Act.1 ~はじまり~


 日も傾き始め、今日という日に終わりを告げようとしている、梅雨真っ盛りの横浜。オフィスビルがいくつも立ち並ぶ一角に雨宮遥あまみやはるかは、仕事に精を尽くしている。歳は今年で二十六になる。彼氏は、いない。正確に言うと高校生の時に交際していた異性はいたが家庭の事情で自然消滅してしまった。

 そんな遥が勤務する会社は大手商社に入る程のもの。遥は今年の三月に人事異動があり、日本の西端、長崎の営業所から関東圏に越して来た。十年とは短いようで長い。街並みは未来に対応していく様に変わっていた。

 何故、十年かというと、高校一年生のある時期まで遥は横浜に住んでいた。それが家庭の事情。その後、長崎に越した。というわけだ。長崎で必死に勉強し入学した短大を卒業して早六年。

 遥が入社した会社には斬新な企画があった。毎年行われるその企画の主催は社長や役員ではなく 会長だ。企画の趣旨は企画を通して社員の考えている事を読み取るという。気軽に参加できる制度で、人によっては鬱憤晴らしに使う者もいると聞く。企画事態、かなり面白く、遥が勤務していた長崎営業所ではいつも話題になる。

 無駄と言ったら卑下になるが、小さな営業所だけあって団結力があり、企画の参加も積極的で毎年、参加必須。そして去年開催された企画で遥の斬新な一言が会長の目に留まり、一つの問題が起きた。それは「営業事務をしているのは勿体ない」と異動の話が浮上してしまった。

 そんな遥の新しい所属先は横浜本社にある企画部営業企画課だ。企画部とは書いて字の如く。新商品をはじめ様々な事業を企画するのが主だが企画営業課は少し違うところもある。ただ企画するだけではなく営業部の アシスタントだ。アシスタントといっても助けるではなく協力し合う事。だと着任当日に同じチームで業務を行う三歳上の足立優弥あだちゆうやが教えた。三十歳手前だが課長という立場だけあって、優弥の説明はとても分かりやすかった。

 何より企画部は外部の人との接点が少ない為か女性社員は皆お洒落にかなり力を入れている。化粧ネイル、髪の色や髪形。『いったい準備に何時間かけているのだろう。一体いくらかけているのだろう』そう思うのは遥が長い間お洒落と無縁だったからだろう。

 以前の営業所では事務といっても外来者の応対などもあった為、肩甲骨まである長い黒髪は一つにまとめ、ネイルもしていない。服装もよくある事務員服だ。その癖が抜けず異動してから三ヶ月が経つというのに遥の格好は硬いまま。言うまでもないが新しい職場では浮いている。しかし遥は安心感得ている。今までと似た格好で仕事をしていたのもあるがそれ以上にお洒落に興味を持てず、してこなかった。そんな遥に優弥ともう一人のチームメイトである、二歳下の後輩、高槻愛梨たかつきあいりは「そういうのも斬新でいい」と言いつつ、笑みを零していた。

愛梨と優弥。二人と仕事をするのは楽しいと感じている遥。愛梨も入社して三年目だが優弥と二人だけのチームで仕事を熟していた強者。だが優弥と愛梨の仲は良いものではない。異性同士。相談等、出来ない事も多々あったのだろう。遥の異動を待ちわびていたと愛梨は言った。小悪魔のような見姿をしているが、遥には小悪魔というより、人懐っこい子犬に見えた。勿論、本人には秘密だ。小悪魔な愛梨も好きだからだ。

 例えば、もし親しくなった人だけに見せる姿だとしたら。何より今まで経験した事の無いもので溢れており、覚えるのに必死だった。それでも楽しいと思えるのは環境がいいからだろう。こういう会社は現代社会において、とても貴重な事。入社できた事に遥は感謝をした。


*◇*◇*◇*


「ねぇ、落合さんが来てるって」

「え!?うそ!!挨拶しなきゃ!!」


 着々と日報を進める中、何やら廊下が騒がしくなった。原因は東京支店の営業部に所属する落合護おちあいまもるが本社の営業部に訪ねて来たからだ。数年に一度の優れものと高評価を得ている護はこの会社の社長令息。少し高めのスーツを着こなし、左薬指にはめた指輪も体の一部にしてしまっている。仕事が出来て顔もいい。更に最愛の妻を大切にしているという面が好評なのか社内ではかなりの人気者だ。


「結婚をしているのにどこがいいのか」

「目と心の保養ですよ。ま、私は苦手なタイプですが」

「苦手?落合さんが?」

「はい、なんかいかにもっていう所が逆に信用できないというか、そういう意味では足立課長も同類ですが」

「都会って怖いね。…てか愛梨って容姿に合わず結構言うよね」


 遥には到底理解が出来そうにもない光景だ。しかし愛梨の力説にどれだけ良い会社であっても全ての社員が分かり合えるはずもなく、いくつかのいざこざは当然ながらにある。そのストレスも計り知れない。例え、既婚者であっても一線を越えず 保養という面では拝む事も必要な事なのだろう。

