Act.2 ~雰囲気を変えて~
けして広くないワンルームマンション。バスとトイレ別、独立洗面所にコンパクトキッチンが設備され、一人暮らしには文句のない部屋だ。何より会社までの通勤路が地下鉄で乗り換えなし。
本社に異動となった際、部屋を探す暇がなかった遥は総務部が手配したマンションに住んでいる。もし気にいらない物件ならば暇が出来たタイミングで引っ越せばいいと考えていた。しかし用意された物件は想像以上のモノで引っ越すのを止めた。遥曰く、魅力ポイントは乗り換えなしで会社に行ける事。会社との距離はあるが、ひたすら同じ電車に揺られだけ。それで会社の規定内の家賃でこの広さなら満足以外ない。
勿論、遥なりに物件は探したが都会を舐めていた。そう住んでいるのと似た条件で探すも手が出せない金額だった。都会故に相場も高い。当然、愕然とした。
とある休日を過ごす遥は部屋着というラフな格好でミニソファーに腰掛け、読書。数少ない休日を満喫していた。手にしている本は「Y」という、覆面作家の小説。大学生の時、偶然にも立ち寄った書店で目に留まった作品。直感。と言うモノなのだろう。偶然、出会った本だが読み始めると、Yの作り出す世界に魅了された。以来、好んで購入している。
Yに関してはまとめサイトなどで日本人男性だと推測されている。が実際「覆面作家」と名乗っている為、公表はされてない。それでもYの作り出す世界は共感できる部分も多く遥にとって心の拠所になっていた。
――――――私には忘れられない恋がある。
そんな冒頭で始まる今回の新作。そこに登場する主人公がどことなく遥に似ている。読み進めると主人公が恋人を忘れるために髪を切るシーンが登場する。主人公の台詞はまるで自身に問われている気がして成らなかった。遥は自分の髪に触れ、少し考えた。そしてとある決心をした。
*◇*◇*◇*
「おはよう、愛梨」
「おはようございます…って先輩!?ど、どうしたんですか!!」
「変かな」
「変というか…」
「バッサリいきすぎだろ、失恋でもしたか?」
休み明け、出社する遥。スマートフォンを触りながら遥の挨拶に応える愛梨。ふと愛梨が顔を上げるなり驚く。何故なら肩甲骨下まであった遥の黒髪が茶色系のボブスタイルになっていたからだ。遥自身もここまで短くし、ましてや髪を染めるなど初めてだ。遥の後に優弥が出勤する。遥の髪形を見て冗談を言う。満更でもない遥は咄嗟に「イメチェンをしたかっただけです」と誤魔化した。
「足立課長、それセクハラですよ」
「いやいや、今の会話からしておかしいだろ」
「二人とも朝から元気だね」
「「元凶がそれを言う!?」」
その後も二人は冗談の言い合いをするが遥が口を挟むと二人同時に指摘を受けた。だが『イメージチェンジにしてはやり過ぎだ』。他にも理由があると悟り、遥を夕食に連れて行くように愛梨に頼んだ。愛梨は「勿論です」と優弥の提案に賛同し、通常の倍の速度で仕事に取り掛かった。遥は二人の考えが理解する事が出来ず、小首を傾げる。
*◇*◇*◇*
「先輩、何してるんですか!?」
「何ってどうしてもこれだけは終わらせたくて、残業の準備を」
「今日はノー残業デーです」
「そうだ、そうだ。月曜日から残業する奴がいるか。この位、俺がやっといてやる」
終業後、遥が残業の準備をすると優弥と愛梨が適当に理由をつけて、遥を無理やり退社させる。そして辿り着いたのは行きつけの店(バル・ハイド)。店内に入るなりカウンター席に座る遥。いつも使用している席で愛梨もつられて遥の隣に座る。
「いらっしゃいま、って遥!?」
「そんなに変なの?」
「いや、似合ってはいるんだけど、どうしてまた…もしかしてあの事が原因?」
「あの事って何ですか!?」
「何もないから!その愛読している本を読んでたら…」
「…感化されて髪を切りたくなったと」
「お恥ずかしながら」
「本に感情移入して髪を切るなんて先輩らしいですけど、先ほど咲さんが言っていたあの事とは何なんですか?」
「いや、だから関係ないって…」
「関係なくても気になるじゃないですか!もしかして営業課の人が関わっているんですか」
