結果、極度の睡眠不足と栄養失調と診断され、大事をとって二~三日の入院を要求されたが命に別状はない。医師の言葉に再び安堵の息をついた護。心配をかけてしまった。桜子は心を痛めた。そして、先ほど護が口にした雨宮という名前に社長室で見つけた茶封筒の事を思い出した。書類の内容を全て覚えているわけではない。同時に書類の事を遥に伝える義理もない。だが入院する事で偽装妊娠の実行は不可能となった今、護の父親が行動を起こさない事があり得るのかという確率を考えた。ならば、桜子が取るべき行動はただ一つ。書類に書かれていた事を本人に確認する。


「護さん。私を助けて下さった、雨宮さんとお話がしたいのだけど…」

「それは構わないが急に動いて大丈夫なのか?」

「お医者様も安静にしていれば大丈夫と仰っていたもの。それにどうしても、お礼が言いたいの」

「…分かった」


 目を覚まして間もない桜子の言葉に心配をするが礼を言いたいと言う言葉に同意した。遥と話す事が出来るのも今日だけと思ったからだ。そして護は遥を桜子の病室に案内をして、「彼女が雨宮さんだよ」と紹介した。遥は小さく会釈した。同時に桜子の顔色が良くなっている事に安堵する。そして桜子は「雨宮さんと二人で話がしたい」と護に伝えると少し渋い顔をするも了承をし、両親と連絡を取る為、病室を出た。

 この時点での護の心境は不安。桜子の体調もだが、遥との関係が知られないか。遥が自ら話すとも思えない。自分自身の迷いに答えを出す為に始めた不倫だが、その行いが遥を不幸にしてしまわないか。悪者は話を持ち掛けた護であって遥ではない。故に気が気で仕方がない。だが今の護が解決できる事ではない。百も承知。暫く待合室で考え落ち着いた頃、両親に電話をした。


*◇*◇*◇*


「…面と向かって話すのは初めてね。雨宮…いいえ、前園遥さん」

「…。どうして、その姓を知っているんですか」

「あの書類に書いてあった事は本当の様ね。この名前は護さんのお父様の、社長室で見つけた書類に書いてあったの。きっと探偵か何かを雇って身辺調査をしたのだと思う。勿論、私はその内容を見ただけ」

「探偵…、身辺調査って。それで私を今回のプロジェクトに…」

「…書類の内容で遥さんが護さんの元恋人である事を知ったわ。それと護さんと秘かに会っている事も。ねえ、遥さん話してくれない?私はあなたの口から真実を聞きたい」

「…分かりました」


 遥と桜子。二人だけとなった病室。最初に口を開いた桜子は遥の姓を雨宮はなく前園と言い直して呼んだ。そう、社長室で見た書類に書いてあった遥のもう一つの姓、前園と。一か八か。疑惑の真意を確かめる為に回りくどい方法など必要ない。その発言に驚き、震えが止まらない遥と確信を得た桜子。それは護の不倫相手が遥である事。

 遥が現在の会社に入社した事も、護と再会した事も、全ては偶然。同時に何故、恐怖を得るのか。身を、心を、支配していく感覚に苛まれる。十年前、護の母親に与えられた感覚と同じ。正しい行動も、選択も、分からない。だが桜子の提案は信用できる。遥をまっすぐ見つめるその瞳が全てを物語っていた。どう考えてもおかしい事ばかり、いくら仕事が出来るといっても異動から一年目の遥に大掛かりなプロジェクトチームに任命するはずがない。護の父親が用意した罠だと遥は確信した。

 ここで明かさなければ、一生、知る事が出来ない。そう察した遥は閉ざした過去を打ち打ち明けた。幼い頃、公園で出会った護が憧れの存在になった事も、高校性の時に告白をされ、交際していた事もクリスマスイブの発作の原因は護の母親を見た事によるフラッシュバックである事を嘘偽り無く話した。勿論、今の護との関係も。