 それでも到底、理解は出来ない。一線を越えなければいい、目と心の保養。本当にそれだけなのだろうか。十年という年月はあまりにも長く、身も心も様々な意味で遥を成長させた。

 ましてや人を疑う事など昔ではありえない。これも全てあの事故が関わっているのかと思うと小さくため息を零した。


*◇*◇*◇*


「こんばんわ…」

「遥、いらっしゃい!!」

「えへへ、また来ちゃった」

「定休日とランチライム以外なら大歓迎だよ」


 ある日の仕事終わり、遥は以前、愛梨に紹介された店を訪れた。控えめに扉を開けた筈だっただが遥の声に気付いた店員の咲は元気な一声で出迎えた。

バル・ハイド。みなとみらい駅の徒歩圏内にあり、昼はカフェ、夜はバーとして営業している居酒屋の一種だ。店内はとても静かでお洒落。さらに一部メディアの取材を断っている為、知る人ぞ知る隠れた名店。

 実際に出される料理もお酒も美味しく、遥と愛梨にとって憩いの場だ。そんな遥が驚いたのは初めて愛梨にバル・ハイドを紹介された時の事だった。


さきさん、こんばんわー」

「愛梨、いらっしゃい!今日も一人?」

「残念、今日は一人じゃないんだ」

「お、ついに恋人が出来たか?」

「ぶっ、ぶー!まぁでも、恋人並みに嬉しい人かな。この前、異動してきた雨宮遥先輩!今期から一緒に働くの!」

「雨宮…?って遥!?」

「嘘、咲!?」

「えー、と…二人はお知り合い?」


 咲というのは先程、遥を出迎えた店員だ。実は同じ高校に通っていた同級生で姓は東城とうじょう。この再会は奇跡に近い。十年間、音信不通だったが咲は遥を覚えていた。その嬉しさで思わず涙が止まらなかった。その日はお互いに知らなかった十年間の話で盛り上がった。ちなみに驚いていたのは遥だけではない。愛梨も同じくらい驚いていた。その理由は遥の地元が長崎ではなく横浜だという事。

 何故、愛梨が勘違いをしてしまったかというと遥が異動前に勤めていた営業所が関係していた。入社から異動まで自宅のある長崎営業所に勤務していた。問題はそこではない、異動して一ヶ月以上も経つというのに愛梨や優弥に出身地等の話をしてなかった。遥は「特に聞かれなかったから話さなかった」と謝罪をしたものの勘違いを生んでしまった事に酷く反省した。

 しかし愛梨も一つ、納得した部分もある。それは遥の話し方だ。地方から異動して来た割には遥から発せられる言葉は標準語。愛梨も偏見だと思っていた部分もあり口にはしなかった。つまり、話をしていない=入社から前期まで勤めていた場所が地元だという勘違いがお互いに生じてしまった。所謂、コミュニケーション不足そのもの。

 そして今日、遥がバル・ハイド《ここ》に来た理由は咲と話したい事があったから。しかしお酒を飲みすぎてしまい、話の半分で寝てしまった。眠る遥を見つめる咲。咲には遥に話していない秘密がある。 人情第一を掲げた東城組と言うという名ばかりの反社会的勢力の娘という事だ。何故、秘密にしなければいけないのか、初めはタイミングの問題だった。しかし今は違う理由で明かす事が出来ない。

 二人の出会いは高校の入学式に遡る。遥が入学した高校で同じクラスになった二人。他人を近づけさせまいと放つ雰囲気でクラス中、いや学校中から一目置かれていた。


「あの、私…遥って言います。良かったら仲良くしてください、えっと…東城さん?」

「…私に話しかけるなんて、勇者だね。…気に入った」

「へ?」

「だから、これからよろしくって事。それと私の事は咲って呼んで」

「うん、よろしく咲」


 咲の放つ雰囲気を気にもせず話しかけたのが遥だった。そんな遥に腑抜けた顔を晒した咲。初めて出来た友達だからなのか、出会った時から咲は遥を守りたいと思った。高校を卒業するまでには極道のこの秘密である事を明かそう。例え遥が距離を置いたとしても。そう心に誓った。しかし卒業をする前に遥が転校をしてしまい、明かすことが出来ず、今に至るというわけだ。更に今話せない理由は今後を左右する事に近い為、遥と再会した時にマスターに口止めをされている。遥の頭を愛しそうに撫でる咲にマスターが声をかける。何を言われるか分かっている咲は「大丈夫、分かっているから」と悲しげな表情を見せた。