遥の髪型に咲も驚く。続けて発した咲の言葉に愛梨が反応する。愛梨を巻き込みたくないと髪を切るに至った経緯を本の影響だと誤魔化す様に説明した。理由を聞いて納得する愛梨だが、先ほど咲が発したあの事が気になり、問いただす。愛梨の勘は鋭い。常に最新情報を得る為、アンテナを張り巡らせているだけある。だが真実を話す事は出来ない。もし真実を明かしたとしても何もできない。遥と護の関係に関しては知る必要のない事。逆に今ある幸せを壊す行為に値する。
*◇*◇*◇*
「ついに恋でもしたか?」
「残念ながら既婚者に興味ありません、それとその手の質問はセクハラだって言いましたよ?」
「だから、なんでそうなるんだ」
「単にオシドリ夫婦の旦那様を見学していただけです」
翌日、護は応援のため本社を訪れた。だが普段は通らない企画部を敢えて通る様に営業部へ向かった。そんな護を見る愛梨。昨晩の二人の様子から何かあると掴んだからだ。護を見る愛梨に優弥が問うと冗談交じりに返答した。同時に優弥もあることに気付く。それは遥も護を見ていた事だ。
*◇*◇*◇*
「雨宮さん、ウチの落合が食事したいんだって」
「ま、前野先輩!?何言ってるんですか!!」
「そうですよ、前野さん。それにそんな事をしたら奥さんに怒られちゃうじゃないですか」
一ヶ月後。仕事の案件で護が所属する東京支店へ出向く事になった遥。髪を切った事で前より明るく振る舞う事が出来ている様だ。本の影響とはいえ護への想いを断ち切りたかったのは事実。以前、本社の廊下で鉢合わせた時と雰囲気の違う遥に護は自然と視線が行く。遥に見惚れている護に同部署の先輩がヤジを入れる。慌てる護。遥はその様子を見て交際をしていた高校生時代と何一つ変わっていないと、懐かしさを感じるがもうその表情は自分だけのモノではないと同時に傷付いてしまう。それを誤魔化す為に無理矢理話を終わらせた。遥の言葉に傷つく護。しかし何故なのか分からず、戸惑った。
*◇*◇*◇*
午後、護は東京支店に設けられている社長室にいた。本社以外にも各支店に社長室は設けられている。社長が各支店に赴いた際に利用する為だ。その社長室で会社を担う社長である父親と話していた。父親なりに若い二人を心配しているようだ。
「急に呼び出してすまない」
「いいえ、それより何かありましたか?」
「あーいや、仕事の話じゃないんだ。護も桜子さんと結婚してもうすぐ三年だろ、夫婦の時間を大切にしたいのは分かるが私的にはそろそろ孫の顔が見たいと思ってな、勿論これは二人のタイミングもあるだろうから口を挟まない様にしてたんだが」
「お父様の仰せられる事は承知していますが…」
「もしかして、いやそうであるなら早いところ病院に連れて行きなさい」
護と桜子が結婚をして三年。孫の顔が見たいと、遠回しに子どもを要求した。煮え切らない護の回答に不妊を心配した父親は桜子を早急に受診することを勧めた。仕事を終え、帰宅すると既に夕飯が出来上がっている。毎度の事ながら感心する護。
夕飯を終え、片付けをしている妻、落合桜子に話があると伝え、ダイニングテーブルに不妊治療を専門に行っている病院のリーフレットを差し出した。
「その、出すべきか迷ったんだが隠し事は良くないと思って。今日、父さんに呼ばれて子どもを催促されてしまって…結婚して三年が経つし、子どもの一人くらい居てもいいだろうって」
「護さん…。心配してくれてありがとう。近いうちに尋ねてみますね」
「夫婦なのだから当然。と言いたいのだけど、迷惑をかけてしまったね、そう言ってくれて助かるよ。父さんに関して、こういう時だけは言い返せないんだ」
「お義父様なりに私たちの事を心配されているのよ。私こそごめんなさい、その…期待に答える事が出来なくて」
「桜子だけが背負う必要はない事だ、ひとまず何処を受診するか決まったら教えてくれ」
「ええ、勿論」
翌日、桜子はある場所にいた。俗にいうレディースクリニックだ。ただ茫然と順番が来るのを待つ。昨日の今日で行動が早い。そう捉えられても仕方ない。ただ今日が予約日というだけ。偶然とはいえ、昨日の話はタイミングが悪かった。桜子自身かなり驚いた。まさかこのタイミングでくるとは。考えても見れば婚約者同士で若い二人が結婚をして三年も経つのに子一人いないのは世間から見ても違和感を覚える。