「名前を変えた理由は?護さんに近づく為?」

「違います…。十年前ほど前の事です。私が高校一年の時、両親が事故を起こして帰らぬ人となりました。だけどその事故には犠牲者がいて。被害者は誰か分からないままですが。姓を変えたのは単純に叔母の、雨宮家に養子として受け入れてもらえたからで…。護に再会したのも偶然。それに護は私の事を覚えてなかったんです…」

「覚えてない?本当に護さんがいったの?」

「ここで嘘を付いても意味がありません。私も初めは月日の経過によるものだと、思いました。でも再会した時、護にはっきり言われました「幼い頃から結婚の約束をしている方が妻だ」と。桜子さん事は護のお母さんに聞いて知りました。でも高校生の時、護の口から桜子さんの事は聞いた覚えがなくて、逆に婚約者がいると知っていたら交際なんて、しません…」


 話を進めていき、桜子は一つの疑問を投げかけた。それは遥の姓だ。桜子は姓を変えた理由を勘違いしていた為、遥は速やかに訂正した。そして護の記憶が虚無である事も話した。護に記憶が無い。その事実に桜子は驚愕する。だが同時に辻褄が合った。婚約や結婚を反対していた護が意見を引っ繰り返した事だ。記憶喪失である事を護の両親が知り得ていたのであれば自分たちの都合に合わせ、改ざんをしていても不思議ではない。これこそ、桜子が抱いていた結婚の違和感の答えだ。


「あの桜子さん、私も一つ。桜子さんが倒れた時、お腹を押さえていたのが気になって…その、妊娠をしているんですか?」

「…妊娠はしていない、でも妊娠した事にして欲しいとお義父様に言われたの。お腹を押さえていた事は覚えていないけれど、あの時、酷く気分が悪かったから…。」

「そんな、酷すぎる…」

「きっと調査結果を得て焦ったのだと思う。でも承認するつもりはなかった。だけど断れなった」

「どうしてですか。護と桜子さんは夫婦ですよね、だったら妊娠なんて普通…」

「遥さんが護さんを忘れられないのと同じでね、私にも忘れられない人がいるの。可笑しいでしょ。それに私の父は県議員、つまり私は人質なの。今回の話も父の選挙が近い事をネタに脅されていたの」


 話が一段落すると、二人を再び沈黙が包む。だがそれを破ったのは遥だった。遥は確かめる必要がった。それが桜子の妊娠だ。例え、昔の想い故に始めた不倫だが本妻である、桜子が妊娠しているのであれば終止符を打つのが道理。だが桜子からの回答は意外なものだった。同時に遥の「夫婦だから妊娠は普通」という言葉に桜子は学生時代に交際していた優弥を思い出した。護との結婚が決まるまでの短い交際。それでも桜子にとっては思い出に変えられるほど、簡単なモノでは無かった。叶うならもう一度、話をしたい。浅はかな欲望が顔を出した。

 桜子の言葉に、桜子の立場を知った遥。全てが歪んでいる。何を、何処で、どうして。護の両親が執着するモノが分からなかった。しかし深く考える時間は無かった。護が一言、添えてドアをノックしたからだ。タイムリミット。ある意味、お互いに真実を知り得たがこの先、どう行動していいか、迷っていた。ドアを開ける護に「もう少しで終わります」と返答すると護は再び戸を閉めた。


「遥さん、最後にお願いが…いえ、取引をしましょう」

「取引ですか?」

「先程の話と護さんとの関係、黙っていてあげる。公言をしなければ信じる者は、たかが知れているもの。その代わりに優弥さんに、足立優弥に会わせて欲しい」

「…分かりました。退院されたら調整します」

「取引成立ね、ありがとう」

迷いに迷った桜子は遥に取引を持ち掛けた。桜子の取引に先ほどの忘れられない人の正体を知った。遥の答えはYESだ。こうして二人の間に秘密の契約が交わされた。


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