*◇*◇*◇*


「ちょっと先輩、大丈夫ですか!?」

「おはよう愛梨、うーん、大丈夫ではないから大声を出さないで」

「平日のど真ん中から二日酔いとは、いいご身分だな」

「面目ないです」


 翌日、二日酔いが収まらないまま出勤した遥。当然、心配する愛梨。口は悪いが優弥も心配している様に伺えた。

 一つ腑に落ちない点が遥にはあった。それは酔いつぶれるまで飲み明かした遥が目を覚ましたのが自分の部屋だと言う事。同時にベッドの傍に設けたサイドテーブルに置いてあった『起きそうになかったので勝手にカギを借りて開けて入ったよ、カギはポストに入れておくね』という咲の書置き。内容を見る限りこれが男なら確実に惚れていると胸を締め付けられる様な感覚に囚われた事。きっと酔っ払いながら住所を教えたのだろう。でなければ教えた記憶の無い自宅に送り届ける事など出来ない。相当な迷惑をかけたと盛大にため息を吐きつつ、朝の事と同時に『普段はこんなになるまで飲まないのに、やっぱりあれは思っていた以上に打撃が強かったのかな』と飲み過ぎた原因を思い出す。そんな遥は少しでも二日酔いを和らげようとひたすらウォーターサーバーの水を飲む。

 その後もローペースで仕事を進めつつ、原因になりそうな事を振り返る。思い浮かぶのは数日前の休日。愛梨と一緒に東京観光と称して休日を満喫していた時の事。偶然とはいえ護とその妻らしき人物が仲睦ましそうにいる所を見てしまった。夫婦なら当然の事。それが何故、二日酔いになるまで飲んでしまう程、傷ついたのか。その答えは単純明細。遥は護を知っている。しかも顔見知りのレベルではない。

 高校生の時、数か月だったが遥と護は交際をしていた。家庭の事情で自然消滅した恋人、それが落合護だ。遥と護は幼馴染で同級生だ。しかし経歴や血筋を重んじる護の両親に交際は反対されていた。社長令息に当たる護には遥よりも相応しい相手がいると護の母親に言われたのを未だに覚えている。

 つまりはその相応しい人が数日前、目にした結婚相手という事になる。けして貧乏という訳では無かったが血筋や経歴と言った枠に当てはめられると遥は極一般的な家庭の子どもになる。それ程までに大層な人を好いてしまい、同時に共に歩めない事が酷く、辛く、感じた。一概にそれだけが原因ではが遥は護と妻の幸せを素直に喜べるはずもない。何より家庭の事情といえ、急な転校により護との仲は自然消滅を余儀なくされた。

 そして空白の数年の間、何があったかは知る由もない。だが護は結婚していた。それだけは覆す事の出来ない事実。それが二日酔いになるまで飲んでしまったあの事に繋がる。


「遥先輩、顔色良くなりましたね」

「本当?確かに頭痛、気にならなくなったかも」

「でーも、やっと遥先輩と話せと思ったのにこれから雨なんて、気分が沈みます」

「雨?言われてみれば外、暗くなってきたね」


 二日酔いも大分収まり、溜まった仕事を着々と取り掛かる。その日は午後からの予報は雨。予報は見事に的中し、雨の降る水曜日となった。悪天候を嘆く愛梨を他所に遥は窓ガラスを叩く雨粒を見つめていた。そんな遥を見た愛梨は美しいと認識した。


*◇*◇*◇*


「ではこの書類、お預かりしますね」

「雨宮さん、悪いね」

「いえいえ、これも仕事ですから」


 動けるようになった遥は書類を受け取りに営業部へ行っていた。その帰り道、出会い頭に護とぶつかり書類をぶちまけてしまった。敏腕と呼ばれるだけあるのだろう、所属しているのは東京支店だがよく応援で本社に来ている。今日もその日だった。


「すみません、他事を考えていて、まもっ…、落合さん」

「いえ、自分も前を見ていなかったので」

「そういえば下の名前知っていたんですか?でも周りからは落合としか呼ばれないので新鮮で」

「あ、いえ…はい」


 護は散らかった書類を拾う。目線が合い遥は胸が詰まるような感覚に襲われる。知らない香水。空白の数年が酷く長く感じる。何より想い人が至近距離にいることが辛くなる。ああ、凝りもせず、好きのままなのだと遥は思い知らされる。


「あ、あの、書類ありがとうございました。先を急ぎますので」

「あの!良ければ名前を!!」

「き、企画部の雨宮です、では失礼します」


 早くこの場から立ち去りたい、その思いは行動に出てしまった。失礼ではなかっただろうか、後悔先に立たずとはこの事なのだろう。



 仕事を終わらせた遥。二日酔いの事もあって、残業はするなと優弥に言われ強制的に定時で帰らされた。遥は気づいていないが横断歩道の先には営業先から帰ってきた護がいる。護はふと顔を上げる。雨の中、佇む遥に目が行く。儚げな表情がどこか懐かしい気がした。そこまで親しいわけではない。不思議な感覚に戸惑う護。信号が青になり前進する。すれ違う二人。一瞬だったが遥の香りがやけに鼻に残る。

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