10
「小夜。時間が止まって欲しいと思ったことはある?」
急にそんなことを稲田先輩は言った。
「あります」正直に小夜は答える。
小夜は綾川先輩が卒業しないで、ずっとあの日のまま、綾川先輩が自分のそばにいてくれたら、とそんなわがままなことを本気で思った。
「私もある」稲田先輩は言う。
「え? 先輩も、ですか?」小夜は言う。(それは小夜にとって、とても意外な言葉だった。あの強い稲田先輩なら、そんなこと絶対に思わないと小夜は思っていた)
そのことを小夜が言うと「私だって、そういうこと、思うことだってあるよ。後悔だってするし、人生をとまではいかないけど、あのときのことをもう一度やり直したい、やり直せたらどうなるだろうって、思うことはあるよ。すごくたくさんある」とふふっと笑いながら、言った。
「でもね、時間は止まってはくれないよ」
そのあとで稲田先輩は言う。
「だから、今を精一杯生きなければいけない。毎日を頑張らなければいけないんだよ。後悔しないために。自分と、自分の大切な人たちのために。……もちろん、間違いはある。失敗だってたくさんあるけどさ。そういうことを、なんていうのかな、きちんとしたいって思いんだよね。納得したい。自分は頑張ったんだって。限界まで努力したんだって、そう思いたいんだよ。あと、綾川くんとかさ、小夜にも、私のかっこいいところを見せたいと思うし、そういう私を覚えていて欲しいって、思ったりもするんだ」
そんなことを稲田先輩は受話器の向こう側で言った。
そんな稲田先輩の言葉を聞いて、小夜はなんだか、すごく泣きそうになってしまった。(と言うかちょっと小夜は泣いていた)
「どうしたの?」稲田先輩が言う。
「ごめんなさい。稲田先輩がそんな風に、自分のことを、自分の気持ちを私に正直に話してくれるなんて思っていなかったから、……ちょっと感動しちゃいました」自分の気持ちを正直に話して、小夜は言う。
「小夜」
「はい」小夜は言う。(小夜はいつの間にか、その姿勢を正座にしていた)
「あなたは自分が思っている以上に、この一年で成長したよ。なんていうか、ずっと素直になった。あのころのあなたは今ほど、素直じゃなかった。そうは思っていなかったともうけど、ずっとずっと頑固だった。だから、よかったって思ったの。今の小夜になら、ずっとずっと、私の本音を話せるってそう思ったんだ。つまり、なんていうか、大人になった、ってことかな?」
「大人ですか?」小夜は言う。(そんなことは全然自分では感じていないことだった)
「うん。きっとさ、恋をしたからだね」
「恋を?」
「そう。『本当の恋を』」そう言って稲田先輩は受話器の向こう側で笑った。
「ねえ、小夜。あなた『自分が今、本当は誰に恋をしているのか?』 自分で気がついている?」
その稲田穂村先輩の言葉は、かすかに小夜の心を揺さぶった。
それから小夜は思った。やっぱり、稲田穂村先輩は、今も、私の憧れた、あのなんでもすべてを見通しているような、そんなかっこいい稲田先輩のままなんだって、そう思った。
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