そう桜子は医師の指導の下、避妊をしている。子どもが欲しくないわけではない。単にこの結婚に違和感を覚えているからだ。その違和感とは「婚約は名ばかりのモノだから俺は桜子とは結婚しない」と高校に上がる前、護は桜子に伝えていた。だが高校一年の夏休みを過ぎた頃、護が心を入れ替えたように「結婚をする」と言いだした。あまりにも突然の出来事。違和感を持たない方がおかしい。しかし護の一言で結婚は決まり、全てが仕組まれているかの様に順調に事は進んでしまった。それが解決するまでは子を成すわけにはいかないと考えている。子を成してしまえば取り返しのつかないことになってしまうのではないか。そう思っているからだ。勿論、この事実を知るのは桜子の主治医のみ。両親や護らには内緒だ。
その日の夜。桜子は護が推薦した病院の一つに行くことを明らかにした。偶然にも候補の中に現在、通院している病院があった。これならば医師とも口裏が合わせられる。そう考えたのだ。桜子の決意に嬉しそうにする護。その笑みに桜子は酷く、良心の痛みを感じた。
*◇*◇*◇*
「この前、普通に護と話せたんだ。でも、愛梨と来た時は焦ったよ」
「あーほんと面目ない、つい口が滑って…。で、髪を切ったって事は吹っ切れたと捉えていいの?」
「自分でも馬鹿だなって思ってる、髪を切ったくらいじゃ無理だよ。だって、今の落合護は私を知らないんだから。ま、これを知っているのも咲だけなんだけど」
同日、夜。遥はバル・ハイドでお酒を飲みながら過ごしている。ロックグラスに注がれたウイスキー、ロック氷を指で遊ぶ。遥と咲の他愛もない会話。だがそこに登場する護という人物。遥と同じ会社に勤めている落合護ではなく高校の同級生だった落合護話だ。
横浜に越してきてすぐの事だ。社内で行われた研修会で護と話す機会があり、遥は 「前園遥を覚えていませんか」と問いかけた。しかし護の口から出た言葉は「知らない人」だった。その言葉に遥は感づいた。ああ、護は私の事を覚えていないのだと。果たして記憶が無いのか、単に時の流れで忘れているだけなのか。その時は分からなかった。記憶喪失だと核心を得たのは護の左手薬指に光る指輪を知り、後に護の取り巻きをしている女性社員らが「幼い頃からの約束で婚約していた女性と結婚されたそうよ」と言う話声を聞いた時だった。
*◇*◇*◇*
「やっぱり、納得いかない」
「咲ちゃん、ひと時の感情に流されていけないよ」
「でもマスター!!」
「咲ちゃんの言うことは分からなくはない、けれど真実というのはいつだって残酷なんだよ。知らないほうが幸せな事もある」
「だとしても遥には幸せになって欲しいの、本当の意味での幸せに。たった一人の親友だから」
遥が店を出た後、看板をcloseに変えた。片づけをしながら咲はマスターに話しかける。だが返答に反論が出来ない。悔しさを噛みしめ、学生時代を思い出す。極道の娘というだけで在りもしない噂が流れていた。故に人を近づけさせまいと態度や言葉を悪くしていた。そんな咲に唯一、笑顔で接した同級生。自分の立ち位置が好きになれなった咲。「咲に守りたいものが出来た時、きっと東城組は無駄にはない」と中学生の頃、父に言われた事がある。東城組を使ってでも友を守りたいそう思える人。それが遥だった。それは咲にとって大きな成長だった。守れる力がある。覚悟を決め、悟った矢先の出来事だった。夏休み明けと同時に遥の転校を知った。
高校を卒業した咲はある日、父親の部屋に忍び込み、ある書類を見つけた。まるで見せる為に用意された茶封筒。その中身は二枚の契約書と新聞記事のゲラ刷りだった。契約書の一つには 先十年、落合家の護衛をとし、如何なる犯罪にも目を瞑るというもの。もう一つはどんな違法も金さえ積めば仕事を行うと有名な悪徳業者の仲介人となり、報酬として五千万円を受け取るというものだ。最後に残った新聞のゲラ刷りは咲が高校一年生の時、七月の三連休に四人の死傷者が出た交通事故のものだった。
これは咲の憶測だが、流れる前に落合家に頼まれた父親が差し押さえた物。一番不幸にしたくなった、させたくなかった人を不幸にさせてしまった。当時の咲は悲しみを通り越し空笑いをしたのを今でもはっきりと覚えている。
遥との再会は偶然だった。だから今度こそ守りたいと自分自身に誓っている。
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